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 ここにいること

 小黒に会った。天虎と洛竹にも会った。ふたりよりも先に小黒に会ったのは、彼が館に拘束される立場になかったからだった。小黒の懇願に折れた大人達の一人だったらしい無限が渋々といった様子で小黒を連れだって姿を現した日のことは今でも鮮明に思い出せる。
 何も知らなかった天虎と洛竹は早々に解放となったようだった。巻き込んでしまったという気持ちが強かったので安堵する一方、大概館は妖精に甘いという感想を抱いた。だからこそ風息の処遇も長きに渡って宙ぶらりんにして、龍游での一幕を招いてしまったと言えるのだろう。
 計画を子細に把握していた虚淮とはまだ顔を合わせていない。聞くに、彼はまだ風息と同じく氷雲城にいるらしい。ここにいてはできることもできないだろうに、と氷雲城の妖精から指摘されることもあった。それは確かに彼の言う通りで、自分も虚淮もやや意固地になっているのかもしれない。
 風息にだって分かってはいる。たとえ自由を制限されていようとも、外に出ればできることはたくさんあるはずだ。その中には、妖精のための働きかけも含まれているかもしれない。
 けれど、風息はその手段が見つけられないままでいた。どうすれば自分達が求める未来を描けるのか、その方針が定まらないままでは今までの方法に後ろ髪を引かれるばかりである。そんな精神状態ままではさすがの館も風息を外に出す判断に踏み切ることはできないだろう。
 焦りがないと言えば嘘になる。結局のところ、あの衝動に身を任せきれなかった風息は妖精達の世界を諦めきれていないということだ。それなのに風息はずっとこんなところで何もできず蹲ったままになってしまっている。これでは何のために死にそびれたのか分からないではないか。
「虚淮との面会をする気はあるか?」
 定期的にやってくる小黒に付き添う無限が子をつけるには随分背が伸びた黒猫だけを面会室の外に出して帰ってきたと思えば、開口一番に尋ねてきた。なぜわざわざこの男が確認してくるのかと訝しんだが、施設の妖精も風息を無暗に刺激しかねない質問だと警戒しているのかもしれない。
 長く氷雲城にいるせいで風息は看守達とも随分と気安い関係になってしまっている。口が緩んだ彼らから外の話を聞くことも多かったものの、虚淮の話題はさすがに避けられているようだった。
「別に、あなたが今更暴れるなんて誰も思ってはいない」
「どうだか」
 剣呑な視線を寄せてしまっていたのか、自分が連絡役に選ばれた意図はそこにはないと無限が告げる。少なくとも無限も最初その可能性を考えたということなのではないかと思ったが、荒事の対処を仕事の主とするのだからそういう思考になっても仕方ないのかもしれない。
「話したくなってしまうからと言っていた。虚淮については話せない事も多いんだろう。その点、私はお前に彼について話せる事もないから安心だというわけだ」
「本人に会わせたら一緒だろう」
 事前に誓約くらいさせるんじゃないのか、とさほど興味もなさそうに告げる無限に他人事だなと毒づきそうになって風息は慌てて口を閉じた。小黒のこともあって顔を合わせる回数は少なくはないものの、無限と自分は正真正銘の他人である。その相手が古馴染みと数年ぶりに顔を合わせると言われても、関心が湧かなくて当然だ。
「それでどうする?」
「館の方針転換なのか?」
「詳しくは聞いていないがそういう事だろう。随分長い間膠着状態だと聞いている。確かに考えろとは言ったが、どれだけ考え込むつもりなんだ」
「お前、いけしゃあしゃあと……」
 殴って許される環境なら殴っていたと拳を作って訴えると、さすがにそれはごめんだと無限が返す。ほとんどそんな機会はないが、小黒を連れ立たず風息に顔を見せる時の無限は随分と印象が異なる。落ち着いた穏やかな様子は少々影を潜め、根無し草特有の飄々とした調子が顔を出すのだ。
 無限はいつかは風息を館に取り込みたいと考えているようだったが、さりとて風息のご機嫌取りをすることは一切ない。風息を思うがままにしたいのであれば相応の努力をしてみたらどうかと伝えたことがあるが、そんな得方をした者に背中を任せる事態に陥るのは避けたいと素気無く断られた。
 小黒に接するように対応してほしいとは思わないので及第点ではあるが、好き放題言われて腹が立たないはずもない。かといって彼に甘言を使ってもらいたいわけでもないのだから、この状況に甘んじるしかなかった。
「ひとりでは見えないものも見えてくるかもしれない。悪い提案とは思わないが」
「お前達に都合が悪いものが見えるかもしれないぞ」
 時間をかければ諦めがついたものが、変に急かすせいで本当に捨てられなくなってしまうかもしれない。その覚悟を決めてしまう可能性は風息自身にも否定はできなかった。
「その時は一生ここにいてもらうことになるかもしれないが、それは今の状態でも同じことだ」
 お前が頑固で意志が固いのは何十年も前から知っている、と無限が緩く眉間に影を作りながら口にする。この物言いだと、このままでは風息が何十年と氷雲城に居座ると館に思われているのかもしれない。ここ二、三年同じ場所を堂々巡りしている感覚でいるので、鼻で笑うこともできなかった。
「分かった。受ける」
「うん、伝えておこう」
 もう用はないとばかりに背を向けようとした無限がああ、と気の抜けた声を上げる。風息も面会室にいる理由がいよいよなくなって椅子から腰を上げた瞬間だったので、一瞬妙な姿勢で固まってしまった。
「風息」
「なんだ」
 振り返った無限が風息に呼びかけるまでに姿勢を正して応じると、一瞬無限が風息から視線を外した。それから少々考える様子を見せてから、うん、と微かな相槌のような音を出す。
「良い話ができるといいね」
「……ああ」
 どうやら、そんな簡単な言葉をわざわざ時間をかけて探していたらしい。なんだか馬鹿馬鹿しくなって気の抜けてしまった風息の返事を聞いた無限はひとまず満足したようで、今度こそ小黒の下に帰っていった。
 面会の日取りが決まったのはそれから半月ほど時間を置いてからだった。囚人同士の面会にややこしい手続きが必要なのか、人員配備の問題だったのかは定かではない。ひょっとしたら、虚淮が難色を示した可能性もなくはないのかもしれない。
 今まで会った相手には全員に泣かれてしまっていた。小黒と洛竹は泣きながら怒っていて、天虎はただべそべそと泣いていた。会う前から泣かれてしまうのではないかと思っていたから、そう慌てずに対処できたと思う。
 そりゃあ、良好な関係にあった兄のような存在が自死しようとして失敗したと聞いて、冷静でいられる者などそういないだろう。小黒の場合は一言では言い表せない関係になってしまった上に、生まれ落ちてすぐの子が見て良いはずがないものを見せてしまった。自分がその頃に似たような目に遭ったとして、冷静に対峙できるとは思えなかった。
 彼の、虚淮の場合はどうだろう。何度も思い浮かべた問いかけを風息は再度自分に投げかけてみる。今回も一番に思い浮かんだのは、ぽつぽつと叱責を寄こしてくる虚淮の口元だった。
 風息の突発的な行動に呆れているかもしれないし、事を起こすと決めたのに随分と無責任な幕引きをしようとしたと咎められるかもしれない。昔から風息が突飛で危ない事をしでかしたときは溜め息を一つついてから、それがどんなに危ない行為だったのかを淡々と説明してくれた。
 今回もそんな風に叱られるのかもしれない。危険行為という意味ではあれ以上に風息が命を危険に晒したことは未だかつてなかったのだから。
 けれど、一方で案外何事もなかったかのように応じてくれるかもしれないと思う気持ちもあった。龍游を出て潜伏場所を探している際に色良い成果が得られないまま風息が萎れて帰ってきた時のように、気安く出迎えてくれるかもしれない。風息の不手際を何一つ責めることなく、そういうこともあると言ってくれるのではなかろうかと期待半分で思ってしまう。
 風息が喋ってはいけない事はこれといってないらしい。しいて言うのであれば、再計画の示唆や具体的な話を振らないこと。仮に風息がもう一度同じやり方をしようとしていたとしても、四方八方から監視されている状態でしたい話とは思えなかった。だからこそ向こうも特に制限をするつもりはないという判断なのだろうが。随分と自由なものである。
 磨かれた廊下を歩きながら、少々あやふやになってきているはずの虚淮の声を思い出す。洛竹の時も天虎の時もそうだった。自分では鮮明に覚えていると思っていたのに、実際に聞くといつの間にか彼らの声を自分の中で変質させてしまっていると気がついて随分驚いた。
 だから自覚はないものの、虚淮の声も同じなのだと思う。彼の本当の声を聞けるのは素直に楽しみで、ならば小言の一つや二つ乗り越えてやろうというものだ。
 通される部屋はいつもとは違う面会室らしく、見知らぬ道のりを歩かされている。獄中の妖精同士の面会なので、普段より監視を厳しくする必要もあるのかもしれない。辿り着いた先には顔見知りの看守がいて、今一度注意点と制限を説明してからすでに虚淮が中にいると教えてくれた。
 気配を探ってみようとしたが、部屋には遮断の術が施されているらしく誰かがいることすら分からない。この部屋が特別というわけでもないが、何年経ってもほとんど無意識でやってしまう。長きに渡る逃亡生活の中で身に付けた習慣はなかなか抜けてくれそうにはなかった。
 風息が一つ大きく深呼吸するのを待って、看守が扉を開けてくれた。もう一つ息をしてしまえばいらないことを考えて足が止まってしまいそうで、風息は慌てて部屋に飛び込む。
 初めに聞こえる音は入ってきた扉が閉められる音だと思っていた。懐かしい水色が見えたと思った途端、がたんと大きな音がして全身が硬直してしまう。
 ――虚淮が。虚淮が風息を見ていた。彼は普段から瞼を落とし気味にしているせいで、時折眠そうに見えてしまう。その眼がまるく見開かれているせいで、普段はあまり目立たない彼の目の大きさが良く分かった。安物の椅子が床に倒されていて、彼が勢いよく立ち上がったことを教えてくれている。
 それから少し遅れて戸が閉まる音がして、それをきっかけにしたとでも言いたげに彼の髪と同じ色の瞳から大粒の涙がぼろりと零れた。後から後から零れている雫を見て、風息は虚淮が泣いているのを初めて見たと気づく。
 風息が彼の前で泣いたことなんて、珍しくもなんともない。幼い頃の風息はそこらにいる男児とそう変わらない活発さで、あちこちを駆け回ってはたびたび痛い目を見てきた。食欲に負けて蓮の実を取ろうとして池に落ちて泥だらけになっては泣いて、ひとりきりの夜が怖くて泣いた。
 けれど、虚淮はそうではなかった。風息と出会った頃にはもう一世紀は生きていてすでに落ち着きを得ていたと言えばそこまでなのだが、二百年共にいてそういうところを見ないのはちょっと珍しいのではないだろうか。虚淮は龍游を追われたときも、その後も顔に出すほどに精神を揺らがせたことはなかったように思う。
 その虚淮が泣いている。大粒の涙を零して、風息よりもずっと小さい指を握りしめて、深く息を吐くこともできずにいた。指先一つ動かせず、言葉を一つ紡ぐこともできない。
 涙で歪んでいるかもしれない視界で、虚淮はただ風息を見つめていた。まるでそうしなければ風息がどこかに行ってしまうとでも言わんがばかりに、ただただ息を殺して風息を注視している。
 行かなければいけない。ただそう思った。このひとの傍にいて、確かに自分がここにいるのだと伝えなければならない。
 動かし方が分からなくなってしまった四肢を何とか動かして虚淮の前まで歩みを進めると、風息は懐かしい名前を紡いだ。その声に応じるように大きい瞬きがあって、色が薄いせいで目立ちにくい睫毛が涙を弾いて小さな音を立てる。
 震える声が風息を呼んで、応える前に腕が伸びてきて縋るように抱き締められた。風息の存在を確かめるように額を胸に押し付けて、彼は風息の体温と虚淮にはない鼓動を拾い上げようとしているように見える。彼がこめかみ辺りを胸元に擦りつけた辺りで、ようやく虚淮の角がいたく短くなっていることに気がついた。
 話したいことはあったはずだった。今までのことに、これからのこと。自分達がどうしていくべきで、何をするべきでないのか。いくらでも伝えるべきことはあるはずなのに、今は何もいらないと思ってしまう。
 お互い多くのものを失ったのかもしれない。自分でそれと分かるものもあれば、きっとなかなか気づけないものだってあるだろう。あの夜までに失ったものや、その日を境に失ったものをすべて数え上げるのはもはや難しくなってしまっていた。だというのに、自分達はこれからも奪われ続ける一方だ。
 けれど、それでも。それでも自分達はまだ生きている。ならば、きっとまだやれることはあるはずなのだ。その可能性をあの日の風息はこれっぽっちも信じられなくなってしまっていた。何もかも諦めて、世界と一緒にこのひとまで手放そうとした。
 こんなふうに泣くひとを風息は置き去りにしようとした。その事実にじくじくと胸が痛んで、瞬きをした拍子に涙が瞼の縁を越えて行く。あの時からずっと、今この瞬間まで風息は一度も泣かずにいた。虚淮もそうだったのだろうか。それとも。
 ずっと上げられていなかった腕を上げて、虚淮の体を抱きしめ返す。記憶よりも痩せてしまっているように思える体を恐々と、それでも風息の存在を少しでも伝えられるように力を込めて身を寄せる。ようやく力加減を見極められてからもう一度彼の名を呼べば、虚淮の指が背中で引き絞られた。
 その指先に、とうとうしゃくりを上げ始めた背中に、胸が焼ける思いがする。歯痒さと後悔と、そのすべてを塗り潰すほどの眩さ。その光にあらゆるものがかき消えて、きっとその中にあるだろう虚淮の思いも風息には見つけられなかった。
 込み上げる情けなさをこのひとに許してもらいたいと思ってしまう。どこにも行けなくなっている自分がまたどこかに行けるようになるまで、虚淮に待っていてほしいと願ってしまう。たとえ世界が風息を置いて先に行ってしまったとしても、彼だけは傍にいてほしかった。
 このひとの気持ちも分からなかったのに、今だってどんな思いで風息の前にいるのかも分からないのに。どうしようもないわがままを虚淮に押し付けてしまいそうになって、風息は衝動を声にする代わりにほんの少しだけ腕の力を強めた。
 真冬の晴れた早朝でもない限り白く曇る事のない虚淮の呼気が、熱と湿度を孕んでいるのが分かる。きっと自分の息も似たようなものなのだろう。その温度がふたりがここにいることを声高に主張しているようだった。
 風息も虚淮も、たしかに今ここにいる。腕の中にあるこのひと以上に確かなものなんて、今の風息には存在しなかった。