「ああ、うん、分かった。じゃあまた明日。……またな」
帰りのバスを待つ間、ぽつりぽつりと細切れの単語が聞こえてくる。
電車内での会話が良しとされて、携帯電話では何故駄目なのかと留学生が教授に問いただしたことがあったらしい。
答えは簡単、人は他者の会話に大なり小なり聞き耳を立てているからである。
最低内容までは分からなくとも、何かを話しているくらいの認識を意識下でしているのだ。
一方のみの会話だけでは何を話しているのか分からなくて余計に注意が行くのに、当然話題は分からずに苛立ちが募る。
この一点に置いては、日本人は外国人よりも他者に関心があるといえるのかもしれない。
「で、何だって?」
花村がジュネス方面組に掛けた電話なのだから、大体内容は予想できるものの、以上の理由より気にならないはずがない。
「特に情報はなかったってさ。こっちも一応伝えといたけど、詳しい話は商店街でだと」
「ん、分かった」
家は空き家で、学童関係者には記憶が残っていないというのを説明していたのは聞こえていた。
携帯電話から漏れ出る千枝らしき声も甲高く響き、花村が顔を顰めて携帯電話を握り直していたのを覚えている。
「バス来たな」
二つ折の携帯電話を手の平で弄びながら、花村が緩やかなカーブの向こう側からやって来たバスに視線をやる。
今、目には見えないけれど、曲線を描く道の向こうには必ず世界が存在する。
今は見えないけれど存在する世界。
そこに達郎はいるのだ。
「……ああ」
バスは以前達郎と乗った物と全く同じ形をしていた。
とうぜんだ、と胸中で呟く。
夜を越える。
一人の世界に押し潰されそうになる夢をみた。
目が覚めれば、あまりに狭い部屋ばかり。
目が覚めたら全身がばきばきに固まっていて、詰まった首を傾けた途端折れたような音が響いた。
響きが余りにも大きかったので、階段の一番下で一瞬固まってしまう。
あんまり鳴らし過ぎると神経でも傷つけてしまいそうだ。
「ねえねえ、お兄ちゃん! 菜々子ね、妖精さんの夢みたの!」
そっと曲がったままの首を元に戻していると、先に起きていたらしい菜々子が興奮覚めやらぬ様子で駆け寄ってきた。
「妖精さん?」
殺伐とした生活を送っているからか、菜々子との時間は最大級に気の休まる一時だ。
度を越すとロリコン呼ばわりされそうなので、自粛とか自制辺りの言葉を忘れないようにしようというのは日々の決意するところである。
「うん、トンボみたいな羽でね、髪の毛が長くなくて、青い服着てるの」
これくらい、と菜々子が耳の後ろから髪の毛を掬い上げて、視覚的にショートヘアを作り出す。
一瞬、一時期己の中にいた一体のペルソナが脳裏を過ったが、それが菜々子の夢に出てくるとは思えない。
「それで、妖精さんは何か言ってた?」
「あのね、『散々無視してくれちゃって、たとえアンタだっていい加減許さないわよ!』って怒ってた」
ちゃんと口調と仕草を真似ているらしく、菜々子が腕を組んで口を尖らせる。
菜々子がやっても迫力がないどころか可愛らしい域だが、菜々子の言う妖精さんとやらが自分の知っているものであったとしてもやはり全く怖くない。
「それは全然怖くないな」
「うん、すっごく可愛いかった!」
ふわふわした髪を撫でてやると、菜々子が表情を柔らかくする。
自然緩む頬を感じながら、言いそびれていた朝の挨拶を二人で交わした。
おじさんは平日と同じ時間帯に出て行ってしまったらしく、パンにベーコンと目玉焼きを乗せて二人で食べる。
残っていたコーヒーに牛乳を入れるついでに、この前買ってきたミロを入れた菜々子のコップにも牛乳を少しだけ注いだ。
菜々子はどうも飲むよりもミロを練る方が好きな節が見られるが、気持ちが分からなくもないので気が済むまで好きにさせている。
時間が切羽詰まっていれば別だけど。
先に食事を終えてしまうと、早朝にタイマーをセットしておいた洗濯機から洗濯物を取り出す。
平日は必要最低限の物しか干せないが、今日は休日なのでたっぷり干さねばならない。
今日明日くらい盛大に干しておかないと、冗談ではなく着る物がなくなるから恐ろしい。
シャツの皺をはためかせて軽く伸ばしていると、台所へ菜々子が食器を運んで行った。
食器洗いが終われば近い内に菜々子は以前から約束していた友達と遊びに行くだろう。
自分はそれを見送ってから家を出るのが今日の予定である。
菜々子が家を出て行って、歯磨きも終わってしまった。
小さい二つ折の財布をポケットにしっかり入れて、水屋の引き出しに入っている鍵を取り出す。
後は玄関から一歩踏み出して、鍵を締めれば暖かな家庭からはわずかながらだがおさらばだ。
待っているのは、自らの行動に対する自責の世界。
それでも逃げるわけにはいかないと、唇を噛み締めた。
「いや、その、会えなかったんすよ……」
昨日の夕方に集まって交換した、直斗についての話題の完二から発せられた第一声だった。
やはり彼が来る日を知らなかったのか、と思った後すぐに連絡を入れてやれば良かったのではないかと思い当たった。
今更なので黙っておいてしまったが。
その他の情報としては、他の地域の子供など誰も覚えてはいないらしく皆無だったようだ。
こちらの情報を伝えたところ、記憶の改竄に眉唾にもなりたくなるが、あの変貌を見てしまっては完全に否定できないというのが満場一致の意見だった。
このまま情報を集めていても埒が明きそうにないので、翌日である土曜日の午後にもう一度あの丸い砂漠へ繰り出すことに決めた。
「決戦は土曜日! って何か語呂悪いね」
斜め上を指さして千枝が宣言したものの、すぐさま罰の悪そうな苦笑を浮かべて立てたままだった人差し指で頬を掻く。
「決戦って言ったら金曜日だもんな」
リズムも歌詞も思い出せないが、そんな歌があってそれが告白前夜の歌だったのは覚えている。
花村が小さく鼻歌を歌ったけれど、やはりその先は思い出せなかった。
「今日が木曜日だったら、直斗君にも会えてたのにね」
「……もうその話は勘弁してくださいよ、天城先輩」
がくりと落とされた完二の肩から、ほんの少し上着が擦れた。
それが大体十六時間くらい前の話で、現在午前九時前、ジュネスへの道程を黙々と歩いている。
隣に人がいるわけでも散歩をしているでもなし、話しようがないので当然ではあるのだが。b
そろそろ梅雨入りしそうな時期には珍しく、天井が抜けたような青空がどこか寒々しい。b
見上げてしまったら最後、目眩でも起きてしまいそうで意識的に視線を下げる。
直斗が何時頃に現地入りするのかさっぱり分からないが、結構な時間を掛けて来ているらしいので始めはそれなりに休憩できる場所に立ち寄るのではないだろうかと踏んでいる。
駅で待つ選択肢もあったのだが、結局直斗の交通手段が分からずに除外した。
大体九時半前にジュネスに着いて、とりあえず自社ブランドのお茶を二本買う。
温くならない内に彼が現れれば良いのだけれど。
二つのペットボトルにシールを貼ってもらって、両手に一本ずつぶら下げながらベンチに向かう。
階段の脇のベンチとは逆にあるエレベーター、つまり直斗をよく見かける辺りに視線をやりながらペットボトルの蓋を開けた。
「――あ」
白鐘直斗がやって来たのは、いい加減ぼんやりしているだけでは不審かと思い、特に意味もなく携帯電話を弄り始めた辺りだった。
時間にして、およそ三十分。
携帯電話のディスプレイの隅で時間を確認すると、現在時刻は十時過ぎらしい。
「白鐘君!」
さっさと通り過ぎようとする直斗に向かって声を大にして呼びかけると、分厚い靴底が床に擦れて高く鳴った。
携帯電話を畳んで手に持って、ペットボトルはベンチに置いたまま立ち上がる。
「おはようございます、塩瀬さん」
「ああ、おはよう。早いな」
ちゃんと名前を覚えられていたことに妙な満足感を感じながら会釈を返す。
しかし、まさかこんな時間から来ているとは思いもしなかった。
「そうですか? 学校へ行くのと同じ時間に家を出ればこれくらいですよ」
この辺りは地元に学校があるから中学生並の時間に家を出ても間に合うが、ベッドタウンに住んでいれば高校まで一時間以上掛かってもおかしくない。
何でもないように直斗は言うが、だとすれば遅くとも七時台の電車に乗っているということにならないか。
「お見逸れしました」
社会人だって一応は週休二日の昨今、誰が悲しくて日常的に休日の早朝の電車に乗らなくてはならないのか。
深々と頭を下げると、直斗が小さく笑う。
「塩瀬さんもどうしたんですか? こんなに早くからジュネスに詰めて」
こんなに早く、が少々誇張して発音されて、自らの愚行に思い当たった。
朝早くからもっと遅くに来るかもしれない人を飲み物まで準備して待っているなんて、理由がなければただの変態かストーカーだ。
「いや、これは、ちょっと聞きたいことがあったから。本当それだけ、です」
釈明しようと思ったのにうまく言葉が組み立てられなくて、余計に怪しくなってしまった。
やはりその姿がおかしかったのか、直斗が口元に緩く握った拳を当てた。
「それで、何が聞きたいんです?」
密やかな笑い声に居たたまれなさを感じながら堪えていると、いまだ気配を残したまま直斗が問いかけてくる。
「ああ、あの、雨宮達郎って子知らないかな?」
「あめみや? ……名前だけでは分かりませんが、とりあえず特徴を教えてもらえますか?」
軽く結んでいただけの拳に力が込められて、腕が体に密着する。
視線が下向きのまま問いかけられて、答えようとしたところでベンチに置き去りになっているペットボトルを思い出した。
「その前に座らないか? お茶もあるし」
「あ、わざわざ済みません」
ベンチを指させば、直斗が頭ごと視線を上げてベンチを見た。
麦茶のペットボトルを手渡して、直斗がベンチに座ったのを確認してから自分も座る。
手の平で持て余すかと思いきや、ぱきりと蓋が空く音がした。
どんな時であっても、自分の好意を素直に受け取ってもらえれば非常に嬉しい。
「特徴だけど、まずは小学生中学年くらいかな?」
まだ本格的に声変わりしていないからか喉仏が目立たない首が顎の影に隠れるのを見届けてから、達郎の年格好を上げ始める。
「で、スクールカットというか、ベリーショートって言った方が印象からすれば合ってると思うんだけど、短い髪の毛で」
ちょっと癖毛がある、と続けようとしたら、ああ知ってますよ、多分あいつでしょう、と少々険のある声色が返ってきた。
瞬時に内臓が締め付けられたような感覚が走って、同時に内心でガッツポーズをする。
詰めが甘いぞ、達郎。
「何か粗相でも……?」
それでも外面は取り繕って、恐る恐るという風に尋ねてみる。
探偵業をやっているらしい彼には簡単に見抜かれてしまうかもしれないけれど。
「あの子には人の趣味趣向にけちを付けないように言っておいて下さいよ。何も知らないくせに知ったような口を聞くんですから」
語調だけは抑えているものの、気を抜けばすぐにでも爆発しそうな様子で直斗が陳述する。
そういえば完二に会ったときも結構な物言いをしたらしいので、彼にもまた無遠慮に物を言ったのではなかろうか。
完二に指摘したのは、人は人と関わらないで生きていくことはできないということだったか。
テレビに入れられる前の彼には一番耳の痛い発言だったろう。
「……具体的にどうとか聞かないで下さいね」
思い出すのも忌々しいというように、直斗が先手を打ってくる。
まさに尋ねようと開きかけていた口が一瞬行き場を失った。
「……ごめん、わざわざ呼び止めた上、気分悪くさせて」
「え、いえ、それは気にしないで下さい」
質問の代わりに出てきた謝罪に直斗が俄かに驚いて手を振った。
片方の手に握られているペットボトルが水音を立てて、何となくそっちに目が行く。
「ほら、これでお釣りがくるくらいですよ」
だから、そんなに気にしないで下さい、と直斗が少し困ったように笑った。