11:君の軌跡を追いかけて



「完二、強く生きろよ……」

「ここで言ってもしかたあるまいに」

 がたがたと音を立ててバス停から離れて行くバスに乗りながら、やはり小さくなって行く心細そうな完二を花村とぼんやり眺めていた。
 雪子と千枝が完二の両サイドを固めていて、彼に最早逃げ道などない。
 うっかり達郎と白鐘少年の話をしていまったことを暴露して、女性陣と若干一名から面白がられる結果となってしまったのが運の尽きだ。
 ある程度達郎と面識がある人物がいた方が何かと良いだろうという一見順当だが邪な理由で、完二はジュネス方面の聞き込みに組み込まれてしまった。


「今日ってあいつ来てる日だったっけ?」


 決まった曜日にしか来ていないくらいしか覚えていなくて、最近使うようになった小さなメモ帳を胸ポケットから取り出す。
 五月の曜日の欄に乱雑に丸が付いているのは火、木、土、日の四日間。
 そして、今日は確か。


「いないな。金曜だし」


「……ちっ」


 メモ帳を閉じて宣言すると、花村がこれ見よがしに舌打ちをした。
 だがしかし、彼らが直斗の来訪日を知らなければ、完二は捜査中ずっと弄ばれる運命にある。
 ああ、女子とはときにあまりにも残酷です。
 自分は普通の恋をしなくては、と心に誓う。


「で、英さん、バスどこまでよ?」


 英さん、と突然達郎専用だったはずの愛称で呼ばれて、胸ポケットを探っていた手が止まる。
 確かにあの砂漠で呼びかけられた覚えはあったが、あの状態でそんな些細な呼びかけを花村が記憶に留めているとは思わなかった。
 テンパり癖があるものと思っていたのだが、どうやらそんなことばかり覚えているらしい。
 これだから男子は、という奴か。


「それ、止めないか?」


「小学生に許して、俺に許さないってどういう了見だよ」


「いや何か、お前というか同年代に言われると目茶苦茶恥ずかしい」


 恥ずかしい、と口に出した途端、暗示にでも掛かったかのように頬が火照るのを感じて思わず俯く。
 花村もそれに気づいたのか、軽く口元を引きつらせて窓の向こうに視線を投げた。


「お前、それ天城とか里中の前でやるなよ?」


「……善処します」


 渾名で赤面などしたら最後、暫くの間はそのまま呼ばれ続けるに違いない。
 結局慣れてしまえば同じなのだろうが、慣れるまでを思うと気が重かった。


「とりあえず言っとくけど、降りるのは二つ先で、そこから五分くらい歩いたところだから」


 一度手前まで行った所だから恐らく迷いはしないだろうが、一応信田さん手製の地図も持ってきている。
 今日の予定は達郎の家を確認し、ついでに家庭環境もできれば探る。それだけだ。
 本人らしき人物がその場で姿を変幻させた時点で、彼がただの人間であると断言できなくなってきているのだ。
 それでなくとも今回は前例がないことばかり起こっているのだから、慎重にならないわけにはいかない。


「よし、気合入れていこうぜ!」


 花村のその言葉を聞いて、精々二十分くらいしか経っていなかった。
 制服を着込んでいるといい加減暑いくらいの陽気のはずなのに、背筋が凍っているように感じる。気分が悪い。
 息をしているはずなのに苦しくて、堪らずシャツのカラーを掴んだ。


「ここ、だよな……」


 地図と現実を交互に花村が見ながら、不安そうに漏らす。
 雨宮と書かれているべきはずの表札はガムテープが張られていて、柵には売り家と記したプラスチックボートが括り付けられていた。
 庭は荒れ放題で、年単位で人が住んでいないのが容易に見て取れる。

 ここには誰も住んでいなかった。
 けれど、ここは達郎が住んでいることになっていた。
 では、一体彼は毎日をどこで過ごしていたというのだ。
 毎日一人で夜を越えるためにたとえば自分と別れるとき、彼はどんな思いでその手を振ったのか。
 帰る家もなく、迎える人もいない。

 達郎。


「な、おい、待て! 待てってば!」


 走りだして、背後から花村の制止が掛かって初めて、自分が行き先すら口にしていないことに気づいた。
 次第に浅くなってくる呼気に逆らって、無理やり息を吸い込む。


「……学童!」


 ひゅるり、と滑り出そうとした空気に音を乗せて吐き出して、足りなくなった酸素を喘ぎながら補給した。
 ペース配分も糞もない全力疾走に花村が軽く罵りながら、それでも同じように走って着いてくる。

 バス停で待ってくれていても良かったのに、と思ったのは学童に着いてからだった。
 さっきから後手だらけで、大分情けない。


「塩瀬先生、大丈夫?」


 入り口で二人して肩で息をしていると、可愛らしくコーティングされた声が聞こえてきた。
 顔を上げれば、自己紹介をしたときに格好良いと評してくれた女の子がぱたぱたと駆け寄ってくる。


「ああ、えと、大丈夫だけど、達郎君きてる? 雨宮達郎君」


「誰それ? 分かんない」


 一通り逡巡してから、彼女が不思議そうに小首を傾げる。
 走り回ってごまかされていた感覚が、一気に体に帰ってきた。
 腹の底が抜けるような感覚に、ぞわりと鳥肌が立つ。

 一人の人間が住んでいたはずの家が空き家で、日頃通っていた学童にいる子供が彼を知らない。
 この二つの要因から導き出される答えは唯一つ。
 雨宮達郎という存在の消失である。
 彼がなんらかの手段で自分という痕跡を消してしまったのか、そもそも自分の中にしか彼が存在しなかったのかも分からない。
 考えようにも思考の表面ばかりが掻き回されて、次の対処が思い浮かばない。
 何も知らない子供の前で取り乱すわけには行かないのに、取り繕う言葉が浮かばない。


「塩瀬、ほら、学年違うみたいだし、先生に聞いてみようぜ?」


 花村の助け舟に相槌のような溜め息のような声をどうにか吐き出して、肺一杯に空気を吸い込んだ。
 ええと、彼女の名前は。


「ごめん若菜ちゃん。先生、信田先生に用事があるんだ」


「……うん。またね、先生」


 そう告げて手を振ると、名残惜しそうに手を振り返されてずっと根底に感じていた緊張が少し緩む。


「そういや、俺入って良いのかな」


 関係者じゃないし、と花村が境界内に入っておきながら急に尻込みした。
 中学生になると小学校に行き辛くなるのと同じ感覚なのだろうが、悪いが今はそんなことをいっている場合ではない。


「関係者の友達は関係者だろ」


「お、おう」


 いまだ緊張する花村の肩を軽く押して奥に入りながら、学童の全体をさっと見回す。
 当然ながら達郎の姿はないが、常連の面子はほぼ全員揃っているように思えた。


「信田先生!」


 ぴかぴかの泥団子を製作している子供に交じって団子の数をそれとなく見ている信田さんの背に呼びかけると、その場の全員の集中を途切れさせてしまったらしく視線の一斉投下を受ける。
 エプロンをしていない臨時の先生よりも泥団子の方が魅力的だろうと高を括っていたのだが、どうしてか視線が泥団子に戻らない。
 変わりに移ったのは自分の真横で、なるほど見知らぬ高校生が物珍しいらしい。
 花村が居心地悪そうに視線をさ迷わせているのもどうやら一役買っていそうだ。


「どうしたの?」


 普通仕事の日でもない限り、学童に来る学生バイトなど今までいなかったのだろう。
 一緒に遊んでいたらしく乾いた泥が付いた手をエプロンで拭いて、信田さんが子供の輪を離れた。


「友達?」


「はい、そうです。花村、信田さん」


 ふうん、と興味のあるようなないような分かり辛い相槌を打ってから、小さく会釈する。
 子供だらけの場に圧倒され続けていた花村も、一瞬の間があったものの軽い会釈を返した。


「花村です。で、あの、突然なんですけど、雨宮って奴ここにきてますか?」


 いきなり核心を突いた花村の発言に肩が強ばる。
 よくよく考えれば、どうやって彼の存在を確かめるかすら考えていなかった。
 自分のいかに焦っていて、考えが回っていないことか。
 今は全て花村に任せた方がうまくいくだろうと口を閉ざす。


「その子がどうしたの?」


 その子。

 他人行儀な言い回しに制服の裾を掴み、口内をきつく噛んだ。
 そうでもしないとやり切れそうにない。


「いえ、俺の自転車に悪戯したみたいで、ちょっと懲らしめてやろうかと」


「悪戯? そんなことする子じゃないはずだけど……」


「知ってるんですか!?」


 俄に眉を潜めて達郎を弁護した信田さんに花村が自分が言いそうになった言葉を奪い、距離を詰めた。
 この場の全てを花村に任せるべく、口内に滲む鈍い痛みに集中する。


「え……いえ、知らないわ。学童に来る子も今の子達で全員なのよ」


 一瞬きょとんとしてから、信田さんが否定する。
 自分自身が発言した言葉を忘れてしまったような言い回しに、どうしようもない違和を感じた。


「まあ、そうですよね。もしかしたらって思ったんですけど」


「力になれなくてごめんね。でも、先に塩瀬君に聞けば良かったのに」


 言われてみれば道理としかいいようのない指摘に、花村が言い淀んだ。
 さすがになんらかの発言をしなくてはならないようで、短時間の内に固まってしまった顎の筋肉を無理やり動かす。


「知ってる子だったとしても教えませんよ。まず、こっちがどうしてそんなことをしたか聞きたいですし」


 ああ、本当に聞いてやれればどれだけ良かったか。噛み締めた口内は出血こそしていなかったものの、動かす度にいやに痛んだ。