8:一部は全てにあらず



 奇しくも達郎と再び会う時間を取ったのは、巽完二を救出した翌日だった。
 ある程度休憩を挟んで進んでは行っていたのだが、やはりサウナに長居したくなくて妙に集中力が上がっていたらしい。
 予想よりも上手くことが運んでありがたいばかりだ。


「台風の目、か」


「何それ?」


「台風の目って言ったらあれだろ? 台風の真ん中の雲がない部分の」


 終わりのホームルームが始まる前の雑然とした時間に呟いた言葉を見事に千枝と花村に拾われた。
 千枝の発言を字面通りに取って花村が律義に説明するが、そんなことは分かっているという風に千枝が花村の頭を叩いた。
 それ程凄い音はしなかったものの、反射的に花村は痛みを訴えて逆向きに座っていた椅子の背もたれに乗せていた手で頭を庇う。


「巽が言ってたんだ」


 昨日完二を家に送る間に、夢現の状態で彼が漏らした言葉だ。
 全くもって何のことか分からない。


「夢でも見てたのかな?」


「どんな夢だよ……」


 一瞬、大雨暴風に晒されている中、瞬時に空が晴れ渡り、燦々と日が照り出すという光景が浮かんで、妙に馬鹿馬鹿しくなる。
 二人も似たような想像をしたようで、何となく相槌のような呻きのような声を漏らし合う。
 自らをどうにか受け入れたという精神状況だけを考えれば、分からなくもない比喩かもしれないが。


「まあ、あれだ。あいつが復帰したらついでに聞いてみようぜ」


 頭から離れた花村の手はそのままこちらの肩の上で一回弾んで、丁度教室に入ってきた雪子に向かってひらりと揺れた。









 バス停でバスを待ちながら、今日という日を達郎との会合日に選んだことを若干後悔していた。
 折角千枝がぱっと遊ぼうと提案してくれたのに、自分だけが都合が合わなかったのだ。
 代わりに週末に派手に出掛ける案が上がったので、結果として悪くないところに落ち着きはしたのだがどうしても申し訳なさを感じてしまう。

 バス停から少し離れた場所に立っていると、いつもは自分が乗るはずのバスが目の前を通り過ぎて行った。
 エンジン音が遠ざかってから時刻表を確認すると、三分後に件のバスは到着するらしい。
 六月には入ったけれど、いまだ梅雨の到来がないこの時期では日差しが少々眩しすぎる。
 昼から何も口にしていないので、いい加減さっきから喉が乾きを訴えていた。
 四六商店までひとっ走りできなくもなさそうだが、達郎が着いたときに一人コーラを飲んでいては格好が付かない。
 かといって彼の趣向を知らない立場で人の分を選ぼうとしたら、必要以上に時間がかかって逆に待たせてしまう可能性が高い。
 つまるところ、素直に達郎を待ってから買いに行った方が適切なのだ。

 心身滅すれば、火もまた何とかかんとかともいうが、残念ながらそんな見上げた精神状態に高校生男子ごときがなれるはずがない。
 持て余した喉の渇きをごまかそうと唾液を飲み込んでみるが、結局は体内の水分を循環させているに過ぎないからか何ともならなかった。


「何その顔」


 半ば意味もなくこの前あった前期試験の暗記項目を思い出そうとして、大半が思い出せなかった事実に愕然としている辺りでバスは達郎を吐き出した。
 試験前は慌ただしかったので、当然詰め込みの勉強になった。
 試験三週間前からじっくりやり込める時間が取れる確証のない今、勉強方法を変えなければならないのは明白である。
 叔父の家に居候している手前、勉強や生活態度で教師に文句を言われるなどもっての外だ。


「毎日こつこつ勉強しないと、と思うと自然こんな顔に」


「勉学は一日にしてならずですね、先生」


 真面目腐った顔で同意されて、眉間に籠った力をそのままに小さく頷く。
 いつかこの少年も似たような懊悩を抱くのだから、冗談交じりで言っていられるのも今の内である。


「とりあえず何か飲まないか? 奢るよ」


 四六商店の方を指さして、まずは自分の欲求を優先した。


「そこ胡椒博士ある?」


 達郎の口からとんでもない言葉が飛び出して、思わず素っ頓狂な声が口を突いた。
 胡椒博士ときた。
 花村に勧められて初めて飲んだときは、顔面を殴りつけてやろうかと思ったものだ。
 当時は出会って日も浅かったから遠慮もあったが、今同じことをされたら間違いなく殴り倒している。

 つまりはそれくらい不味いのだ。
 凄まじい薬臭さは感じても、胡椒気は全くない。
 ネーミングの由来さえ訳が分からない一品である。


「……趣味悪いのは分かってるけどさ」


「ああ、うん。そうだよな」


 一般的に不味い商品だという理解は最低あるらしい。
 けれど、それが彼の中で美味しい物に分類されているのだと思うと趣向というものの仄暗い可能性を感じずにはいられない。


「煙草を好きになるようなもんで、飲んでる内に癖になっちゃったんだ」


「煙草はただの中毒だと思うけど」


 それに煙草は見栄だったり、人付き合いだったりで吸い始める人が多いらしい。
 少なくとも胡椒博士に見栄も人付き合いもない気がする。


「胡椒博士中毒か。ブロン依存症くらい情けないね」


 どこかの小説家がブロンについて書いていたような覚えがある。
 確か喉薬で、ブロンが切れると身体の具合が悪くなるのだ。
 精神面よりも身体面にダメージが先にきて、喉薬ごときに依存しなければならない我が身に絶望して、自殺する者もいるらしい。
 喉薬ごときで生きていけるなら飲み続けて生きればいいと作者は締めていたが、確かにその通りである。
 別段お金が暴力団に回らないし、薬が手には入らないからといって少なくとも幻覚を見て他人に迷惑をかけたりもしない。
 そういうわけで、胡椒博士が好きだろうが他者に迷惑をかけることはそうない上、よしんばかけたとしても飲食物の域を出ないはずだ。


「よしよし、お兄さんが美味しい物買ってあげるから着いておいで」


「えー、じゃあマッスルドリンコ」


 ベリーショートの滑らかな頭を撫でてやれば、達郎が上目使いで又もとんでもない要求をしてきた。


「却下」


 さすがに実害が出そうだし、もしそうなったら両親の下へ謝りに行かなければならない。
 先述通り、居候の身分でそれはまずい。


「冗談だよ」


 あれは無理だと笑う達郎の中には胡椒博士とマッスルドリンコとの間に明確な線引きがあるようだったが、果たして味なのか効力なのか聞く勇気が湧かなかった。





 結局聞いたことのない会社の炭酸飲料と胡椒博士を片手に、河原までやってきたのは三十分以上前のこと。
 人気のない斜面に座り込んで、既に空の缶を持て余しながらずっとテレビの中の話をしていた。

 マヨナカテレビに山野アナが映ったことはともかく、初めてテレビに頭を突っ込んだときのこともジュネスのテレビに入ったことも達郎は真剣な表情で聞いていた。
 相槌を合間に挟みながら、小さなテレビに入れないのは枠が狭いからか、とか頭を入れたとき外側にあった部分の感覚はあったのか、とか質問を加えてくる。
 恐らく小さなテレビに入れないのは枠が小さいからだとは思うが、頑張ればハンガーの幅だってなんとかなるのだし、どうにかなるかもしれない。
 感覚は初めのときは気が動転していてそれどころではなかったし、ジュネスのテレビに入るときは人の目を忍ばねばならないのでわざわざ気をやったことがなかった。
 家に帰ったら試してみようと思う。
 そういう風に答えた。


「えと、そのペルソナ? とかいうのが使える人が今のところ四人で、もしかしたら五人になるかもしれなくて、そのダンジョンみたいなのが二つって妙じゃない?」


 クマの話も含めて一通り話し終えてから、達郎が空き缶をぺこぺこ鳴らしながら尋ねてきた。
 ダンジョンができる人とできない人の差は何があるのかと小さな頭が少し傾ぐ。


「天城さんと巽さんの共通点ってなんだろう?」


「一応皆、影は出てきてるしな。となると、事件に巻き込まれたかどうかくらいかな?」


 自分を含め、花村と千枝、それに当然でもあるしペルソナ使いではないクマ、は少なくとも事件の直接的な被害者ではない。
 対して雪子と完二は間違いなく事件の当事者で、恐らく犯人の姿も見ているはずなのだ。


「じゃあ、自分で入ったかどうかで変わってくるのかな」


「自分で入った? いや、でも花村と里中にはテレビに入る力が始めなかったんだぞ? 自分でどうやって入るんだ」


「あー、語弊。ほら、あれだよ。自分の意志で入ったかってこと。テレビに入る力は接触感染みたいなもんでしょ」


 頬を軽く掻くように撫でながら達郎が訂正を加える。
 初めて三人でテレビに入ったときのことを思い起こすとどうしようもなかった状況ではあったが、確かにテレビの中に入るというイメージはあったに違いない。
 その差があれらの空間を生み出したかまでは分からないが、雪子は自分がテレビに入れられたときに意識がなかったらしい。
 何かしから関係があるのかもしれない。


「なるほど」


「それか、他の人より押さえ付けていたものが大きかったのかもしれないけどね」


 単純に抑圧の大きさがダンジョンのような所の有無を左右する、というのも頷けなくはない。
 花村の田舎が詰まらないというのも千枝の優越感も実際には別段害はないように思えるのだ。
 それくらいなら誰だって考えそうなものだし。

 しかし、雪子や完二の話になると少々性格が違ってくる。
 雪子はあのままだと将来には女将以外の道がなかったのだ。
 受け入れるとか受け入れないとかは問題にすらされず、彼女の生き方にはそれだけしかなかった。
 完二の場合は自分とは違う類の全ての物事から関わりを断ちたいという願望。
 その裏ではきっと理解を求めていた。
 ここまで極端になる場合というのは、あまりない状況といえるかもしれない。
 如何せん私事ではないので量り難いが。


「どっちとも取れそうだし、どっちともなのかも」


 いかんせん情報が少なすぎて、半端な判断しか下せないのがもどかしい。


「じゃあさ、影っていうはペルソナが暴走してる状態なんだよね」


「ああ、いや、暴走するのは自分がその影を自分じゃないって否定したときだと思う。だから、なんて言ったら良いのかな……」


 ぼんやりと浮かぶものがあるのだが、代わりに形容できる言葉が浮かばない。
 自らには現れなかったのだけれど、立ちはだかっていたかもしれない金の目をした自分を何とはなしに思い浮かべた。

 アルミ缶に軽く力を込めると缶が凹む前に、中に残っていたらしい水音が響く。
 それからやっと、空き缶にしては少々缶が重いことに気づいた。


「普段、人は自己なんてわざわざ認識しない。歩いてるとき、遊んでるときに自分なんて存在しない。そのとき、自己は限りなく自由だ。つまり、影は認識されていないペルソナ?」


 こき、と達郎の空き缶から大きめの音がする。
 多分もう、凹み過ぎて缶は元には戻らないだろう。
 突然筋道を立てて語られた推論に、肯定も否定もできなかった。


「自分なんて見て分かるものじゃないのにね。どうして、それが自分だって分かるんだろう」


 手の温度で常温どころか、温くなってしまった甘い液体を飲み込んだ。
 しっかりと後を引いてしまった甘みに、ほんの少し閉口する。


「……それは、多分一面だからだと思う」


「一面」


 達郎が小さく同調する。


「そう、一面だ。ペルソナの一面でしかない。だって全部同じじゃ、別に何の不満もないだろ?」


 自分が全くの別人格として存在し、誰かと姿形のみ同じならなら相手が気に入らないこともあるだろう。
 しかし、容姿も思考回路も同じで、その上その人の中にいるならば、何の欲求も湧かないのではなかろうか。
 まさに自己と同じものなのだから。


「そりゃそうだ」


 達郎が口角を上げて笑って、缶の凹んだ部分の両端を指でなぞった。


「それにしても凄いなあ。こんな所でテレビの中の空間とか、シャドウとかさ」


「今でも騙されてるんじゃないかって思うときがあるな」


 午前三時に目覚めてしまったときとか授業中とか、一瞬全てが曖昧になっているときに馬鹿馬鹿しいと思うことがある。
 テレビの中に入れて、その中にシャドウがいて、極め付けにはペルソナを己の力として使っているだなんて夢物語みたいだ。
 けれど、放課後に手を伸ばせばテレビは水面のように小波立つし、そちらへ行けばシャドウに襲われペルソナを使って倒すのだ。

 夢でもないし、馬鹿馬鹿しくも、ない。