「砂漠?」
「で、病院っすよね、これ」
目の前にあるのは砂漠、背後にあるのは紛ごうことなき病院だった。
白い建物には素っ気ないデザインで新宿衛生病院と銘打たれている。
空を見上げたはずなのに何故か光の向こう側に陸地が見える。
説明できないからとにかく入ってみろ、との二人の主張に従って入ってみたらこの有り様だ。
本当に訳が分からない。
「これ世界が丸くなってるって表現で合ってるよな?」
「花村、元々世界は丸いぞ」
「センセイ、現実をみるクマ」
三人揃って空というか、上を見上げながら視線も合わせず呟き合う。
地平線らしきものを見ても、段々と地面が持ち上がっていっているようだった。
「ねえ、とりあえず進んでみない? ここで話してるだけじゃ何にもならないし」
「クマ、何か変な感じとかないか?」
「そうクマね……むしろこっちにきてから全然何も感じなくなった気が?」
疑問形ではあるが、確かに声から緊張感が抜けているように思える。
センサーが反応しなくなってきている可能性もあるので、少々心配ではあるが。
「来ちゃったんだ、英さん」
じゃあ行こうか、と言おうとしたのだ。
けれど、そんな予定はたった一呼吸の間に吹っ飛んでしまった。
「達郎……?」
どうしてこんな所に彼がいるのか分からない。
この子がこんな異質な場所にいるはずはないのに、姿形どころが声までそっくりなのだ。
「あれ、レベルアップ?」
小さく笑みを浮かべられて、初めて自分が敬称なしに彼を呼んだことに気が付く。
「どうしてこんな所にいるんだ。危ないから早く帰ろう」
場違いともいえそうな指摘を無視して達郎の元に進もうとすると、腕に痛みが走る。
原因を探ろうと左腕を見れば、腕をきつく掴んで引きとどめている花村の手が視界に入った。
「花村」
ほんの少し視線を上げれば、表情を険しくした花村が大きく口を開けるところだった。
「お前の方が危ねえよ! 影かもしれないんだ、一人で行こうとすんな」
影と言われて、やっとその可能性に思い当たる。
影に捕らわれた人は深奥部にいるのが大抵で、入り口で自由にしているということは今までなかった。
だとすれば、彼が本人である確立は著しく低い。
「俺は影じゃないよ。……影なんて出なかった」
だというのに、達郎は平静ともとれる小さな声で否定した。
少し俯いて告げる達郎の頬に一瞬、緑の光が走ったように思えた。
「……やっぱりそうだ。お前、あいつだろ」
ほら、河原で、と何やら思い出そうとしていたらしい完二が達郎に声を掛けた。
それで初めて自分以外の存在に気づいたように、達郎が一通り視線を巡らせる。
「巽完二だったっけ? で、花村陽介に里中千枝、天城雪子。その被り物の人は分かんないけど」
一人一人指さし確認をしながら達郎が名前を列挙していく。
フルネームで言うのが意図的に調べているとしか思えなくて、嫌な想像が頭を過ぎった。
「クマだ」
「くまだ……目の隈にたんぼの田?」
一般的に考えれば当然行き着きそうな反応に妙な新鮮さを覚える。
誰も初見できぐるみの中に何もないなんて状況は考えられやしないし、そんなことを考える奴なんて正直どうかしている。
「いやいや、クマ君。漢字とか関係ないよ」
千枝が口元の前で手を振って、達郎の理解を否定する。
「クマ?」
「そうクマ」
当然ながら納得は行っていないようだったが、一応は了解の相槌を達郎は漏らした。
「それはともかく、名前を知らないっていうのはフェアじゃないよね。俺は雨宮達郎。まあ、人修羅とか混沌王とか呼ばれたりもするけどね」
手の平を胸に当てて達郎が自己紹介をして初めて、彼が見たこともない服装をしているのに気が付いた。
腕に沿って鬼のマークが並んでいる上着と緑のパーカーにハーフパンツに身を包み、サッカーシューズを履いている。
ひとしゅら、と口にした瞬間、瞳にちらりと金色が反射した。
「昔、お前の中には何もないって言われたんだ。でもさ、影って自分の中の抑圧が現れでしょ? それで、もし俺に影があったら俺には中に何かがあるんじゃないかって思ったんだ」
自分でも他の誰かでもなく、達郎は砂に目を落として言葉を紡ぐ。
影になった顔に見間違えようもない緑の光源が躍り、瞳が鮮やかに輝いた。
あのときのきんいろだ。
「だけど、駄目だったなあ」
顔を上げると共に、達郎の視線の高さがぐっと上がった。
瞬きをする時間すらない内に子供とはいい難い背丈と、相応しい骨格に変幻する。
雪子が小さく息を飲むのが聞こえた。
「達郎!」
後一歩、たった四十センチを埋めれば彼に手が届くはずだった。
けれど、達郎は困ったように笑いながら一歩分後ろに下がった。
実体を掴むはずだった手の平にあるのは、他とはなんら差のない空気ばかり。
「じゃあね、せんせ」
顔の作りが違う。
声が違う。
けれど、その口調は何も変わらなかった。
目の前にいる少年がどれだけ己の記憶から掛け離れていたとしても、彼は自分のよく知る雨宮少年なのだ。
元々自分がマヨナカテレビに関わっていると知っていて、近づいてきたのだろうか。
そうして、彼は。
「――っ、待てコラ!」
完二が達郎と距離を詰めようとした瞬間、勢いに煽られたようにふわりと達郎が宙に浮かぶ。
消えてしまうまで、やはり瞬きをする暇すらなかった。
ああ、俺のせいだ。
たとえ彼がマヨナカテレビを探ろうとして、自分に揺さぶりを掛けて情報を引き出したかどうかなんて関係ない。
ただの言い訳だ。
実際は関わらなくて良かったかもしれない人に軽々と詳細を話して、マヨナカテレビに巻き込んだのは自分なのだ。
全部、全部。
「俺のせいだ」
頬に涙が伝ったと気づいた途端、堤防が決壊したように嗚咽が溢れ出た。
鼻水が出て口に入っても、さらさらの砂をいくら固めても止まらなかった。
雪子に差し出されたハンカチを顔に当てて、何度も俺のせいだと泣いた。
「で? 結局何なんだよ」
仕上げに鼻を派手に啜って、熱っぽい息を吐き出すと花村がしゃがみ込んで視線を合わせてきた。
よくよく見るとクマまでもが態勢を低くして、こちらを窺おうと覗き込んできている。
成人はしていないとしても、それなりの年の男がぼろ泣き。
まだ完全に冷静になりきれてはいないのだろうが、それでも一旦落ち着いた頭では恥ずかしくて堪らない。
「……話した」
「何を」
「テレビの中のことと、影と、ペルソナの話」
「っ、何でだよ」
一瞬語気が上がりそうになったのを花村がどうにか押さえたのが分かって、土下座の一つでもするべきか迷った。
「花村、こんな所で話すより一旦帰った方が良いよ」
下げそうになった頭ごと千枝が無理やり引っ張り上げてきて、素直に従って立ち上がった。
粒の細かい砂に足を取られてふらつくと、おんぶしてあげようかと笑われる。
「お前が言うと本気っぽいよな」
「冗談ですよーだ」
千枝が花村をあしらいながら、掴んでいた腕から手を放して手を握り直してくれた。
伝わってくる女の子特有の柔らかさと、人の血の通う暖かさに鼻の奥が痛くなる。
達郎の手の平の温度は知らないけれど、きっと人の暖かさを持っているのだろう。
だというのに、彼はどこに行ってしまったのか。
どうして行ってしまったのか。
こんな砂だらけの世界の中に。
病院の中に入ると、当然ではあるが先程と同じ場所に帰ってきた。
砂なんてどこにも見当たらなかったが、ただ靴の裏に付いていたらしい残留が堅い床に擦れて鳴いた。
完全に沈黙を保ったままスタジオに着いた瞬間、花村に思いっきり足払いを掛けられた。
殴られるくらいは予想していたけれど、下半身には注意を払っていなかったので、面白いくらい簡単に尻餅を着いてしまった。
「ちょ、花村!」
非難が飛ぶ中で花村に肩を押されて、全身がスタジオの地面に沈む。
突然のことに思考がついていかないのを良いことに、花村が人の片方の腕を頭に沿わせた。
「塩瀬英一郎、享年十七歳」
「ヨースケ、殺したい程怒ってるトナ!?」
クマが花村の制服に思いっきりぶら下がって、シャツが花村の首にめり込む。
苦しくはないだろうが、結構痛そうだ。
「んな本気で引っ張るな! そこまで考えてねえよ!」
自重を掛けるクマに対抗して花村が背中を逸らし、クマに体重を掛ける。
暫くして重みに負けたクマが制服を手放して、花村が少々崩れてしまった制服の端を軽く引いて整えた。
「……学童で会ったんだ」
恐らくスタジオの床の模様にぴったりと一致したポーズのままで、達郎と初めて会ったときのことを思い出す。
目を閉じれば、学童の穏やかな喧噪が鼓膜に蘇った。
「変な子だったんだ。妙に大人びてて、たまに眩しくもないのに目を細めたりして。一緒にいると調子が狂うんだ」
瞼を上げると黄色い空と覗き込んでくる面々が全てで、ひょっとしたらあんな日々なんてものはなかったのではないかと思えてくる。
そんなはずはないのだけれど、責任回避がしたいのかそんな馬鹿げた考えばかりが浮かぶ。
「それで、最近身の回りで変なことが起きてないかって聞かれた」
「話したの?」
垂れないように髪を手で押さえている雪子が小さく首を傾けた。
滑らかな髪が幾筋かカーディガンの上を流れて行くのを見ながら、小さく首を振って否定する。
「そのときはごまかしたけど、後で警察には解決できないし、マヨナカテレビが関わってるって指摘されたんだ。本人が勝手に調べて事件に巻き込まれるより、俺がある程度どういう状態にあるか知ってた方が良いと思ったけど、本当にどうかしてた」
つまり何もかも、自分が秘密を吐露するための言い訳でしかなかったのだ。
そうでなければ、あの日が待ち遠しかったはずがない。
こういう事態が起きることも予想できたに違いないのに。
「ごめん。皆が秘密にしてたのに、俺だけ守れなかった」
誰とも視線が合わせられなくて、そっと目を伏せる。
ほんの少しだったろう沈黙がこれ程痛々しいと思ったのは初めてで、落ち着いていたはずの鼻が再び痛んだ。
荒々しい音と共に花村が床に胡座を掻いて座ったせいで、啜りそうになった鼻が思わず止まった。
全員の視線を受けながら、花村は唸りながら頭を掻き毟る。
「とりあえず、塩瀬、座れ!」
「ああ、うん」
転かした張本人が言う言葉とは思えないが、素直に返事をして座る。
「俺は! 俺はだけどな、お前みたいな機会全然なかったんだよ!」
「私も。花村だけじゃないよ」
千枝がしゃがんで膝に顎を乗せて、花村と軽くアイコンタクトを取る。
「私は警察の人に聞かれはしたけど、マヨナカテレビとかは全然だった。完二君もそうだよね?」
「ま、当然っすよね。あいつらにそんなこと分かるはずないんですし」
雪子に促されて、完二が腕を組んだまま深々と頷いた。
「だから、もしも俺がお前みたいな状況になったら、同じじゃなかったって言い切れねえ」
「というか、私だったら間違いなく言ってる。普通に気を付けてねとか偉そうに注意しちゃうかも」
千枝が百パーセントの善意で達郎に忠告する光景が浮かんで、頬が緩むのを感じた。
それはどうなんだ、と花村が苦笑するのに同意せざるを得ない。
「クマはアレですしね。皆以外と話す機会ないですしね」
一人だけ外にコミュニティーを持っていないクマが唇を尖らせて、あからさまに床を蹴る。
何にせよ寄ってたかってフォローをしてくれているらしい様子に、適当に掻いていた胡座から正座に座り直して姿勢を正した。
今までとは違う意味で視界が滲む。
「……ありがとう」
本当は色々言わなければいけないはずなのに、やはりうまい言葉が見つからない。
それでも皆は充足感を漂わせた笑みを浮かべて、単純な感謝を受け入れてくれた。
優しい優しい友人達。
彼らとそうして達郎と一緒に日々を送ることができたなら、どれだけ幸せだろう。