「今日、人を殴ったんだ」
火曜日の夜、律義に電話をかけてきたコトネに告白した声音はマツバが思うよりずっと落ち着いていた。
「殴ったんだよ、君を」
あまりにも突拍子のない発言についていけないらしく、彼女が何か言う様子はなかった。
それでもマツバは言葉を重ねる。
憎らしい夢の話を。
ホウオウが空を舞っていた。上がる咆哮に高揚感が引きずり上げられる。
このときをずっと待っていたのだ。
このときのために何年も何年も、自らを磨き続けた。
「ホウオウ!」
間違っても声が上ずらないように注意して呼びかけると、ホウオウは大きく孤を描いてから高度を落とした。
舞い降りる風圧に息もできず、実際に目も痛いが決して閉じない。
その優美を、存在を一瞬たりとも見逃すことはできないのだ。ああ、降りてくる。
自分の。
己の上にホウオウの影が落ちて、マツバは本格的に息を止めた。
一音節の疑問符すら浮かばなかった。
代わりに振り向くと、マツバよりもずっと小さい少女の前にホウオウが従順に舞い降りる。
暴れるどころか、首をもたげてその少女に頭を差し出した。
「マツバさん」
ホウオウの頭を無遠慮に撫でながら、少女が振り向く。
「この子は私のですよ」
人のポケモンを取ったら泥棒です、と少女がひんやり笑う。
何を勘違いしているのか、と少女は笑っているのだ。
「……どうして君なんだ」
オーバーオールの下に着ている赤い襟刳りを引っつかんでも、少女は表情を崩さなかった。
赤い色から視線が離せないのに、それでも彼女が見える。
「君がいなければ! 僕は! 僕は、一番ホウオウに近かった!」
「それがどうしたんですか?」
挑戦的な口調に相応しい嘲笑に、思考が一気に霧散した。
口を開いたところで、吐くべき言葉が浮かばない。
「私がいなかったところで、マツバさんは一生選ばれなかった。だって」
気が付いたときには殴り倒して、声の限り喚いていた。
黙れ、煩い。そんなことしか言っていなかった。
「子供を殴って罵るような人をホウオウが認めるはずがないじゃないですか」
「君の印象を歪めて、勝手にいたぶったんだ。本当に、僕は狡い。分かっていたんだ。こんなことを言っちゃ駄目だ、相応しくないって」
思っている時点でもう駄目なのにね、と付け加える。
酷く落ち着いた声だともう一度思って、絶望の声だと考える。
もはやどうしようもないともマツバは思う。
心の底から、コトネを恨めしく感じてしまっている。
悔しいと、思うことさえも。
「マツバさん」
沈黙を保っていたコトネがようやっと口火を切った。
重く暗い予感しか浮かばなくて、マツバは口をきつく紡いで手を握り締める。
断罪の言葉が聞ければ、今の気持ちに見切りがつけられるような気がした。
「抱き締めたいです」
今から言っても良いですか、と確か言われたはずだった。
どうにか返事をした覚えがあったから。
おいでと言ってしまったから、彼女の持てる全てでもって一目散に彼女はやってくる。
駄目な大の大人を抱き締めようとやってくる。
全くもってとんでもない話だ。
「敵わないなあ……」
彼女はホウオウに見染められた少女なのだ。
凡庸な物事の受け取り方をするはずがないし、複雑な解決法も望まないだろう。
呆れるくらい柔軟で、まっすぐな魂。
ソファに寝転びながら、はふ、と息を吐けば熱くて重だるいのにふわふわした気配がした。
合皮だったかどうかすら忘れてしまったソファに頬を寄せると、熱を持っているらしくやたら心地良い。
おまけにマフラーを巻いている首まで熱くて、なんだか息苦しかった。
時計を一瞥するけれど、電話を切ってから精々二十分しか経っていない。
待ち遠しい、と思わずにはいられない。
ああどうしよう、くらくらする。
悔しいけれど、きっとそういうことなのだろう。