どうすれば良い、どんな言葉を掛ければ良い。
俺はこんな世界を知らない。
そうしてそこで生きてきたひとの気持ちなど、本当に分かりはしないのだ。
きっと、誰かと誰か以上に俺と達郎は分かり合えやしないのだ。
だとしたら、俺はあの子に何がしてやれるのだろう。
体のすぐ横を炎の赤色が走り抜けて、熱く乾いた空気が肺に紛れ込む。
本当ならもう少し脇に逃げておきたかったのだが、黒い顔にずんくりむっくりした黄色い体のシャドウに道を塞がれて何ともならなかった。
こういう形でこれを見るのは初めてだったが、少なくとも自分はこれを知っている。
理解しているといっても良い。
「――ペルソナ」
声を呼び水にして火球が浮かび、シャドウの前で弾けて火柱が立った。
普段とは違う獣の高い断末魔に、耳を塞いでしまいたくなる。
「塩瀬君大丈夫だった!?」
雪子が駆け寄ってきて、制服の袖や裾を持ち上げて確認してくる。
あの擦れ擦れに飛んできた炎の塊が計算されたものではなかったのだと気づいて、今更ながらに肝が冷えた。
「……こりゃ、足場悪いし、余程のことがなかったら混戦中はアギとか使わない方が良さそうだな」
靴の中に砂が入ったらしく、器用に片足だけでバランスを取りながら花村が靴を引っ繰り返して振っていた。
確かに靴下にじゃりじゃりした物は感じなくはないのだが、どうせ取ったところですぐに入り込みそうなので気づかなかったことにしておく。
「まあ、余り長丁場じゃなさそうなのが救いっすね」
完二が見上げる視線の先に、高い建物が立っていた。
女の子が喋っていたビルような代物ではなく、巨大な一つの石を切り抜いたようにも見えるそれに向かって自分達は歩いていたのだ。
「でも、さっきから出てきてるのって、シャドウで良いんだよね……?」
「自分で言うのも何だけど、俺のペルソナに見えるな」
黒い顔のシャドウはどう見ても自分の中にあったはずの、ヌエというペルソナだった。
「実はクマも分からんクマ……。シャドウって言われたらそんな気もするし、違うって言いたいような気も……?」
「んー、達郎って奴がシャドウを変化させてるってか? そんなのありかよ」
そもそもシャドウを変化させるなんてことができるなら、それはそのままシャドウを支配下に置いているといえるだろう。
だとすれば、霧が出たとしても影はともかくシャドウには襲われることはないのだ。
そうして、達郎は己に影がないという。
「ない、とは言い切れないんじゃないかな。あの人達が言ってたことが本当なら、そういうことができてもおかしくない」
ほら、何だったかな、と雪子がカーディガンを撫でながら、言葉を探した。
「『ここは彼の世界であり、私は世界の一部』だったか? その言い方だと、あいつらがシャドウじゃないとも取れそうだな」
「あれ?」
「もうこれって、さっさと行っちゃった方が良くない? 結局分かんないみたいだし」
判断材料が少なすぎて、いつかみたいな流れになってしまった考察に千枝が両手を挙げて降参する。
花村もお手上げ侍、とか何とか言いつつ千枝に習った。
建物の前に来るまでに二、三度自分のペルソナらしき姿を見たが、向こうから襲って来る様子はなかった。
こちらからどうにか視認できるくらいなので、もしかしたらこちらに気づいていないのかもしれない。
単にこちらまで足を運ぶのが面倒なだけなのかもしれないが、どちらにせよありがたいことには違いない。
「うおお!?」
「すっごーい!」
建物の入り口らしき所に来ると、まるで自動ドアのように黒い石で作られた扉が音を立てて上に上がって行った。
それも、首を痛くなるくらいに上に上げなければいけなかったので、真面な面積の扉ではない。
とにかくデカイ、としか表現のできない入り口だった。
その門を潜ってすぐのことだった。
「分っかんないなあ」
溜め息交じりに吐かれた言葉と共に、達郎が音もなく弾む立方体を背にして困ったという顔をして立っていた。
同い年くらいの顔立ちにはやはり金の瞳と黒と緑の入れ墨が踊っている。
「皆から聞いたでしょ? ここがこんな風になったもの、というか世界がこうなったのも全部俺のせいなんだよ。もしかしたら、真夜中テレビができたのも俺のせいかもしれないし」
後頭部を軽く掻きながら事もなげに言い放たれて、花村の口から息が漏れ出すのが分かった。
「いや、お前気軽に黒幕発言するなよ。もしそうだったら俺達……」
花村が飲み込んだ言葉が手に取るように分かって、溜まっていたらしい唾を喉に流し込んだ。
倒さねばならない。 もし彼が原因であるならば、達郎を。
「……そうできたら良いんだけどね。でも、誰も止められなかったんだよ。だから世界はコトワリに基づいて創世する機会を失ってしまった」
止められるはずがないと弱々しく達郎が笑って、塔の中から入り口の方に向かって来た。
目の前まで来ると、扉の外を指さしてご覧よ、と注意を促した。
黄土色の砂が冷たい光を反射していて、やけに目が痛い。
「本当ならすぐに君達が住んでるような世界になっていくはずだったんだ。だけど、俺のせいで千年、いやもっとかな。とにかく途方もない時間の間このままだったんだ。それでも何とか世界らしい姿になってくれたんだけど、やっぱり駄目なのかな。こんなことばっかり起きる」
「……こんなことばっかり?」
「そう。似たようなことがね」
千枝が反芻するように呟いた言葉を拾って、達郎が短く答える。
「だから、全部の元凶は俺なのかもしれない。……そんな奴がさ、あんな良い所でのうのうと暮らしてちゃいけないんだよ。だから、見逃してくれないかな」
「……言いてえことはそれだけか?」
暗に帰れと拒否されて、嫌だとか駄々っ子のような言葉しか浮かばずに返事ができないでいる間に完二が持っていた机を床に転がした。
「危ないよ」
べこん、と薄い金属が撓む音と共に達郎の脇を掠めた机の脚を少しだけ目を丸くして見下ろしてから、彼は呆れたように指摘した。
「んなこたどうだって良いんだよ。お前の言い分が終わってんなら、とりあえず歯、食いしばれ!」
宣言してからの完二は速かった。
怒号と共に振り下ろされた拳が踏み込んだ分の重みを乗せて達郎に襲いかかる。
誰一人止められなかったし、悲鳴を上げる暇さえなかった。
「今の、食いしばる時間なくなかった……?」
「そう言うんなら、素直に食らっとけよ……!」
頬の手前に軽く添えられた手の平で完二の拳を支えながら、達郎が自由な方の手で頬を軽く掻く。
完二はまだ拳に力を入れているようなのに、達郎は自然体といっても良さそうな雰囲気だった。
「おいおいおい、漫画じゃないんだぞ」
花村が若干引き気味としか言いようのない素振りで一歩後ろに下がる。
誰も止められないとは何度か聞いてはいたが、目の当たりにするとさすがに足が竦みそうになった。
違う、勘違いするな。
自分達は達郎とは戦わない。
ただ、連れて帰るだけなのだ。
落ち着け。
落ち着くんだ。
今の達郎が本当の達郎であるならば、自分は初めて彼と対峙しているといっていいのかもしれない。
けれど、今まで会ってきた達郎も達郎には違いないのだ。
人はペルソナを使うことでしか、自らを演じることはできない。
必ずその内側には内面が存在するのだ。
そして、ペルソナは内面に操られているのなら、あの日々に欠片でも達郎の本当があったに違いない。
「――馬鹿野郎! 俺にあんなこと言っておいてお前だけ逃げるのかよ!」
殴ることを諦めたらしく、拳を降ろして完二が叫んだ。
完二の様子は背になっていて分からないが、達郎が完二を見ているので多分最低視線は合わせているのだと思う。
堅く握り合わされているであろう拳が小さく震える。
「あんなこと?」
「おまっ、忘れんなよ! 台風の目だ台風の目!」
完二に指を指されながら非難されて、達郎が思い出したようにああ、と呟く。
自分もすっかり忘れてしまっていて、何とはなしに花村を窺ってみれば似たような表情でやはりこちらを見返してきた。
「あれ、分かったんだ」
メッセージが伝わった満足感からか、達郎がへらりと笑った。
「ああ、人は一人で生きてないってことだろ」
「お、正解」
「それを言うお前が引きこもってどうすんだよ!」
あくまでも平静を崩さない達郎に苛立ったのか、完二が達郎の襟刳りを引っ掴む。
完二よりもいくらか背の低い達郎が少し首を後ろに倒しながらも、やはり小さく笑った。
「俺みたいになるから止めとけよ、って言ったんだよ」
台風の目にあの三人と達郎の言葉。
何かが音を立てて繋がったような気がした。
完二が達郎を吹き飛ばして、目立った抵抗もなく達郎が尻餅を着く。
完二が意識を集中しだしたようだったので、思わず背後から膝裏を蹴り込んだ。
「っ――! 何すんすか先輩……」
「落ち着け完二。それに達郎、お前勘違いしてないか?」
強烈な膝カックンを食らった完二を床に座ったまま見ていた達郎が呼びかけに反応して顔を上げる。
「台風の目っていうのは周りに雲があるからあるんだ。で、台風の目が人だって言うなら、周りに誰もいなくちゃ何もできないってことになる」
勇が言っていた、一人きりで何もできなくとも良い、というのは恐らくそういうことだろう。
周りに誰もいなければ何かしたところで、誰にも何一つ作用できない。
真に孤独な人物は何もできないのだ。
けれど彼は成し遂げた。
それは良い結果ではなかったとしても沢山の人物に作用したのだ。
「受胎をしたのは誰? 強くなろうとしたのは誰? お前を羨んだのは誰? 誰がお前を巻き込んで、辛い目に合わせたんだ?」
「違う、違うよ。全部俺がやったことだ。俺がもっとうまくやっていたら千晶も勇も傷つかずに済んだんだ。全部俺のせい。自業自得なんだよ」
達郎がふるふると頭を振って否定するが、その言葉を受け入れるわけにはいかないのだ。
たった一人が世界を壊し得るだなんて、悲しいことを認めるわけにはいかない。
たった一人にその罪を負わせるなんてあんまりだ。
「お前のせいなんかじゃない。自業自得なんかじゃないんだ! 一人だったら何もできない! お前は巻き込まれたんじゃないか!」
思い出して、達郎。
お前は本当にそんなことがしたかったのか。
「ちがう、おれは」
俯いて弱々しく振られる頭をどうにかして止めてやりたいのに、核心を突く言葉が見つからずに拳に力を込める。
当時のことを何も知らないということがこれ程枷になるとは思わなかった。
抽象的な言葉しか出てこなくて情けなくなる。
「思い出せ、本当にお前の周りには誰かいなかったのか?」
祈るように誰か、と告げる。
誰か誰か、この一人きりになろうとする少年を助けて。
だれか、と呆然と達郎が呟いた瞬間、耳触りの良い金属が触れ合うような音が響いた。
音の根源を探そうと視界を巡らせていると、青い塊が急降下してくる。
「人修羅!」
「ピクシー……?」
達郎の目の前に舞い降りたのは、見覚えのある妖精だった。
羽根を忙しなく羽ばたかせながら、腕組みをして達郎を睨みつける。
「何よ、また忘れちゃったの? ずうっと側にいてたのに!」
「え、あ……」
達郎が額に指先を当てて、俯きながら気の抜けた声を出した。
その手をピクシーがどかせて、少し驚いた様子を見せてから呆れたように笑う。
「もう、何度コンゴトモヨロシクって言わせれば気が済むのよ」
「ああ、そうか……。そうだったんだ」
気の抜けた声を口元から零すに連れて、指先がのろのろと下がっていった。
その後をなぞるように透明な雫が零れていく。
ふわりと口元が綻んだ。
「ごめん、ほんとごめん。ありがとう、ずっと一緒だったんだ。これじゃあ一人遊びだなあ」
「ソノトオリダ、ワレラノヨビゴエヲキキモシナイデ」
頬を緩ませながらぼろぼろと涙を流す達郎が酷く幸せそうに、硬質な響きを孕む片言で批判した主に目をやった。
現れた白いライオンのようなものが達郎の下に歩み寄って、湿った頬を舐め上げた。
痛いよ、と笑う達郎の腕に七色の蛇が擦り寄った。
その蛇のどちらが頭ともつかない頭を達郎が目を細めて撫でる。
「あの子をちゃんと見てくれてありがとね。あんたがいないとずっと見てもらえないままだったかもしれないわ」
「――え」
自らに蛇を纏わり付かせた女性が二匹の獣に懐かれている達郎を遠目に見ながら、こちらに軽い調子で礼を言ってきた。
いつの間に隣にきていたのかも分からなくて、全身が緊張する。
「……いえ、結局俺達だけじゃきっとどうにもなりませんでした。こちらこそありがとうございます」
実際のところあまりの追いて堀っぷりに何が何だか分からない状態なのだが、とりあえず返礼だけはしておく。
このひとが誰なのかもさっぱり分からないが、恐らく長く達郎と共に旅をしてきたのだろう。
かなりの間蔑ろにされてきただろうに、達郎を見る瞳には欠片も怒りが込められていなかった。
ああ、彼は愛されていたのだ。
あまりにも長い長い時間きっと彼は生きてきた。
そこに百年生きれば御の字なくらいの生き物が入り込もうたって、土台無理な話なのだ。
それはとても悲しいことだけど、それでも途切れてしまった縁の懸け橋になれたと信じても良いだろうか。
自分の言葉が、行動が、彼の力になり得たと。
そして、一人きりだと言った少年が、本当は沢山のひとに囲まれていたと信じて良いだろうか。
「羨しくなんか、全然ないじゃないか」
ほんの少し不服を込めて言ってやれば、隣のひとがからからと笑った。