7:彼の嘘と本当



 目眩が起きそうな熱風だけならまだしも、吹き上がる蒸気が異様に体力を奪っていた。
 市民プールに設置されていたサウナに遊び感覚でしか入ったことのない身には未知の温度と湿度で、見る見る体力とか精神力とかの類が削ぎ落とされていく。
 喘ぐように吸い込んだ空気は熱い上にじっとりと重たく、肺に落ち込む前に咽せそうになった。
 戦闘中に深呼吸でもしてしまえば、即座に命取りになってもおかしくない。


「塩瀬、提案がある」


「言わずとも大体分かるけど、どうぞ」


 花村はいつもと変わらずヘッドフォンを首から掛けていて、水蒸気で壊れたりしないものかと心配になった。
 今言ったとしても無闇に後悔させるだけだろうから、ヘッドフォンに気を行かせないようになるべくそちらを見ない。


「あいつには悪いがちゃんとペース配分していこうぜ。せめて一日置きくらいにしないと俺達が持たないだろ」


 即座に頷く視界の端に、同じように頷く女子二名の姿が写る。
 こんな所に毎日来ていたら、持たないどころか死んでしまう。
 厄介な空間を作ってくれたものだと、完二を軽く恨んだ。









「え、雨宮君来てないんですか」


 巽完二と同様に気にかかっていた達郎の姿が学童にいなかった。
 しっかりと休みを挟みながら探索を進める方針で満場一致したのだが、だからといって気が急かないはずもない。
 四人で顔を合わせていると焦りに拍車が掛かりそうなので、気晴らしも兼ねて学童に来たというのに選択を間違ったのかもしれない。
 準備室にいるので、遊び場の様子は分からないが、信田さんが言うなら間違いないのだろう。


「ここ二、三日来てないわね。ねえ塩瀬君、何か知らない?」


「いえ、この前帰ったときは特に用事があるとかは言ってなかったんですが」


 嘘は言っていない。
 けれど、思い当たる節は心拍数が跳ね上がるくらいに存在した。
 鼓膜に蘇るのはバスのエンジン音ばかりで、優しい人だねと言ったはずの声音が思い出せない。
 直後には耳にこべりついていたというのに、脳なんて曖昧な物だ。
 学童に来ないのは自分が達郎を裏切ってしまったからかもしれない。
 そして今も心のどこかで忘れてしまいたいと思っているから、彼の声を思い出せないのかもしれない。
 自分は何と酷い人間なのか。


「すみません、雨宮君の住所教えていただけませんか?」


 それでも。
 それでもまだ、眩しさに目を細めるようなあの微笑みも覚えている。
 そして、達郎が伝えてくれた言葉も知っているのだ。
 彼は自分が正直に話していないと知っていて、なお優しい人だと言ってくれたのだ。

 応えたいと切に思う。


「分かったわ。それと来たばっかりで悪いけど、今日は上がっちゃいなさい」


 本当は一学生にたかが近所の住所とはいえ、個人情報を渡すなど許されないのだろう。
 けれど、信田さんは秘密よ、と人差し指で口元を押さえるだけで全てを請け負ってくれた。
 簡単な地図と住所を書いた紙を手渡されて、思わず深々と頭を下げる。


「私にそんなに畏まらなくて良いのよ。それよりも達郎君お願いね?」


「分かりました」


 あの子には心配してくれる人がいる。
 風邪を引いたとか、急に忙しくなったのならそれで良い。
 けれどもし、あの日の会話が原因なら謝って、そして叱らなければいけない。
 自分と顔を合わせたくないだけで、前触れもなく学童に行かなくなるのはいけないことだ。
 君を心配している人がいる。
 そう伝えなくては。

 徒歩で十分というのだから、達郎の家周辺までは走れば五分とかからなかった。
 しかし気が急いだのか途中で筋を一つ間違えたらしく、無駄に遠回りしてしまって家の前の通りに来たのは結局徒歩とそう変わらなかったように思える。


「あれ、せんせ?」


「あめ――達郎君!」


 角を曲がった瞬間、達郎がエコバックを片手に突っ立っていた。
 大声で呼んだせいで達郎が眺めていたらしい白黒の小鳥が小さく鳴いて、慌ただしく空に舞い上がる。
 条件反射で小さくなる腹を二人で見送ってから、目標の人に視線を向ける。


「オフだねせんせ」


 達郎が財布でも入っているのだろう、独特な動き方をする薄っぺらい袋を振り回しながら近づいて来た。
 今更ながら走った具合で荒れていた息を深目の呼吸で整える。


「俺も英一郎で良いよ。言いづらかったらそのままでも構わないけど」


「ありがとう英一郎さん」


 ふわりと目尻を綻ばせて笑う。
 初めて達郎の本当の笑みを見たように思えて、酷く胸が詰まった。
 自分はこの子に作った笑顔ばかりさせて、今の今までちゃんとそれが分からずにいたのだ。


「……学童に来ないのは俺のせい?」


 この言葉は彼の笑みをなくすかもしれないけれど、聞かなければ謝ることもできない。
 少し驚いたらしく、柔らかかった空気はわずかに引きつった。


「違うよ! ただちょっと忙しくて行ってなかっただけ」


 始めの否定だけが大きく響いて、説明は短い髪を軽く引っ張りながら苦笑交じりで続けられた。
 それが本当なのか判断はつかないし、無理やり真実を見つけて良いのかも分からない。


「なら、ちゃんと先生に連絡しなきゃ駄目だろ? いつも来てるのに、急に来なくなったって信田先生も心配してたぞ」


 腰を軽く屈めて達郎と視線を合わせて、やんわりと注意した。


「心配……?」


「当然だよ。先生だからとかは関係なく、俺だって心配したんだ」


 ゆっくりと言葉を噛み締めてから、達郎がそうか、と口にした。
 幸せを含むような、甘くて柔らかな響きを孕んだ囁きに似つかわしいはにかみが浮かぶ。


「どうしよう、凄く嬉しい……」


「なんだそれ」


 一緒に笑って頭を撫で回せば、少し首を竦めて達郎が笑みを深める。
 一体この子の家庭環境はどうなっているのかとちらりと思うが、今はその喜びが嬉しかった。


「ねえ、英一郎さん。今日は暇?」


 暇だと応じながら頷くと、達郎が手に乗せたままだった手を腕ごと引っ掴んだ。


「じゃあさ、ジュネス行こうよ!」


「今から?」


 平日の夕方にわざわざ足を運ぶほどの用事が子供にあるのかいまいち合点が行かず、内心首を傾げる。
 それでも達郎にはなんらかの理由があるらしく、大きく頷いて見せた。


「夕飯と下着買わなきゃいけないんだ」


 エコバックに手を入れて少しばかりかき回してから、綺麗に切り取られたクーポン券を目の前に出される。
 なるほど、服で二割引きはありがたい。


「一緒に靴下買って良いなら」


 確か穴が開いていて、何度かそのまま履いている内に修復不可能な規模にまで穴が成長してしまったのが一足あったはずだ。
 別段理由がなくてもついて行くつもりではあったのだけれど。


「お金返してくれるなら」


「もちろん」


 良い返事をしながらも、バスの到着時刻が気になって携帯電話を開いて時計を確認する。


「あ、今何時? 次のバス、五時きっかしにくるんだけど」


 恐らく達郎自身はバスの時刻に合わせて家を出たのだろうが、いかんせん予期しない遭遇があったのだ。
 とどのつまり、その要因が引き起こした結果とは。


「五十七分……!」


「……走ろう!」


 この辺りがちょっとした都心部であれば五分十分の遅れなど日常茶飯事だろうが、残念ながらここはただの住宅地だ。
 早々バスは遅れないし、無論停留所に客がいなかったり降りる客がいなかったりすればバス停を素通りする。
 今から走っていて間に合うかも怪しい。
 それでもこれを乗り逃すとこの時間帯では三十分は待たなければならなくなるのだから、バスで移動する利点がなくなってしまう。

 達郎の先導を受けながら、来た道を再び走って折り返す。
 予想以上に速い上に軽い達郎の足運びに、多少の驚きを覚えずにはいられなかった。


「待って待って! ストップ!」


 正面からやってくる減速する様子の見えないバスに達郎が大声を上げながら、運転手に向かって両手を掲げて振る。
 空中に派手に踊る鈍い緑色のエコバックが功を成したのか、バスは乗降口から少し通り過ぎた所で停車した。


「ありがとうございます!」


 ガラス越しで声が届くかどうか分からないが、運転手に向かって礼を言う。
 最低何かを言ったことくらいは分かったらしく、運転手は軽く笑って会釈を返しててきた。
 開いたドアに文字通り飛び乗って、バスが動き出すまで席にも座らず二人で深呼吸を繰り返す。
 三分間全力疾走はかなり辛い。


「英、さん、座んなきゃ」


 一瞬この場にしゃがみこもうかと思ったのを察したのか、達郎が上着の裾を引っ張った。
 そのままバスの一番後ろの長椅子に体を投げ出して、呼吸が落ち着くまでバスの天井を見上げる。


「……英さん?」


 そこら中に付いている降車ボタンの数を数える余裕が出てきた頃、自分に対する呼称の変化があったことに気づく。


「ああ、ごめん。ちゃんと言ったつもりだったんだけど」


 大体落ち着いてきた呼吸でも長めの台詞には耐え切れなかったようで、達郎がはふ、と溜め息のような吐息を漏らす。


「いや、別に英一郎にさん付けは言いづらいと思うしそれでも構わないよ」


 助さん角さんみたいで、余計じじ臭い気がするが件の人物はここには居ないのでさほど問題ない。


「学童で言っちゃったら、すぐに黄門様にレベルアップしそうだね」


「分かってるなら言わないように」


 元気の言い返事を聞きながら、もうほとんど平常と変わらない呼吸をゆっくりと出す。
 知らない内に握っていたらしい手を開いて、固まった関節を解した。

 この子は恐らく。
 恐らくこの町で起こっている異変を何かしら察知している。
 そして、どんな手段でもってしてか定かではないが、自分が異変に関わっていることを知っている。
 本当のことを教えて良いのか分からないが、これからもし彼が真実に辿り着くのなら。


「……俺、知ってるんだ」


 エンジン音に紛れてしまいそうな小さな声だった。
 あまりに人の心を察するのに長け過ぎた少年の瞳が傾いてきた陽光を反射して、きらきらと金色に輝いて見える。


「今起こってる事件が警察では解決できないってことも、多分マヨナカテレビって奴が関係してることも」


 金色の瞳が自分を迷いなく射貫いてきて、輝きの美しさに息を飲む。
 もし、ではない。
 この子供は遅かれ早かれ必ず真実を知ることになるに違いない。
 ならば彼の行動の把握をするためにも、取り込んでしまった方が良いのではないだろうか。


「どうして分かったんだ?」


「勘かな?」


 へらり、と笑って見せるけれど、やはりいつもの少年らしさは影を潜めている。
 達郎が何を抱えているか分からないし、事実を知ったところでどうしたいのかも分からない。
 けれど、こちらが情報を提示しなければ欠片も教えてくれないだろう。


「……さすがにここでは困るから、また今度時間があるときで良いかな?」


 秘密の暴露を約束した瞬間、感情が高揚するのが分かって息を詰める。
 達郎から日取りの提案を聞きながら、自分にはずっとこの秘密が重たくてしかたがなかったのだと痛感しないではいられなかった。