多忙の恋



 先輩が焦っている。

 いつもなら次に誰かが攻撃するまでにシャドウが動かないと判断すると、絶対先輩は深追いしない。
 無理をして怪我をするよりも、確実に進んでいくことを重視していた。

 けれど、今はどうにかして自分でシャドウを倒そうとする。  個人プレーが目立つのだ。
 腕を鈍らせないためにと赴く場合とは意気込みが違うのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 要所要所で花村先輩も普段通りに焦らずにいこう、と釘を刺すのだけれど、芳しい効果は窺えないままだった。

 放課後の下駄箱はまだ人影が多く、気を抜くと先輩を見過ごしてしまいそうだった。
 昼休みの内に花村先輩に相談して、今日は先輩を休ませようと決めたのだ。
 お前が適任だろうと花村先輩は背を押してくれたけれど、本当は自分ではいけないのではないかと思う。
 恋人という立場はときに酷く不安定なもので、常とは違う先輩の心を余計掻き乱してしまう危険性がある。
 それでも花村先輩は自分に行くべきだと主張した。

 

 表面上はいつもと変わらないふうの先輩の後ろ姿を見つけて、しっかりと息を吸い込んだ。


「先輩、塩瀬先輩!」


 先輩をよく知らない人からはいつも無愛想だとか、クールだとか称される人なのだ。
 本当はそんな人ではないのだけれど、振り返った先輩の表情は思わず怯んでしまうくらいに硬いものだった。


「あの、先輩、今日は休みませんか?」


 先輩が何か言う前に提案をした。
 やはり今日も捜索に行くつもりだったらしく、表情に迷いが窺えた。


「駄目ですよ。そんなに根を詰めては先に先輩が参ってしまいます」


 他のメンバーをローテーションしながらいつも先輩は探索を続ける。
 どれだけ連日でマヨナカテレビへ行ったとしても、単純計算で二日に一度は休めることになる。
 けれど、先輩はリーダーの立場にあるのだ。
 マヨナカテレビに入れば、必ず探索に参加しなければならない。

 それに加えて、あの戦い方なのだ。


「お願いします、先輩」


「じゃあ、今日は家来るか?」


 頭を下げてしまいそうな勢いで懇願すると、予想外な発言が帰ってくる。
 俗っぽい誘いに呆気に取られたまま頷けば、先輩は下駄箱の方に歩いていってしまった。




「……おじゃまします」


「どうぞ」


 台所へ向かう先輩を尻目に部屋を見渡すと、以前カードの炙り出しをする際に来たときと変わらない気配に息が詰まった。
 段ボール箱にパンダの人形。
 きっちり3枚ある座布団に、まだ先の日付にメモがあるカレンダー。

 こんなにも3人の人が暮らしていた空気が濃厚な家に、先輩は一人ぼっちでいなければいけないのだ。


「カフェオレでも飲むか?」


「あ、お願いします」


 真新しいインスタントコーヒーの瓶から先輩がコップに粉を入れる。
 使い古して少しべたついていそうな砂糖のケースを手に取って砂糖を片方にだけ入れてから、電気ポットから湯を注ぐ。
 どうやら先輩はブラックで飲むらしく、たっぷりお湯が入っていた。

 何もしないで突っ立っているのも何なので、冷蔵庫から牛乳を取ろうとして手が止まる。
 冷蔵庫の大きさからは想像も付かないほどに、食材が少ないのだ。
 一人が生きていくのに必要な量しか入っていない。


「牛乳ない?」


「いえ! あります」


 後ろから覗き込まれて、慌てて差し出す。
 少しだけ表情を柔らかくして先輩は牛乳を受け取って、暖めるかどうか聞いてきた。


「まあ、電子レンジだけどな」


「構いません」


 お願いします、と付け加えてから、暖房を何一つ付けていないのに気がついた。
 いい加減何もなしでやっていくのが痩せ我慢になりそうな気候なので、居間へ行ってストーブを付ける。
 久々に嗅ぐ石油の匂いが懐かしかった。
 余った時間を持て余してテレビを付けると、午後の情報番組が流れていた。


「できたよ」


「ありがとうございます」


 カフェオレを受け取って、座布団ではなくソファに腰を降ろした先輩の横に座る。
 暖かな琥珀色に口を付けると、ふんわりとした味が口に広がった。


「砂糖足りたか?」


「……僕を何だと思ってるんですか」


 確かに市販のコーヒー類よりは随分と糖分は少ないようだけど、十分甘さは感じられる量なのだ。
 わざと言っているようにしか思えない。


「直斗は直斗だな」


 それ以上にもそれ以下にも考えられない、と先輩が笑った。
 こんなに至近距離で笑われたのは久しぶりで、馬鹿みたいに頬が熱くなる。
 赤らんだ頬を見てか、先輩の笑みが深まった。
 コップを持っていない手で頬を撫でられて、肩が跳ね上がる。


「直斗あったかい」


「僕は冷たいです! ちょっと、ゃ……!」


 コップを机に置いて、先輩が両手を頬に当ててくる。
 絶対効率が悪い。
 さっき手放したマグカップの方が暖かいのは比べるまでもない話だ。

 頬の熱を存分に奪った後、先輩は顎に沿って手を沿わせた。
 指先が耳たぶを挟んだ瞬間、寒気に似た感覚が背を走る。
 掌の冷たさも相俟って、思わず顎を引いてしまった。
 顎をそのままに先輩を窺うと、大層楽しそうな笑みを浮かべていて手を振り払って良いものか分からなくなる。


「せ、せんぱい」


 耐え切れずに先輩を呼んだのが仇となったのか、先輩が足をソファに沈めた。
 上体だけでこちらを向いていた状態から、体のすべてが自分の方を向いたのだ。

 ゆっくりと唇に柔らかな感触が落ちるのを目を閉じて感じながら、こっそりと訂正する。
 別段先輩を呼んだのは失敗ではなかった。
 最近感じられていなかった優しい雰囲気を、きっと自分は望んでいた。

 ――それでは、ここ一週間の天気予報です。

 付けっ放しだったテレビから、お天気キャスターの明るい声が流れてきた。
 冷や水を被せられたというのはこんな感覚なんだろうか。
 先輩の手に少し力が強まるか強まらないかの内に、弾かれたように瞼を上げる。

 先輩の顔は既にテレビの方に向いていて、天気予報に集中しているからか掌まで引っ込められた。
 いつの間にか暖まっていたらしい先輩の掌がなくなって、耳元が嫌に冷たい。
 ここにはテレビと先輩しかいないような風に、先輩はテレビを見詰めていた。

 いつもは頼もしく誇らしい先輩の真剣な瞳が今は酷く悲しくて。


「……直斗?」


 気が付けば先輩の肩を押して、先輩の上に乗っかってしまっていた。
 テレビを見詰めていた硬い表情が狼狽によって崩れて、自分を見上げているのがやけに嬉しい。


「すみません先輩」


 今、先輩が一番優先してくれているのは他でもない自分だ。
 自分を、白鐘直斗だけを見てくれている瞳が何よりも愛おしい。
 現状を思えば、不謹慎極まりない感情だった。


「先輩が菜々子ちゃんを心配しているのは重々承知です。でも、嫌なんです。先輩がそれだけになってしまうのがいや、です」


 こんな所で生活していて、菜々子ちゃんのことばかり考えて、あんな表情をして。
 どれだけ苦しいだろう。どれだけ歯痒いだろうか。
 本当は本人のことを心配するべきなのに。


「ごめん、心配させたな」


 先輩が表情を和らげて、手を伸ばそうとした。


「ちが、違うんです」


 指先に頬が触れる前に首を振って、先輩を牽制した。
 先輩は勘違いをしている。


「僕は多分、嫉妬してるんです。菜々子ちゃんの身を案じて当然なのに、先輩に見ていて欲しいって思ってる。……ごめんなさい、先輩」


 言葉がどうしても早足になってしまって、泣きたくなった。
 こんな自分の汚いところを聞かれたくない、と思ってしまっている自分が情けない。


「直斗」


 一度は止めた手が再び動き出して、ゆっくりと首の後ろに手が回った。
 呼びかけられた声音と同じくらいの穏やかさで体が引き寄せられる。
 そろそろと先輩の体に体重をかけながら体勢を落としていくと、最後の最後にしっかりと抱きとめられた。
 部屋に入ってもそのままだった帽子が外されて、見えないから分からないが、恐らく机に置かれる。


「嬉しいな」


 帽子があっただろう場所で先輩が場違いな言葉を囁いた。


「どうして、ですか」


「直斗の独占欲って初めて感じたから」


 本当に嬉しそうな声だった。  発言にも驚いたけれど、何よりも先輩がどんな顔をしているか知りたくて顔を上げる。
 なんて顔なんだろう。
 信じられないくらい幸せそうな表情に息が詰まる。

「直斗は俺のだけど、俺も直斗のなんだからな」

 背に回された腕の力が強くなって、耳まで真っ赤になっているんじゃないかと疑うくらいに顔が熱くなった。
 恥ずかしくて顔を隠したいのに、指一本動かせそうにない。
 耳の後ろで脈が大きく打っているのが分かった。


「どうしてほしい? 俺に直斗の願いを叶えさせてほしいんだ」


「あの、今日は、今日だけは」


 魔法にかけられたように、先輩に続いて声を上げてしまった。
 もういい、言ってしまえ、と何かが思考回路から理性まで全てを塞き止めてしまう。
 どこかで警鐘が鳴っているような気もするけれど、何がいけないのかがもう分からなかった。

 もういい。どうなっても構いはしない。


「どうか、僕だけを」


 言葉での答えの代わりに与えられた口づけはじんじんと脳髄を痺れさせて、直斗は幸福の上にちらちらと降りかかる後ろめたさからそっと目を伏せた。