13:その世、戦場にて



「と、言う訳でやっぱりある程度探ってたんだろうな」


 完二と接触した後に直斗に会いに行っているという流れには、やはり意図的なものを感じずにはいられない。
 自分と完二との遭遇が偶然だったとしても、どうやら余所者が嗅ぎ回っているらしいと聞いて会いに行くというのには違和感がある。
 それでもまだ好奇心といえなくはないが、こちらに怪奇事件のことやマヨナカテレビのことを尋ねたり探っていたりとなれば話は別だ。

 悲しいけれど、そういうことだ。


「つまり、お前は白鐘に会ったってことだよな?」


 ジュネスの屋上で、店長の息子が首を傾げる。


「当然だろ」


「おいおい、何が当然だよ! そういうのは完二の役だろ!」


「いい加減にして下さいよ!」


 声を大にして花村が主張した次の瞬間、完二が総プラスチックの椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がってテーブルに手の平を叩きつけた。
 既に氷ごと飲み干されてしまって空っぽになった紙コップが衝撃で転がってきたので、思わず手に取って元に戻す。


「か、完二君……」


 完全に防御体制に入ってしまった千枝を尻目に、雪子が怖ず怖ずと声を掛ける。
 俯いていた顔が呼びかけに反応して僅かに上がると、本人を除いた全員が言葉をなくしてしまった。

 怒っている。
 完二は間違いなく怒っている。
 けれど、その表情には怒りよりも傷ついたとしかいいようのない色が浮かんでいて、どうやら瞳には涙が滲んでいるようだった。

 いーややこやや、せーんせにいったーろ。


「悪りい……」


「あ、いえ、こっちこそずっと半端な感じだったし……」









 屋上での会話はやはり達郎を意識していたのか、普段とは比較にならない程早く話の種が尽きた。
 というよりも、いつもなら話の種が尽きるなどということはないにも関わらず、円卓を囲む全員が早々に口を噤んだ。
 誰がテレビの中に行こうと言い出したかは覚えていないが、今、前回と同じような場所にある病室の引き戸が目の前にあった。


「開けるぞ」


 全員が自分の言葉に答えて頷くのを見届けてから、戸に手を掛けてゆるゆると引っ張った。


「あ、れ?」


 ドアの向こうは砂漠でも、丸い世界でもなかった。
 そこにあるのは窓のない部屋と、大きな椅子の先にある奇妙な筒だけだった。


「――何だね。私の静寂を乱さないでもらえないか?」


 金属が小さく悲鳴を上げて、滑らかに椅子がこちらを向いた。
 そして、俄に椅子の主が僅かな驚嘆に目許に力を入れて感嘆の息を漏らす。


「そうか、君達は人修羅に会いにきたのか」


 肘掛けに肘を突いた具合で、何製かも分からない数珠が小気味の良い音を立てる。
 入り口に立って話していては他の面々が入れないだろうから、威圧感のある室内に足を踏み入れた。


「どうして」


「ここは彼の世界であり、私は世界の一部だから、とだけ言っておこうか」


 全ての質問を言い切る前に、目の前の男が口を開いた。
 聞きたかったことと相違なかったので、そうですか、とだけ答える。
 花村を先頭にして部屋に入ってくるのが、なんとなく気配だけで分かった。


「君達は人修羅がいかなる存在か知っているかね?」


「いいえ」


 正確に言えば、達郎が自らを人修羅と称したことしか知らない。


「なら、少々話すとしようか。――人修羅はミロク経典にある、人から出づる悪魔だ。創世をなす際に現れれば、多大な影響を与えるとされている」


 分からない専門用語ばかり飛び出して、一瞬面食らってしまった。
 こちらの理解を待っているのか、区切られた言葉の間で何とか反芻する。
 ミロク経典に創世。
 それに悪魔。

 ああ、こいつは達郎をもはや人ではないと言いたいのだ。
 あんな風に話して笑える者が悪魔であってなるものか。


「あいつは、達郎は人間だ! 悪魔なんかじゃ……!」


 親指の爪が拳の内の手の平にめり込んで鈍く痛む。
 それでも指先の力は納まらなかったし、臓腑から絞り出される言葉も止まらなかった。


「それについて討論するつもりは毛頭ないが、彼が人では得られるはずもない力を有していたのは確かだ」


「塩瀬君!」


 己の意志に反して痙攣した腕を千枝が呼びかけだけの制止と共に押さえ込む。
 普段よりも弱々しい筈の僅かに震える両の手が酷く重く感じて、持ち上げようとしていた手が動かなくなった。


「ソウセイって何なんだよ」


 学校の廊下を革靴で歩くのと似たような音がして、花村が男と対峙した。


「経典に従い受胎を起こし、ボルテクスにて神を降ろし、コトワリに沿った世界を創ることだ。しかし、悪魔の身と成り果てた人修羅には創世は不可能だったにも拘らず、結局最後まで彼はいかなるコトワリの前にも頭を垂れることはなかった」


 目の前に立った花村と視線も合わせずに、とうとうと男が説明を続ける。
 人修羅が創世に影響を与えると言っていたのに、コトワリとやらに従わなかったというのはどういうことだろう。
 コトワリに沿った世界を作るのなら、人修羅が関わらなければ創世には影響しようがないではないか。


「合点が行かないかね?」


 薄暗い部屋ながら、向こうは目が慣れているらしい。
 しっかり表情に現れていたらしい疑問を簡単に読み取られてしまった。


「……はい」


「簡単な話だ。彼は全てのコトワリに従わないどころか、全ての指導者と神を屠った。そうして、世界は生まれ変わる時期を見失ってしまった」


 薄暗かった部屋が瞬く間に明るくなって、奇妙な音を立て始めた。
 花村が怯んでこちらに寄ってくるのを確認しながら、光と音の根源を探る。


「あなたは達郎の影ですか?」


 男の背後で風を切るような音を発しながら、筒のような物体が段々と立てる音を増しながら回っていた。
 足元がぐらつく感覚に冷える肝をごまかすように問いかける。


「知る由もないことだ」


 男の返答を最後に五感が消え去った。









「あら、誰かしら。こんな所で人間に会えるとは思わなかったわ」


 一人、ふざけた格好の子もいるけれど、とジーンズ地を基調にした服に身を包んでいる同い年くらいの女の子が呆れを含ませつつ口元を綻ばせた。
 高いビルの前に道を作るようにちらちらと躍る青い炎が明るい青の布地を更に深く染め上げている。


「……クマは生まれたときからこのカッコですヨ?」


「やあねえ、馬鹿言わないでよ」


 女の子が腕を組んで淡い茶色の髪を弄りながら、一分足りともクマの発言を信用していないらしく笑みを深くした。
 堂々たるジッパーが付いているクマの体を見れば、反対の位置に立っていた雪子と目が合って二人で苦笑してしまう。


「あなた達、あの子に会ったのね」


 依然クマは何か言いたげだったが、その前に女の子が口火を切った。
 先程の男をあの子だなんて呼ぶはずはないから、十中八九達郎のことで間違いないだろう。


「連れて帰りたいんだ」


「どこへ? あの子はもう違うところへ行ってしまったのよ? 私達が着いて行くことすらできないわ」


 ふっと女の子の口元にあった笑みが消え、視線が地面を射貫く。
 垂らした腕を引き寄せるように掴む体が、必死に自分を押し留めるようだった。


「あのとき私に力があれば、私は一緒に着いていけたのに。……あなたにはあるのね。正直言って羨ましいわ」


 女の子が下げていた視線を上げて、ただ自分の瞳だけを見詰めた。
 視線に秘められたその力と渇望から発される逸らすことの叶わない何かに瞬きもできない。
 恐ろしいのに、逃げることすらできなかった。
 神聖なものには恐ろしさと同時に、魅かれるものだのだと言ったのは誰だったか。


「どうして力がなければいけないんだ?」


「少なくともあのときはそうだった。私が達郎君に着いていっても、私に力がない限りいつか戦いに巻き込まれて死んでいたでしょうね。私とあの子が進める道は決して同じではなかったの」


 合わされた視線が外されて初めて瞬きをすると、乾いていた瞳が俄に痛んだ。


「だから、だから私は力がほしかった。力ある者の道を歩みたかったの。結局は違う終着点に行き着いてしまったけど、その点に後悔はないわ」


 伏せた瞼をより下ろして、彼女が滔々と言葉を連ねた。
 迷いのない声音に先程とは種類の違う恐怖を微かに感じる。
 彼女の中には悲しみがあり後悔もあってしかるべきなのに、それでも自分の行動に後悔はないと言い切った。
 果たして自らにそんなことはできるのだろうか。


「あなたとあの子の歩む道はどうかしら?」


 これから達郎に会って話す言葉に付随するだろう全ての責任を思うと、簡単には口が開かなかった。
 自分は彼のことを本当に何も知らないのだ。
 それなのに、あの日々さえ作られたものだとするならば。


「……同じっすよ。あのガキと俺達がどれだけ違うって言うんですか!」


 業を煮やしたのか、完二が女の子に向かって怒鳴りつける。
 その途端、彼女の瞳に冷たい光が宿った気がした。


「無知は罪よ」


「それでも俺はあいつに言わなきゃいけないことがあるんす! あいつにああ言われてなかったら、俺、中々戻れなかったかもしれねえのに、あいつ……!」


 完二の拳が小さく震えて、彼女の瞼が俄に開かれた。


「あの子ったら、また色んなことに首を突っ込んでるのね……」


 再び浮かべられた微苦笑はとても優しくて、どうして達郎と道を違えなくてはならなくなったのか全く分からなかった。


「全く……。今回はあの子の責任ね。いいわ、いってらっしゃい」


 けれど、きっとこの人と達郎が笑い合うことは二度とないのだ。
 そう思うと酷く泣きたくなった。









「何だよ、勝手に入ってくんなよな」


 赤い筒状の部屋だった。半透明の壁の向こうに赤く光る何かが泳いで、大きな流れを作り出している。
 そこで何をするではなしに立っていたらしい、やはり同年代に思える少年がポケットに手を突っ込んだまま振り向いた。
 派手なダメージジーンズに黒い上着を羽織って、栗を思わせる黒いキャスケットを被っている。


「まあ、あいつ追っかけて来るような奴らだし、来るとは思ったけど」


 ポケットに手を入れていては窮屈だろうに、彼は器用に肩を竦めて見せた。


「お前は誰だ? 達郎に何をした?」


 少年の言葉端から、達郎に対する敵意が滲んでいた。
 ここに来てから有り体に悪意を露にしたのは彼が初めてで、握り締めていた武器を強く意識する。
 大剣を振うイメージが頭を過った。


「俺は新田勇。……ああ、お前らの名前なんてどうでも良いから。後、俺があいつに何したか、だっけ? まあ色々あったけどさ、結局はイーブンだろ」


「え、色あったって、じゃあ一緒にいたのか……?」


 花村が独白に近い疑問を漏らして、手持ち無沙汰なのかヘッドフォンに触れる。
 勇がちらりとだけヘッドフォンに視線を滑らせて、己の首筋から項を手で覆った。


「一緒になんていれるわけないだろ。最初からあいつは力があった。……恵まれてたんだよ」


「それは」


「違うとでも言いたいのかよ!?」


 自分が言うはずだったはずの言葉を完全に取られて、全身が緊張した。
 花村も似たようなものだったのか、ヘッドフォンが小さく音を立てる。


「俺が悪魔に捕まって、人間だからってマガツヒ吸い取られてたっていうのに、達郎は悪魔だから、力があるからってずっとあいつらと対等だった! 虐げられても当然って状況を引っ繰り返すくらいの力があいつにはあったんだよ! 俺がどうやったってどうにもらなかったことをあいつは簡単にやっちまうんだよ! 最初から力があったお前には分かんないだろ? そんな奴がわざわざ介入してくるうざったさとか惨めさとかなんてな!」


 少年が一気に言い切っても、誰も口を開けなかった。
 彼の主張は分からなくもない。
 一人だけが選ばれて、自分が選ばれないまま不当な目に遭い続ける理不尽に彼は怒っているのだ。
 そして、その絶対的な力が自分の周辺を変えてしまうことを嫌がっている。
 妬み、ルサンチマン、冷たい怒り。
 そういう感情の塊だ。


「――花村。花村はどうだったの?」


「へ?」


 千枝が花村の制服の袖を引っ張って、小さな声で問いかけた。
 状況を飲み込めないでいる花村を尻目に千枝が勇の険しい視線にほんの少しだけ目を向けて、堪えられなかったらしくすぐさま顔を僅かに逸らした。


「私、新田君? 君の気持ちが分かる気がするんだ。全然レベルが違うと思うけど、私もずっとそうだったから。だから、実は二人が商店街の所に行ったときの話を聞いて、花村って凄いって思ったもん」


 勇の肩口に視線をやりながら、千枝が言葉を選ぶように途切れ途切れに口にした。


「え、嘘」


「本当だって! 隣にいる人がいきなりさ、訳分かんない方法で戦い出したらやっぱり吃驚するだろうし、私だったら怖いと思ってたと思う」


 毛程も予想していなかったらしい花村の間の抜けた返事に、千枝が袖を引く力を強くして語調を弾ませた。
 考えたことはなかったけれど、あのとき花村は何の戸惑いもなく凄いと言ってくれた。
 何年も共にいたわけでもなく、まだ出会って数日しか経たない得体も知れない人間をあっさりと受け入れてくれたのだ。
 緊張仕切っていた精神がじわりと緩む。


「そうだな、花村は凄い」


 ありがとう、と続ける前に花村が自由な方の手を降って否定のポーズを取る。
 なんとなく赤い頬が揺れる指先の向こうで見え隠れしていて、どうにもおかしくて堪らない。


「い、いやいや、俺あのときテンパってて一杯一杯だったから、そういう発想がなかっただけで、ええと、その……!」


「俺だって、テンパってたつーの!」


 いちゃつきやがって、と勇が吐き捨てて、キャスケットを被り直した。
 深くなったキャスケットの縁から窺える瞳の険が、幾分か質を変えているように思える。


「……分かってるんだよ、俺だって。そこの、花村とかいう奴みたいに力がなくたって大丈夫な奴だって、同じように力を持ってても駄目な奴がいることくらい分かってるんだ。でも、頭で理解してたって、納得できないってあるだろ? 俺にはできない。できなかった」


 言葉を重ねる度に声が弱々しくなって、従うように頭が下がっていく。
 できないと繰り返した頃には消え入るような声だけで、正面からは勇の表情が全くもって窺えなかった。


「俺はもう、信じてたはずの自分を裏切ったり、それで誰かを傷つけたりしたくない。そうできるなら、一人っきりで何もできなくなったって構わない。お前達には分からないかもしれないけど、少なくとも俺にはそうするしかないんだ。――千晶も言ったかもしれないけどさ、俺はお前らが羨しいよ」


 笑っているような眩しそうな、そんな表情で勇は顔を上げる。
 その表情が達郎と被って、今更ながらに気づいてしまった。

 ああ、彼はずっと。


「達郎は俺を羨しいって思ってるのか」


 もしかしたら自分だけではなく、自らを何の迷いもなく受け入れてくれる場所を持つ全てを羨んでいるのかもしれない。
 彼の持つ場所は殆どが己の力で持って割り込んで作った場所だった。
 偽物の立場にありながら振りかけられる優しさの温度差に、彼は幾度震える腕を抱き寄せただろう。


「羨しいに決まってるだろ。お前は誰とも違う力を持ってるのに、認められる場所があるんだ」


 知らなかった。
 自分がいかに恵まれているか。
 守られていたのか。
 そして、これからも信じられて、仲間と共に戦っていく確信を意識する以前に揺るぎないものして疑わなかったか。
 達郎にはなかった沢山のものをどれだけ持っていて、気づいていなかったのか。

 俺は何も、何一つ知らなかった。