彼らのケース



「荒垣先輩……そんなに破壊力強かったですか、あの映画」


「んなわけねえだろ……」


 駅前の人通りは決して少なくない。
 けれど、今は人目など気にしている場合ではないようで、先輩はコンクリートの段差に座り込んでいた。
 ただ座っているだけではなくて、背中を丸めて太股に肘を突いて息を荒げている。
 映画に誘ったのはこっちだが、具合が悪いのを押してまで来てくれなくとも良かったのに。
 心配するし、申し訳なくなる。


「じゃあ、少し休んで行きます? この辺は休憩三千八百円からありますよ」


「お前な……」


 茶化すついでに白河方面を指さすと、呆れ切った調子で咎められる。


「いや、何かの漫画にこんなシーンあったなーと思って」


 あんまりにも真面な反応はもはや予想通りだったので、別段挫けはしない。
 しかし、実際電車に乗って寮まで帰れるようには思えなかった。


「何のネタだ」


「少女漫画ですよ」


「あー、別コミとかか」


「や、フラワーズ」


 どうにかそれらしい話題が出てきそうな漫画雑誌を先輩が上げたけれど、残念ながらその手の少女漫画の世話にはなってこなかった。
 それを読むのならワニブックスや普通にエロ本を入手すれば良いだろうし。
 やろうと思えばインターネットだけでも十分満足できるに違いない。

 それはともかく、どうやら彼はフラワーズの名前すら知らないようで、さっぱり分からないというふうに眉間に皺を寄せた。
 別コミはある意味ネタ扱いなので知っていても不思議ではないが、レディコミに近い少女漫画は知らなくて当然だ。


「まあ、その本で言われた男の子はデートの計画を組んでたんで、思わずまだ! って言っちゃうんですけど、先輩はどうします?」


 座っている先輩の前にしゃがんで、見上げながら可愛らしく見えるように祈って首を傾ける。
 この先のどうのこうのを期待はしていないが、このまま帰るのも精神衛生上宜しくない。
 当然ながら、寮に帰れば部屋に引きこもるに決まっているのだし。

 一瞬先輩は虚を突かれたらしかったが、すぐに緊張を解いてゆるゆると息を吐いた。









「わあ、懐かしい……」


 薄暗い照明ながら、どことなくビジネスホテルの印象を受ける部屋をちょっとした感傷と共に見渡した。
 先輩がホテルに入る前に買ったお茶の蓋を開けようとしていたはずなのに、プラスティックの軽快な音がしなかったのを不審に思って振り返る。


「わぷ」


 振り返った途端、頬に冷たいペットボトルを押し付けられて、間抜けな声が上がる。
 先輩の方に視線をやると、出来の悪い教え子を見る塾の教師のような表情を浮かべていた。


「そういうことを俺の前で言うもんんじゃねえだろ」


「へ? ああ、違いますよ。知りません? 七夕スペシャルマッチ」


 どうやら前の恋人とここに来たのだと誤解したらしい様子に、抑えようとしても頬が持ち上がってしまう。
 引っ越してきたばかりだから、恋人なんていないと少し考えれば分かりそうなものだけれど懸念してしまうらしい。
 陳腐でいて何て甘い嫉妬心だろう。


「七夕スペシャル……? ああ、アキの言いそうなことだな。まさかここでか?」


「はい。何だか精神攻撃食らって、ゆかりと百合プレイするところでした。他の二人は名誉によって伏せます。向こうはどうなったか知りませんが、こっちは完全に未遂ですからね。精神力の勝利です」


 七月七日の七夕が満月だったと気づいたらしい先輩がげんなりして、ペットボトルのお茶を飲みながらこちらの話を聞いていた。


「ちなみにこっちが待ってる役でした」


「もう良い、コメントに困る」


 ペットボトルの底で額を押さえ付けられて、黙ると同時にその冷たさが心地良くて目を細める。
 多少なりとも自分もテンパっているのかもしれない。


「先輩先輩」


 かなり遠慮なしにベッドへ腰を降ろした先輩の横に座って、懐を探る彼の注意をこちらに向けさせる。
 やっかい話なのだけれど、先輩を困らせるのが好きだ。


「ん?」


 取り出したのは携帯電話で、恐らくアラームのセットでもするのだろうと推測する。
 本当に眠ってしまうつもりなのだ。
 つまり、先程よりは随分楽そうに見えるに拘わらず、それでもまだ辛いということで。


「スペシャルマッチの日に先輩がいたら、多分押し倒してましたよ」


 そんな病人を挑発するのはどうかと思うのだけれど、それでも一瞬揺れる瞳や体を硬直させた気配が堪らない。
 これほどに彼を揺るがすことができるのはきっと自分だけなのだと、確信できる数少ない瞬間なのだ。


「――どうします?」


 携帯電話を放り出して、抱き上げられたと思ったらすぐさまベッドに押し付けられた。
 頬に触れるやっぱり冷たい感触は恐らく彼の携帯電話だ。
 それ程遠くにないはずなのに、手を伸ばしても先輩の顔に触れられないように思えるのはどうしてか。
 それに、何となく落ちてくる影が重たく感じて、軽い息苦しくなってきた。


「寝る」


 毛程の逡巡もなく告げられて、先程の行動がどうやら仕返しだったらしいと気づく。
 途端に緊張が解けて、小さく笑いが零れた。
 隣に肩から着地した先輩の腕が人の視界を狭めながら、携帯電話のアラームの設定を完了させる。
 ぽふりと頭の斜め上に落とされた音とそう違わらないタイミングで、少々手荒に頭を抱き寄せられた。
 冷たい手が少しでもましになればと手の平に頬を擦り寄せれば、薄暗い部屋でも先輩の表情が解けたのが分かる。


「お休みなさい、真次郎さん」


「寝坊するなよ」


 そう言った唇が触れた額からじんわりと穏やかな熱が広がって行く気がする。
 是非とも、彼にとっても同じであってほしい。


「お休み」


 ベッドの隅に畳まれていたらしい毛布を掛けられて、一瞬頭まで埋まる。
 そこから芋虫のように這い上れば、頭を撫でられて急に眠気がやってきた。
 普段が夜更かしせざるを得ないので、いたしかたないことだろう。
 もう一度おやすみなさいと言うと、重たくなった瞼を素直に下ろす。
 肩に回る腕の重さを感じながら、誰に向けて良いかも分からない優越感に浸った。

 そうして同時に思わずにはいられない。
 彼のこの腕の重さとこんな所で優しく告げられる挨拶を知る人間が自分で最後になれば良い、と。