2:二重生活の必要性



「センセイが本物のセンセイになったって本当クマ?」


 ちょっと先に行っておいてほしいと千枝に頼んだのは三十分くらい前のこと。
 遅れてテレビに入った途端に、クマに小首を傾げて尋ねられた。
 小首を傾げたといっても首のパーツがないので、どうしても体が傾いでいるようにしか見えないのが難点である。
 それはともかく、学童の補助は先生といえるのだろうか。
 保育士も先生と呼ばれる立場なのだから、先生で構わないような気はする。
 実際子供達に先生と呼ばれているのだし、先生と称しても違和感はない。


「エプロン可愛かったクマか?」


 返事に迷っている間に、クマが傾けた頬に人差し指を乗っけて問いを重ねた。
 いい加減引きずり過ぎな感のある質問を無視しつつ、軽い柔軟をしていた花村にじと目を向ける。


「お前がそういうことを言うから、誰も嬉しくないセクハラが起こるんだ……」


「何で迷わず俺なんだよ。確かに俺だけど」


「日頃の行いだ、このガッカリ王子」


 一発くらい殴っても良いかもしれないと思いながら、手に提げていたビニール袋を投げる。


「ネーネー、えぷろ……」


 完全に無視されていたクマがなおも食いついてくるので、軽く睨むと思うところがあったらしく静かになった。
 ついでに何かしら言おうとしていた気配のあった花村も静かになる。


「先生っていうか、学童で子供の面倒みただけだな」


 一応返答したのだけれど、差が分からないのかクマは微妙な相槌を打つだけだった。


「あ、じゃあそれって花村の新ウェポン?」


 千枝が花村の開けかけている箱を指さして、まだ開いていない蓋を覗き込む。
 その視線に見守られながら花村が箱を開けると、一見おもちゃと早合点してしまいそうな風貌のクナイが鎮座していた。


「おお、すげえ!」


 結構ずっしりしていたのに思ったより小さいだの、持ちやすいだの賛辞が並ぶ。
 正しくおもちゃを与えられた子供のような反応に、一瞬喜んで良いのか分からない。
 残念ながらどうやって考えても、クナイは武器以外の何物でもなかった。
 日常生活の中でこの反応をされたら困るが、こんな状況なら致し方ないのは分かっている。
 けれどどこか引っ掛かってしまうのは正常な感覚であって、恐らく忘れてはならないもののはずだ。


「んー? つまり、センセイが稼いだお金で花村の武器を買ったってことですな?」


 復活したらしいクマが新品の輝きを放つクナイを覗き込んでにやりと笑う。


「色男クマねえ。センセイに貢がせるなんて!」


「な、違うっつーの!」


 結構容赦なくクマに小突かれて、花村が軽くよろめきながら喚く。
 花村がここでとるべき反応は子供のような反論ではなく、鉄壁のスルーかテンションの低い反応であるはずだ。
 ある意味予想通り過ぎる花村の反応に自然に溜め息が出てしまう。


「その慌てっぷり、ふふ、ふふふ……!」


「……そこ、つぼでいいのかなあ」


 諦めが多分に含まれる千枝の指摘が雪子の爆笑を前にかき消える。
 未だににやにやしているクマの背後に回ると、両サイドから顔を掴んで固定した。


「おわ! 何をなさる!」


「良いか、一回しか言わないからな。あれを買った金は確かに俺の金だ。だけど、あくまでも流用しているだけで、今日中にでも出来高から差っ引く。つまり分かるな?」


 耳元で説明する声が自然と低くなるのは、やはり屈辱からなのだろうか。
 何が悲しくて男に貢がなければならないのだ。
 確かに自分が始めにしようとしたことは武器にポケットマネーを注ぎ込むことに違いないのだが、貢ぐと言われると急に抵抗が出てくるではないか。


「くっ、クマの魂はまだ満たされていないクマが、分かったということにしておきます」


 クマが少し間をおいてから敗北宣言をした頃には、雪子の発作も納まったようだった。


「……ま、行きますか」


 締まりのない空気の中で千枝が宣言して、おう、と花村が抜けた声で同調する。
 もう覚えてしまった城までの道程を歩きながら、一戦交える前に覚えてしまった徒労感にもう一度小さく溜め息を漏らした。









 昨日の今日で学童のバイトに行くのは少々無謀かと思ったが、どうもまたねと笑う子供達の表情がちらついてしまってバスに乗ってきてしまった。
 何だかんだいって殺伐とした生活を送っていると、癒しを欲してしまうのかもしれない。

 辛いかと思っていたバイト時間もそれ程問題なくあっさりと終わった。
 体力の増加に自分のことながら感心する。


「お疲れさま」


「あ、お疲れさまです」


 お迎えにくる母親達を何とはなしに見ていると、信田さんがエプロンの紐を結び直しながら寄ってきた。
 そろそろエプロンには慣れてきたが、意識的に認識してしまうと自分がエプロンを着けているという事実を思い出してしまう。
 だからといって何があるわけではないが、意識してしまうというのは気にしていると同じことである。
 いい加減慣れたい。


「塩瀬君、良く来てくれるから助かるわ。若干二名に不協和音だけど、概ね子供受けも良いし」


「ああ……」


 最早ユウキ少年にはライバル認定されてしまったようで、基本無視を決め込まれている。
 けれど、思い人がこっちに話しかけた途端に絡んでくるのだ。
 最終的には二人の言い合いに移行されてしまって、いつもしどろもどろになってしまう。


「まあ、殴り合いにならない限りほっといて構わないから、気に病まずにどんどん来てね?」


「はい」


「せんせー、さよーなら!」


 引き取り時間の最後の方にやってくる母親に連れられて、子供に懐っこい声で挨拶される。
 二人で挨拶を返しながら、まだ残っている一団に目をやった。
 その数人の中に達郎の姿がある。


「あの、一つ良いですか?」


「何?」


 こんなプライバシーに立ち入って良いのかも分からなかったけれど。


「雨宮君なんですけど、あの子いつも一人で帰ってるんですか?」


「そう、なのよね。本当は心配なんだけど」


 今は日がどんどん長くなっていく季節だから、この時間でもさほど暗くはない。
 しかし、秋以降になると簡単に真っ暗になってしまう時間帯なのに、そのときはどうしているのだろうか。


「お母さんに負担を掛けたくないって言うのよ。家まであんまり遠くないから本人にきつくは言えないけど、片道十分くらいなら来てくれても良いのにね」


 それに、と言って言葉を切ってから、信田さんは少し声を潜めた。


「ちょっと皆から一歩引いてる感じあるでしょ。ほら、塩瀬君が始めて来た日の縄跳びで最後に縄なんか回したくないっていうのが普通なのに、自分から代わってたの知ってた?」


 初日のことを思い出そうとするのだけれど、大盛り上がりする子供達のはしゃぎっぷりしか思い出せない。
 他の子の相手をしていただろうに、こっちのグループまでよく見られるものだと感心する。


「いえ、そこまでは。でも、目標達成した後も凄く落ち着いていて、縄を片付けてくれました」


「……そういう子なのよねって言っちゃえばそれまでだけど、気をつけてあげてね。あなた、懐かれてるみたいだから」


 私じゃ駄目みたいなのよ、と信田さんは寂しそうに笑った。