4:感覚と錯覚の狭間



「塩瀬せんせ、まだ帰らないの?」


 雑多な玩具の詰まった段ボール箱を倉庫に入れていると、背後から達郎に声を掛けられた。


「片付けが長引いたからね。そろそろ帰るよ」


 普段なら最後のお迎えの母親達がくる辺りに準備をして帰るのだが、信田さんと話したりした上に片付け損ねてあった玩具を見つけてしまって遅くなってしまった。
 倉庫の戸を閉めると、借りた鍵で戸を締める。


「じゃあもう帰るのかな?」


「帰るけど?」


 振り返ると薄い夕焼けが校舎の窓に映り込んでいて、光が二倍あるような錯覚に襲われる。
 眩しさに目を細めて、達郎を見るとベリーショートの髪の下で目が細められた。
 自分とこの子は同じ顔をしているのではないだろうか。
 だとすれば、この子は一体何を眩しがっているというのか。


「じゃあさ、バス停までになっちゃうけど一緒に帰らない?」


 達郎が目を細くしたのは一瞬で、すぐに普段通りの表情に戻ってしまった。
 そこからは特別な何かは感じられないし、一瞬自分が感じたことさえ錯覚だったのではないかとまで思ってしまう。


「いいよ。ちょっと待ってて」


「分かった」


 人を待たせるのは苦手だが、鍵を返してから帰り支度をするとなるとどうしても時間が掛かってしまう。
 どうせすぐ履き直すのだからと、玄関口に靴を放置して係員室に向かう。


「あ、片付け塩瀬君終わったら帰って良いからね」


 禄にノックもせずに戸を開けると、何やら書類に目を通している信田さんがいた。
 そういえば、学童で働いているのは学校の先生なのだろうか。
 小学校の頃に学童でお世話にならなかったので、いまいち良く分からない。


「はい、雨宮君と帰らせてもらいます」


 報告した途端、信田さんがえ、と漏らして紙の束を机に置く。


「何それ、どんな裏技使ったの?」


「それが向こうから誘ってくれて」


 鍵を掛けるフックの下に並んでいるシールを確認して鍵を引っ掻けてから、一応もう一度シールの文字を確認する。


「いいなあ、それだけとんとん拍子だと裏があるんじゃないかと思っちゃうけど」


「何を企むんですか」


 そんなまさか、と思うと同時に眩しそうに目を細める達郎の姿が脳裏に掠めた。
 やはりあれは錯覚でも幻覚でもない。


「まあね。それより待たせてるんでしょ。さっさと行ってあげなさい」


「はい、失礼します」


 お疲れさま、と挨拶代わりの労いを受けて、お疲れさまですと返事をしながら戸を閉める。
 そのまま隣の着替え兼荷物置き場に入って、さっさとエプロン一気に脱いでしまう。
 この前洗ったばかりなので、畳んで自分の籠に入れて少し乱れた髪に手櫛をする。
 一応荷物の中に財布が入っているのを確認してから、鞄を手に取った。


 廊下に出ると、明るさに目が慣れていた目には驚くほど薄暗い空間が広がっていた。
 靴下で歩く廊下はぺたぺたと軽い音と何故か重いそれが混じるという妙な音がする。


「せんせ、終わった?」


 玄関で待っていたらしい達郎が玄関の簀の子が敷いてある所で後ろ手に手を付いて、背を逸らしてこっちを窺っていた。
 ガラス戸から入ってくる明かりと顔の面が薄暗くなって、あまつさえそれが上下逆となっているとちょっと怖い。


「もしかして吃驚した?」


 びくってなってたよ、と指摘されても、否定する言葉が見当たらない。


「せんせ正直すぎ。大人はもうちょっと構えとかなきゃ」


「別に俺はまだ大人じゃないし、そんなに大人って凄いものじゃないと思うよ。子供は小さな大人で、大人は大きな子供なんだ」


 子供心ながらに大人はもっと凄いものだと思っていたけれど、そんなことはないと気が付いたのはいつ頃だったか。
 大人に子供が思うような力があれば世界の貧困と戦争はなくなるわけで、実際の状況を見れば人間というものが分かるのではないだろうか。


「ま、そりゃそうだけど、妥協したら終わりだよ」


 妥協の成れの果てが今の大人の姿ということだろうか。
 良いか悪いかは別として、そういう面は確かにあるに違いない。


「ほら、暗くなる前に帰るぞ」


 靴を履いてしまうと、座ったままの達郎の手を引っ張って立たせる。
 素直に立ち上がった達郎が少し重たいガラス戸を押して、その隙間からするりと外に抜けてからふと気が付いた。
 手にも背中にも鞄がない。


「鞄は?」


「え? ……ああ。一旦家に帰って置いてきたから」


 閉まりかけた扉を押して後に続き、背中に問いかけると素っ頓狂な声の後少し間があってから返事があった。


「それ面倒臭くないか?」


 往復で二十分の道程を鞄を置いてくるだけの理由で行き来するなんて、割に合わないように思える。
 別に後から運ぶと重くなるとかいう代物でもないのだし、事実二十分のロスである。


「宅配便くるって言ってたから、待ってたんだよ。遅くなるかと思ったら、帰って途端にきて暇だったから学童きたんだ」


 指先をくるくる回しながら、達郎がお分かり? と顔を見上げてくる。
 最近は些細な物でも軒先に置いておけないので、分からなくもない行動かもしれないがわざわざ子供に任せなくても良いのではないかと思ってしまう。
 届く時間帯も指定できるのだし。


「分かりました」


 かといって、全く納得のいかないものではない。


「宜しい」


 学童を出ると、長く地面に影が伸びていた。
 今はまだ大丈夫だが、日が落ちれば肌寒くなるのかもしれない。


「ねえ、せんせ」


 達郎のコンパスに合わせて、ゆっくりとした歩調を保ちながら顔を俯ける。
 こちらを向いていると思った顔はしかし、道路の向こう側を見つめているだけだった。


「――周りで何か変なこと、起きてない?」


 今度はこちらが素っ頓狂な声を上げる番だった。
 心拍数が如実に上がって、鞄を持つ手に力が入る。
 何かしら表情の変化がないかと様子を窺うが、ざわめいた心理状況では何も読み取れなかった。


「変なことというと、両親が俺を置いて海外出張に行ったくらいかな」


 声は上ずっていなかっただろうか。


「何それ」


 マヨナカテレビ云々を除けばこれぐらいしか思いつかなかったし、実際珍妙なできごとに違いない。
 達郎の判断基準にも当てはまったらしく、小さく笑いを漏らした。


「残念ながら事実だからな」


「別に信じないわけじゃないけどさあ……」


 それはない、とへらへら笑われている内にバス停が見えてきた。
 一瞬肩の力が抜けたが、よくよく考えると既に自分が危惧する空気は早々に去っていたのだ。
 もしかしたら自分が過剰反応していただけで、そもそも始めからそんなものはなかったのかもしれない。


「家まで送ろうか?」


「いいよ、女の子じゃあるまいし」


 オーバーアクション気味に達郎が遠慮したので、素直に引き下がることにする。
 一本分ほど帰りの時間がずれたせいか、バス停には誰もいなかった。
 二人して時刻表を確認すると、遅れさえしなければすぐにでもバスがくる予定らしい。


「それにしてもさ、親においてかれるってどういう状況?」


 保護者と一緒に子供がどこにでもついて行って当たり前と、一般的には思われるかもしれない。
 事実、自分も転勤先が国内ならついて行くつもりだったのだし。


「一年くらいだし、高校生なんだから言葉も通じない所に連れてくよりも、ほっといた方が良いかっていうのが表向きの事情なんじゃないかと思う」


「表向き?」


 予想だにしなかった言葉が飛び出したからだろう、達郎の眉間に皺が寄る。


「俺も始めはそう思ってたんだけど、叔父さんの所で居候して、何か二人が俺よりも叔父さんを心配してる気がしてきたんだよなあ」


「訳有りなの?」


「そうそう。奥さんに先立たれちゃって、娘と二人なのに仕事忙しいし」


 一瞬言ってしまって良いものか引っ掛かったが、判断をする前に口にしてしまっていた。
 ちらりと後悔が過ぎる間に、聞いてはいけないことを聞いてしまったとき特有の声色で達郎が呻く。


「ああ、んと、何かごめん……」


「いや、こっちこそ」


 子供に気を使わせてしまった自責に駆られつつ、視線を逸らすと遠くからバスの物らしいエンジン音が響いてきた。
 バスで行き来しなければ来られないような所だから、小学生のこの子がわざわざあの辺りまで行く必要はどこにもない。
 あったとしてもジュネスに出掛けるくらいだろうから、実質達郎が堂島親子に会うことはないし見かけてもそれがその人だと分かることなどないだろう。
 だからといって人の死を軽々と伝えて良いはずもないのに、どうしてあっさりと喋ってしまったのか。


 この子は嫌いじゃない。
 でも、一緒にいると調子が狂う。


「バス来たね」


 横たわっていた重苦しい空気をごまかすように、達郎が努めて明るい声を出す。
 合わせてそうだね、と相槌を打っている内にバスが停車した。


「それじゃ、また」


 バスに乗り込んでドアが閉まる前に小さく手を振る。


「バイバイ」


 はにかむように笑いながら達郎が手を振り返すのを見て、もう一度思う。
 この子のことは嫌いじゃないどころか、友人に向けるのと同じ感情を抱いている。
 同じ年に生まれていたら、今頃一緒に戦っていたかもしれない。


「……塩瀬先生は優しい人だね」


 そんな風に考えていた矢先だった。
 恐らく固まり切っていただろう己の表情筋を恨みながら、既に閉まってしまった扉を睨む。
 人がいないのを良いことに、バスの一番後ろの席に乱暴に腰を下ろした。


 囁いた達郎の表情は微笑んでいるような、先程の眩しさに目を細めるようなそれだった。
 あの子供は何か知っている。
 それでいて、自分はあの子を一度裏切ってしまった。


 どうして良いのか分からない。
 ただ、あの声色と表情だけが頭から離れなかった。