9:先生の扉



 ああ、なんという幸運だろう。

 ペルソナにシャドウ、それに影。
 自分の心を写す鏡の名だ。
 自分を知ることなどできない。
 自分が悪魔の体を得た瞬間、自己の不在を聞かされた。
 自分の中にはなにもない、と。

 そうして自分は世界を壊した。
 己がないままに突き進み、全てのコトワリの芽を潰した。
 だから、この世界には全ての人間の行動原理になる神様はいない。
 ゆっくりと滅びから再生に移り変わった世界には人間の行動原理を指し示し得る神しかいないのだ。

 冷たくて真っ暗なテレビにひたりと手の平を合わせて軽く押してみるが、液晶のテレビが後ろに倒れそうになるだけだった。
 一度離してから、何度か指を閉じたり開いたりしてみる。


「……入れろ」


 脅しを掛けて、今度は指先だけで触れてみた。
 するとCGのように画面が波打つ。

 口元が大きく歪むのを感じた。









「クマ……?」


 晴れて完二がメンバー入りして数日目、クマがスタジオの隅で小さくなって震えていた。
 完二に鼻眼鏡を掛けてご満悦だった気配はどこにもなく、ただ体を小さくして短い腕で必死に耳を塞ごうとしている。
 きっと目も閉じているのだろう。


「おい、どうしたんだよ!」


「おわあ!」


 少々乱暴にクマの後頭部を花村が叩いた途端、クマが弾けるように振り返って花村と距離を取った。


「わわわ、ヨースケクマか……。頼りないけどこの際誰でも良いクマ、タスケテー!」


 一度取った距離をものともせず、クマが花村に突撃した。
 反撃といって良いのか分からないが、とにかく準備ができていなかった花村がクマごと転倒する。


「先輩大丈夫っすか!?」


「お、重……」


 真横に転がって来た花村の助けを求める声に従って、完二がなおも花村にしがみつこうとするクマを引きはがした。
 完二に持ち上げられながら、クマはわたわたと耳を押さえようと奮闘する。


「花村陽介、享年十七歳?」


 千枝が花村を覗き込みながら、物騒なことを呟いた。
 ちゃんと見てみると、なるほどスタジオの人の倒れた型取りと姿勢が見事に一致している。


「洒落になんねえ……」


「う、ごめん」


 普通の場所ならともかく、ここでは確かに洒落にならない冗談ではある。
 千枝も同じように考えたのか、少々気まずそうに謝罪した。


「にしても、本当にどうしちゃったの?」


「ユキチャン……」


 クマの頭を撫でて、普段より柔らかな口調で雪子が問いかける。
 それまで暴れていたクマがやっと大人しくなったので、完二がクマを地面に降ろした。
 立ち上がった花村が打ったのかもしれない腰を摩りながら、なんとも言えない表情をしている。
 恐らく叱り飛ばしたいのだろうが、相手の怯えっぷりの手前実行に移せないのだろう。


「よく分からない、分からないクマが、誰かここに入って来たクマ……」


「でも、マヨナカテレビには何も映ってなかった、というより最近雨すら降ってないよね?」


 一様にクマと発言者の千枝を除く、全員が頷いて同意をする。


「でもでも! 凄く凄く広がって、怖くて、悲しい感じがするんだクマ。それで、クマどうして良いか分からなくなって……」


 頭を派手に振って否定して、あからさまに震える声で必死にクマが主張する。
 そこには普段の惚けた雰囲気は微塵も存在せず、その場の全員が言葉をなくした。


「どっちから感じるか分かるか?」


 落ち着け、と心で念じながら、どうにかクマに質問する。
 天気予報を思い出そうとするが、気の緩みからか菜々子と話していた内容ばかりが浮かぶ。
 つまり、完二のリミットだったときに降ったまとまった雨の話。
 あのとき菜々子はなんと言っていただろうか。


「悲しいことにクマのセンサーはビンビンクマ」


 クマの震える指先が遥か遠方を示した。
 どうやらあちらの方からその、恐ろしくて悲しい気配がするらしい。


「分かった、行ってみよう」


 クマの頭を軽く叩いてから、やっと菜々子の言葉を思い出した。
 やっと沢山洗濯できるね、と菜々子は言ったのだ。

 大丈夫。まだ、霧はやってこない。









 クマの案内に従って、全員が無言で歩いている。
 誰が落とされたかすら分からないなんて状況は初めてだった。
 今までマヨナカテレビに映らないで、テレビに落とされた人物などいなかったのだ。
 もしかしたら、自分達は認識を誤っていたのかもしれない。
 訳の分からない世界であるのは分かっていたはずなのに、どうして法則など信じていられたのだろう。
 甘かったのだ。


「あ。あれかな……?」


 雪子が指さした先に、小さな扉があった。
 扉というよりも引き戸の風体をしており、装飾の類は一切ない。
 大きめの棒の取っ手が付いた淡いクリーム色のそれが、何もないところに何の支えもなく立っていた。


「……何が?」


 千枝が引き戸の周りを一周してから、軽く俯いてこめかみに人差し指を当てた。


「入り口」


 雪子が当然のように答えて、花村が唸った。


「確かに入り口っぽいけど、これどっかに繋がってるのか?」


 完二がきっかり三回ノックをするが、戸が揺れるばかりで反応らしい反応は全くない。


「おい、クマ。その気配って本当にここからきてるのか?」


 振動が加えられたのにびくともしない引き戸を完二が無遠慮に触る。
 いっそのこと開けてしまえば全て解決してしまいそうなのだが、そこまで大胆な行動は今のところ自分を含め誰もいないようだった。


「間違いないクマ。平気な皆さんがウラヤマシイ」


 どうにかクマがおどけて見せるが、細く弱った声が隠しきれない。


「でも、これって病室のドアっすよね?」


「言われてみればそうかも。取っ手なんてさ、まさにそうじゃない?」


 千枝がかなりの幅のあるコの字の取っ手が溶接されている戸を指さして指摘する。
 確かに引き戸といえども、これ程派手な取っ手をつける必要などない。
 そもそも教室の戸に至っては取っ手すらなく、ただ凹みがあるだけだ。
 体育館の用具室に続く扉でもこれ程大きい取っ手はないし、この引き戸はノックで板が揺れてしまうくらいに軽い。

 つまり、訳が分からない。
 どうして前例とは全く違う作りになっているのか、入り口が病室の扉なのかなど考えたところで分かるはずがないのだ。


「開けてみるか」


「え、あっさり過ぎねえ?」


「しかたないだろ。ここは考えて分かる所じゃない」


 軽く肩を竦めて見せると、思うところがないわけではないらしいが花村が口を噤む。
 行き当たりばったりの選択肢に危険性を感じるが、それに変わる代案が思いつかなかったのだろう。


「多分今から帰ったとしても、失踪者なんて見つけられないと思う。二人の場合もそういう話題はなかったからな」


 学校中に欠席者はいないか、と聞いて回るのはさすがに危険すぎるし、学校部外者ならそれこそどうしようもない。
 徒に時間を浪費するよりはずっとましな手段には思えた。


「だけど、入ったら出られなくなるってことないのかな……?」


「そんなの中にいる奴が誰だって一緒っすよ」


 雪子のもっともな心配事に、これまたこちらのフォローに近い回答を完二が返す。
 雪子の意見も理解できるし、完二の考え方には誰しも同調せざるを得ない。


「クマ、扉押さえててくれないかな」


「およよ、クマが一人でですか!?」


 外にいるだけでもこの有り様なのに、中に入ったらクマがどうなるか想像に難くない。
 けれど、クマからすれば進むのも止まるのも地獄らしかった。


「サポート役だし、クマキチを置いてくのは私は反対だな」


「それに、一人きりじゃさすがに危ないだろ」


 千枝と花村の反対に、素直に自分の案の欠点を認める。


「だからって、無鉄砲に飛び込むのもな……」


「実験してみりゃ良いんじゃないか? 一人だけ向こうに行ってみるとか」


 それだ、と花村とクマ以外の声が被った。
 自分と千枝に至っては、失礼にも花村を指さしている。


「よし、花村君行ってみよう!」


 花村の背後に回り込んだ千枝がぎゅうぎゅう背中を押して、頼りない引き戸の方に連れていく。
 言い出しっぺが生け贄になるというのは世の常だが、今回もご多分漏れずそうらしい。


「ええっ!? 俺? 迷わず俺かよ!」


 花村が抵抗したところで、助け舟を出す人物は誰もいなかった。
 言い訳に過ぎないが一応前例に則ればそこから出られなくなることなどないはずだし、やはり誰しも自分の身が可愛いということなのだろう。


「とりあえず、まずは開け閉めだけかな。次は体の一部を出して戻ってきて、それから全身、最後は扉を閉めて向こうからお前が開ける、と」


「お、おう」


 一本ずつ立てる指を増やしながら説明すれば、花村が怖ず怖ず頷いた。
 引き戸の前に立った花村が何度か深呼吸をして、取っ手を掴む。


「なんだこれ」


 勢い良く開け放たれた戸とは反対に、花村は酷く気の抜けた声を出した。


「え、なになに、って何コレ!?」


 後ろから覗き込んだ千枝が花村の両肩を鷲掴みにして、花村が鈍い悲鳴を上げる。
 その上余計中を覗き込もうとするものだから、逃げ腰になっていた花村の上体が揺らいだ。


「どあああ!」


「花村、里中!」


 どうにかして引き戸の向こう側に転がり出る二人を引っつかもうとしたのだが、悲鳴を残して二人の姿は扉の向こうに消えてしまった。
 まさかこんなことになろうとは誰が思おうか。
 本当に訳が分からない。


「何してるんすか、先輩! さっさと開けましょうよ!」


「駄目! 駄目だよ塩瀬君!」


 完二に促されて思わず開いてしまいそうになったが、今度は雪子の声に従って戸を引こうとする腕を押し止める。


「……落ち着け」


 本日二度目の自制をし、雪子が戸を引かせない理由を考える。
 深々と深呼吸をする時間だけ、沈黙が降りた。


「こっちから開けると違う所に繋がるかもしれないからってこと?」


「うん、そんな確証どこにもないって分かってるけど、でも、もしかしたらって思うと……」


 俯いた口元に手を当てて、雪子が覚束無く意見する。
 馬鹿馬鹿しいと言ってしまいたいところだが、確証がないということは否定もできないということでもあるのだ。
 そして、ここまで前例という前例が覆されていて、何が起こり得るのかも分からない。


「じゃあどうするって言うんすか!」


 苛立ちを隠そうともせず完二が吠えた瞬間、引き戸が静かに開いた。
 千枝が申し訳なさそうにしているのはともかく、花村までが何故かしょげ返っている。


「お帰り」


「恥ずかしながら、ただいま帰還しました……」


 俯き加減で花村が敬礼し、千枝もそれに習う。
 安堵なのか呆れなのか自分でも分からない溜め息を吐いたとき、赤い姿が視界を過った。


「千枝! 良かった、無事で……!」


 花村を巻き込んで雪子が千枝に抱き着いて、二人分の悲鳴が盛大に上がる。


「ちょ、ちょっと雪子大袈裟だって!」


「わー俺喜んで良いのか全然分かんねえ……」


 サンドイッチのパンの部分を受け持つ花村がまたも逃げ腰になったまま呆然と呟く。
 おいしいのではなかろうかとクマに耳打ちすると、きっかり二回頷かれた。
 いくら怯えていようがこういうところはいまだ健在らしく、正直安心する。


「大丈夫だ、喜んで良いぞ。多分」


「塩瀬君も遊ばないでよ!」


「……先輩、事態収拾しましょうよ」