遊びに行こうかと誘われたときに、すでに兆候はあったのだ。
けれど普段からそう重い方ではないし、実際聞き込み中に支障が出たことなど一度もなかった。
けれど今はあのときに浮かれて頷いた自分がとても恨めしい。
「大丈夫……じゃないな」
冷や汗が首筋をじっとりと濡らしているのが分かった。
くらくらする上に、とんでもなく下腹部が痛む。
こんなにきついのは始めてかもしれない。
勧められた石段に腰を下ろすと、再び立ち上がれそうになかった。
普段なら抵抗があって座ろうとも思わないだろうけれど、贅沢は言っていられない。
「すみません……」
大丈夫なんて言ったところで気を揉ませてしまうだけだろう。
素直に大丈夫ではないと白状して顔を上げると、思案顔の塩瀬先輩と目が合った。
「もしかして、月一のアレとか」
先輩の意図するところはただ一つ、女性特有の現象である生理なのだろう。
良く気の付く人だと感心すると同時に、そう明け透けにしたくない体の変化を知られてしまって頬に朱が刺すのを感じる。
「そうです」
肯定の言葉と共に頷いて顔を隠す。
何を買うわけでもないけれど、折角隣町まで来ておいて何もできずに帰る羽目になってしまって申し訳なかった。
「この辺のは休憩3000円からだったな」
突然の先輩の発言に声も上げられずに身を竦ませた。
まさかまさか、と頭の中でぐるぐる回る。
「あの、僕、さすがに自分にそういう趣味はないと思うんですが……!」
気が付いたら少し逃げ腰になっていて、拒否の意志を口走っていた。
その様子を見てか、先輩が少し笑う。
「冗談だよ」
帽子の上から頭を撫でられると、ふっと肩の力が抜けた。
代わりに吹っ飛んでしまっていた感覚が戻ってきて、思わず下腹部を押さえる。
「でも、このまま帰るのも辛いだろ。漫画喫茶辺りで休んで行くなら問題ないな?」
「あ、はい」
今の体調なら電車の揺れでも酔ってしまうかもしれない。
先輩の提案は至極建設的だった。
置いて行くのは心配だからと手を取られて、ゆっくりと立ち上がる。
少しだけ視界が高くなっただけなのに、急に視界が暗くなって耳鳴りがした。
「ごめん」
ふらついてしまったのか、先輩に肩を支えられた。
いいえ、とどうにか首を振る。
どちらかというと自分のせいだ。
遊びに行くなら事前に薬を飲んでおくくらいの保険をかけておけば良かった。
いつもよりゆっくりとした歩みで、先輩が手を引いてくれた。
普段なら気恥ずかしいし、自分の格好も格好なので人前でその手のスキンシップはお断りしている。
けれど、今は拒否をする余裕はどこを探しても見つかりそうになかった。
駅前のドラッグストアに入ると、真っ白い光が目に痛かった。
「いつも何飲んでるんだ?」
生理痛にも効く頭痛薬の商品名を告げると了解、と先輩が頷く。
さっさと薬を買って出るのかと思いきや、先輩は食料品売り場に足を伸ばした。
「せんぱい……?」
「辛いだろうけど、ちょっとでも食べてから薬飲もうな」
そんなにも覚束無く見えるのだろうか、子供というよりも園児相手のような声音が柔らかく響く。
今回ばかりはこちらに非があるので甘んじて受けるしかなかった。
固形の物が食べたくなくて、ヨーグルトを選んだ。
甘酸っぱい味がほしかったので、ブルーベリー入りで具の少なそうなのにした。
レジの後ろにある薬と一緒にヨーグルトを買って、やはり駅前にある漫画喫茶に入る。
よくよく考えたら初めて来る場所だった。
階段を昇ったのが辛くて、少しぼうっとしている間に先輩がカウンタースタッフに注文をしていた。
禁煙のカップルシートですね、とやけに明るい声がして目の焦点が急に定まった。
わざわざ俗にいうカップルが二人で遊びに出掛けて、漫画喫茶で過ごすというのはどういうことなのか。
二人で黙々と漫画を読む構図は色気も何もありはしないし、現実味がない。
焦点の定まった目で先輩が鍵を受け取っているのを見た瞬間、自分の網膜を疑った。
密室なのか。
確かに、漫画を読むならある程度閉鎖された空間の方が落ち着くだろうけれど。
カップルシートとやらで個室なのは道理なのかもしれないが。
部屋に鍵をかけるのも、防犯の意味があるのかもしれないが。
けれど、どうしても他の利用法を想像してしまって、妙に緊張する。
今、この店員の目には自分達がどう映っているのだろう。
「直斗」
「あ、はい」
余計な考えを頭から振り払って、先輩の後をついていく。
先輩の手には鍵の他にも毛布を持っていて、そんな物まで貸してくれるのかと少し驚く。
こういうところで仮眠をする人もいるらしいので、当然といえば当然のサービスなのかもしれない。
カップルシートとやらは、ドアの下が足首辺りまでない個室だった。
完全な個室にしてしまうと法律やらに引っ掛かるのかもしれない。
「飲み物何がいい?」
「紅茶を。暖かいのがあればお願いします」
荷物を置いて先輩が出て行くのを見送って、ビニール袋からヨーグルトを取り出した。
あまり食べる気にもならないけれど、蓋を開けて一口食べる。
鈍く続く下腹部の痛みに気分の悪さや新たな痛みがないことを確認して、カップルシートとやらに腰を下ろした。
カップルというわりには普通のソファは少しスプリングがくたびれていて、きしきしと音を立てる。
毛布を掛けてから機械的に黙々とヨーグルトを口に運んだ。
部屋を見渡すと少し広めのソファと、パソコンしかなかった。
外からこちらを窺うことはできないが、壁を小突くとその薄さから防音が皆無なのが分かる。
要するに、だ。
恐らく当初の想像よりも、余計だったはずの使用法案の方が現実味があるのである。
つまり、一目を憚っていちゃつきたいときに最適という訳だ。
先輩が体調を崩している相手にちょっかいをかけるほど節操のない人物とは思わないが、彼だって男子高校生なのだ。
だからこそラブホテルの料金も知っていたのだろうし、興味がないとしたらそれこそおかしな話で。
ただ手を繋いだり、戯れのように柔らかなキスをしたりするだけで自分は満ち足りていた。
そもそも、愛情ばかりを教えてくれる人だからか、そういう発想が浮かばなかった。
恋人に対しての感情が愛情だけでないのは当然だし、そんな風に思ってくれていないなら大分ショックだ。
「はい」
扉を叩く音に返事をしながら、戸の隙間から覗く靴を確かめる。
先輩の物に間違いない。
「あ、食べれた?」
途中から思考に沈んだせいで放っておかれたヨーグルトに先輩が目をやる。
頷いてヨーグルトを口に入れると、ひんやりとしていて気持ちが良かった。
大きな手だからこそできるのだろう、片手に二つ持っていたコップを机に置いてから、先輩が扉の鍵を掛ける。
「熱出てきたか?」
「え、あ」
額を掌で包まれて目を瞬かせる。
先輩の言葉に反して、むしろ掌が暖かく感じるくらいだった。
手が額から離れて、そっと頬を撫ぜる。
こそば痒さと指先の温度に目を細めると、先輩が少し笑った。
「緊張してる?」
「う、あの、少し……」
多分頬が熱いのは緊張だけではないのだろうけれど、わざわざ墓穴を掘る必要もないのでそういうことにしておく。
先輩は隣に座ると思いきや、机に備え付けてある椅子を引っ張ってきて座った。
「こっち、座らないんですか?」
「緊張してるって言ってたらからな」
誠意の表現、と先輩がまた笑う。
「別にそれくらい構いませんよ」
最後のヨーグルトの一掬いを食べ終えて、空き箱を備え付けのごみ箱に捨てる。
一連の動作を終えてから先輩を窺うと、弾かれたように先輩が席を立った。
「……どうしました?」
なんでもない、と告げる表情は机の方を向いていて、全くもって分からない。
薬とコップを片手に振り向いた先輩はすでにいつも通りの雰囲気に戻っていた。
薬を飲み終えると、ゆっくりと紅茶を胃に落としていく。
安っぽくて香りも何もないけれど、妙に安心する暖かさだった。
薬とコップを机に戻すと、先輩がソファに膝を立てて背を掴んだ。
「ちょっとごめん」
手でソファから離れるように促されて立ち上がると、一度背を座席側に倒して奥に倒しきる。
なるほどリクライニング。
勧められるままに帽子と靴を脱いでソファに寝転がると、ソファに浅く腰掛けた先輩に頭を撫ぜられる。
優しさの塊のような先輩の手の重みが眠気を誘った。
「おやすみ、直斗」
こめかみに小さく音を立てて口づけられて、先輩の方に顔を向ける。
少し細めた目に大きな手。
先程こめかみに触れた唇に焦点が合うと、ぞくりと寒気とは違う感覚が背を走った。
ああ、もしかしたら、と思う。
もしかしたら、先輩は今本当に堪えているのかもしれない。
もしここが漫画喫茶の個室などでなければ、もし自分の体調が悪くなければ口づけたいのはこめかみではなくて。
「せんぱい――」
すきです、と口にしてしまいたい。
もしここが漫画喫茶の個室などでなければ、もし万全の体調であるのなら言葉にしてしまっていただろう。
自分でも驚くくらいにあなたがすきです、と。
その一言が何もかもを伝えてくれる確信があった。
けれど今は駄目だ。ただ単にタイミングが悪すぎる。
「おやすみなさい」
一体自分はどんな表情をしていたのだろう、先輩は少しだけ息を詰めてから吐き出す吐息と一緒に小さく答えた。
思えばさっきから無駄に誘うような言動ばかりかもしれない。
ソファから離れていたのも、己を律するためだと言っているのも同然だったのに。
瞼を下ろすと先輩が離れていくのが分かる。
当然のこととは分かってはいても、寂しくてしかたがなかった。
今日、生まれて初めてこんなにもひとに触れたいと思ったのです。