結局あの日はきっとエプロン似合うよ、とか、皆エプロンだから大丈夫、とか微妙な慰めをされてしまった。
しかし、実際制服の上から着てみたらほとんど違和感がないように思えるできで、鏡の前で絶句する。
いやまあ、レースが付いているわけでも、割烹着姿なわけでもない。
どちらかというと園芸用のエプロンに近い感じなのだから、世にいう許容範囲に入ったというだけなのだ、きっと。
「でも良かったわ。ほら、ここ男手がないから男の子にきて欲しかったのよ」
ふんわりとした印象の女性の声が聞こえて振り返ると、先程まであった説明を明文化したらしい冊子を差し出された。
「最近は保夫さんも増えてるって聞きますけど、学童にもやっぱりいた方がいいんですか?」
コピー紙でできた冊子を受け取って、ざっと目を通す。
ありがたいことに契約の説明以外にも、仕事の手順やらが書いてあるらしい。
日給であるという性格上、その都度説明していては面倒だというだけだとは思うが。
「ほら、学童って幼稚園じゃなくて小学生でしょ? 体の大きい男の子が暴れると大変なのよ」
ああ、自分は外ならぬ取り押さえ役なのか、と思うと気分が暗くなる。
その気配を悟ったのか、違うのよ、と手を振られた。
「普通、というかそこら辺で遊んでるならほっといても良いかなってぐらいでも、その子が怪我したら問題になっちゃうから。そんなに大暴れしてるわけじゃないのよ」
「そうですか」
この言葉の真偽は恐らく近い内に判明するだろうから、追求はしない。
「そうなのよ。後はおもちゃとか片付けるときにしっかり働いてもらうから、それまでは適当に見といてあげてね」
「……適当に?」
軽く肩を叩いて、廊下の方に消えて行った人の言葉を繰り返す。
子供を適当に見るとはどういうことなのだろうか。
程度が全く分からなかった。
冊子を鞄に入れてから建物から出た途端、子供が一斉にこちらを向いた。
子供というともう少し鈍感な生き物かと思っていたが、学童で母親の帰りを待つ身分となるとまた別なのかもしれない。
かくいう自分はどうだったかなんて、どうもはっきりとは思い出せないのだけれど。
「ああ、あなたが塩瀬君?」
「はい、よろしくお願いします」
まだ二十歳代ではないかと思う女性に声を掛けられて、小さくお辞儀をする。
エプロンの胸元に信田と書かれたネームプレートがあった。
小さな子にも分かりやすいように、大きく「しのだ」とルビが振ってある。
「よろしくね」
懐っこい笑みに保母さんらしさを感じながら、少々不安になってくる。
自分だってそれ程社交性がないつもりはないが、これだけ屈託のない笑みを分け隔てなく浮かべられるか自信がない。
プロでないのは雇い主も重々承知であったとしても、こちらが満足した働きができずにしょげ返るのはまた別問題だ。
「注目!」
こちらの不安などお構いなしに、信田さんは胸元で大きく三回手を打ち鳴らした。
いつの間にかこちらへの注意が解けていたらしい子供達の意識が、またも一瞬で集まってくる。
遠慮のない視線が少し痛い。
「この人は新しく来てくれた塩瀬英一郎先生です」
続けて何か言うのかと思いきや、信田さんは簡単にアイコンタクトを取ってきただけだった。
どうやら引き継いで自己紹介を続けよ、とのことらしい。
手元に輪ゴム一本すらないのが悔やまれる。
「えー、ご紹介に預かりました塩瀬英一郎です。どうぞお手柔らかに」
子供相手にどんな挨拶なんだか、とは自分でも思った。
しかし大半が子供であろうが、この多人数の場の重圧の中第一声でタメ口がきけるタイプの人間でないのは重々承知である。
お辞儀をして、顔を上げるまでの間にカッコイイと女の子が囁くのが聞こえた。
最近の子はマセてると言われてきた世代のはずなのに、思わず同じ言葉を使いたくなる。
「ジジ臭え!」
かと思えば、ぴしり、と音が出そうな程見事に指さされた。
「どこがよ!」
囁きと同じであろう声の主が声高らかに非難をして、完全に当事者である自分が蚊帳の外になったような気がする。
どうしたものかと信田さんを見やると、小さく苦笑された。
まあ見てなさい、との囁きに少年の主張が被った。
「今時イチロウでも相当なのに、エイが付くんだぜ? エーイチローとかねえよ! 頭白いし、『どうぞお手柔らかに』なんて古臭せーし!」
余りの全否定っぷりにちょっとショックだ。
何がそんなにも気に入らないのか良く分からない。
それでも信田さんはまだ少年を止めようともしないし、それどころかどこか楽しそうにさえ見える。
「ユーキなんて全然格好良くないし、頭悪いのによくそんなこと言えるわね!」
完璧でなければ人を貶してはいけないとは、お前はどこぞのイエスか、と最初と比べれば落ち着きの出てきた頭の中だけで突っ込みを入れる。
さて、次は何を貶されるのか。
やっぱり顔と頭か。
外見についてはもう髪で言及してしまっているから、何でくるか検討がつかない。
あえて言うなら、これくらいならごろごろいるだろ、くらいが適当なところか。
「え……?」
ところがすぐさま言い返すものと思っていた少年は顔を真っ赤にして、踵を返した。
子供の輪の中から離れて行く少年に女の子が追いすがるわけでもなく、突然の行動に回りの子がざわつくでもない。
どうやらいつものことらしく、女の子は鼻息荒く友達の元に戻り、他の子達もあっさりと自らの遊びに帰っていった。
ああ、そうか、と思う。
そうか、あの子はいっちょまえにあの女の子のことが好きなのだ。
以前、昔の村には子供なんてものはいなかったという話を聞いたことがある。
そこにいるのは村の中で畑仕事はもちろん、祭礼において重要な役目を担う小さな大人だったという。
今現在それらの仕事はなくなっているとはいえ、やはり彼らもまた小さな大人のままなのだ。
「ねえ、センセー」
ユウキとかいう少年を目で追っていると、エプロンを遠慮なく引っ張られた。
かと思うと後ろからぎゅうぎゅう押される。
「縄跳びするからさ、縄回して!」
「八の字があともうちょっとで百回できんだよ!」
「百回も?」
「すっげーだろ!?」
赤い縄解きながら持ってきて、即座に端を握らされる。
子供達の目は目前の輝かしい百回という大台にきらめいていて、断れそうな雰囲気ではない。
縄跳び百回は十分力仕事なのではなかろうかだなんて、先生方をほんの少し恨んだ。
普通に縄を回すだけなら百回くらいはそこまで辛いものではないが、実際は百回達成に付き合うのだからその何倍かは回していたと思う。
それにやはり普通に縄を回すのではなく、皆が跳びやすいように大きめに回さなければならないのだ。
百回を通り越して百十二回という偉業を成し遂げた彼らが大興奮の内に駆け出して行くのを見送りながら、だるく痺れた腕を難度か振った。
「塩瀬せんせ、お疲れ」
縄のもう片方は交代で回していたのだが、最終的に担当していた少年が縄の先を差し出すように促してきた。
子供に任して良いものかと疑問に思ったのは、少年に縄を渡してからだった。
「ああ、えと」
「アメミヤタツロウ。空から降ってくる雨と宮殿の宮で雨宮ね。達郎は友達の達に邑偏の郎」
まだ精々中学年くらいだろう少年の口からぺらぺらと漢字の説明が出てきて、一瞬反応に困る。
電話口の対応だって、初めてなら詰まりながらの説明になってしまうだろうに、淀みのない言葉はこういうことに慣れているだろうということを示していた。
「ありがとう、雨宮君」
「別に達郎で良いのに」
とりあえず少年の説明は一旦流すことにして、礼を言う。
少年も気にしていないふうにへらりと笑いながら、想像していたよりもずっと丁寧に縄を結んだ。
「いや、一応仕事だし、それはちょっと」
「じゃあ、オンオフは使い分ける方向で、だね」
オフで会う予定があるのだろうか、とか思いながら了解すると、達郎が宜しいと言ってまた笑った。
少し大人びた、目を細めるような笑い方にほんの少し引っ掛かるものを感じる。
けれど、そんな些細なものは遠くから呼ばれる声とそこから生み出される慌ただしさの前では、さながら気泡のような儚さでしかなかった。
「それにしてもせんせ、エプロン似合うね。主夫?」
「……煩い」
最終的に違和感を吹き飛ばしにかかったのはこの一言だったのだけれど。
結局は高校生だろうと小学生だろうと、人を弄るポイントなどそうそう変わりはしないのだ。
だとしたら、子供らしさなど最早空前の灯火。
そこにいるのはやはり小さな大人、ただの人間に違いない。