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 サイレントニャーニャー

 風息がひとりで相槌を打っていると思ったら、小黒が彼の膝に乗っていた。ふんふんと興味深そうに子猫に頷いている風息を後目にしながら、無限は風息の座るソファの斜め横にある食卓の席に腰かける。無限には風息の独り言としか思えないのだが、実は小黒も喋っているらしい。
 それを知ったのはつい最近のことで、それまでは無限は小黒を無視すると度々文句を言われていた。初めての時などもっと酷く、突然無限の脇腹にぶつかるように飛び込んできたと思えば、どうして自分を無視するのかと涙ながらに訴えられて無限は困惑するしかなかった。
 この世に生を受けて四百年に四半世紀を足してまだ足りない。それだけ生きれば耳の一つ衰えてもおかしくはないと思ったが、弟子以外の声を聞き逃してしまうこともないのだ。なぜよりによって小黒の声が聞こえないのか随分長い事悩んでいたのだが、どうやら猫の生態が関与しているらしい。
 猫は人間が聞き取れない音域の声を出すことができるとのことで、小黒は知らず知らずのうちにその音域で無限に喋りかけていたようだった。人間という種の限界の問題であって決して無限が悪いわけではなかったが、得も言われぬ罪悪感が湧き上がってケーキを用意してから説明の場を設けた。
 頬にクリームをつけたままきょとんとした小黒は音もなく黒猫の姿に戻る。それから舌で毛並みの上に残ったクリームを拭って、あくびめいた口の動かし方をした。それから本当に聞こえないの、と今度は無限に分かるよう不思議そうに口にしたのだった。
 本当に聞こえないと無限が答えると、元からどんぐりのような眼をまん丸にして酷く驚いたらしい。ぴんと伸ばした尾の先端をすぐにくにゃくにゃと曲げながら、小黒はしばらく無限に聞こえる音と聞こえない音を織り交ぜながら確かめるように鳴いていた。
 風息には猫の音域が聞こえると分かったのは、それからしばらく経ってからだった。居間で電話をしているのかと思って後ろから覗き込んだところ、きょとんとした小黒と目が合った。それから何事かと見上げてくるソファの風息を見て、ようやく彼が野生の獣でもあることを思い出して合点がいった。
 それからというもの、彼らはたまにお互いにしか聞こえない声で話をする。単なる雑談なのかもしれないが時々混じる空気をくすぐるような風息の笑い方から、ふたりにとってちょっとした特別な時間となっているのは無限にも分かった。
「ふたりは何の話を?」
 とはいえ、彼らがいつもどんな話をしているか気にならないというと嘘になる。無限の前で堂々と判然としない話を繰り広げるふたりに問いかけると、ぱちんと瞬きを一つして視線がこちらに注がれた。それから小黒が風息を見上げて、ふわりとあくびのように口を動かす。それを見届けた風息の口元がゆるりと緩む。
「内緒!」
 それからふたりが人好きする一方で、いたずらっぽい調子も混ぜ込んだ笑みを浮かべて揃って無限に言い放つ。きっと大事な話をしているなんてことはなくて、小黒は風息とだけの秘密の交歓ができるのが楽しいのだろう。風息は風息で非日常めいた行為を楽しむ小黒が可愛らしくて付き合っているはずだ。
「人間を疎外しようとする悪い妖精がいるようだ」
「おっと、館に報告を上げる前の自己判断に基づく緊急性のない執行は不当行為だぞ」
 それでも二人から仲間外れにされた疎外感は否めず椅子から立ち上がりながら大げさに言えば、愉快そうに風息が煽ってくる。どちらも本気でないのは分かっているらしく、小黒は風息の膝の上で双方を窺うことにしたようだった。
 どうしてくれようか少々考えて、友好の証しと言えば抱擁だと一人で勝手に結論づける。ふたりを取り逃がさないようにイメージしながら腕まくりをすると、不穏な気配を察したのか小黒に手を添えて風息が退避の姿勢に移ろうとした。そんな彼を小黒ごと取り押さえようと無限は早急に距離を詰めながら、無限は大きく腕を広げる。
 突然の無限の動きに判断が遅れたらしく、ふたりは簡単に無限の腕の中に納められてしまった。無限の意図に直前になって気づいたらしい風息の驚愕の表情を思い出してからからと笑う声が、主に風息の引き起こす騒ぎに飲み込まれる。
 やっぱり私にも聞こえた方が嬉しいよ、と余韻が残ったふわふわした声でふたりに伝えたが、果たしてちゃんと聞き遂げられたかは今は神のみぞ知るである。