2011年、夏



 遠くから蝉の鳴き声が風に逆らって、小さく鈍く響いている。
 屋上を吹き抜ける風はそこそこの勢いなのに、熱波を孕んで肌に触れると余計に暑い。
 コンクリートも太陽に照らされて、見事に焼けてしまっているらしかった。

 まだ誰も来ていないらしい屋上で、唯一真面な日影を作っている出入口の影に逃げ込んだ。
 シャツの裾をはためかせて一息付いてやっと、先客がいるのに気が付いた。
 背中を壁にぎりぎり付けないで、体育座りを崩して座っている。
 膝の上に緩く組んだ腕に乗せた額の少し上に彼のトレードマークである青い帽子が平生と変わらず乗っかっていた。


「帽子脱いだらどうだ? 暑いだろう」


 出し抜けに言ってしまってから、挨拶も何もかも抜かしてしまったのに思い当たる。
 礼節を重んじる彼からするとあまり褒められたことではないだろう。
 けれど、今更やあとか言うのも不自然だ。

 だからといって、変わりになる何かがあるのか。
 暑さのせいか思考がまとまらない。


「嫌です」


「暑くないのか?」


「暑いですけど」


「じゃあ、何で」


 いつもはしっかり留めてある第一ボタンすら外しているというのに、どうして帽子を脱がない道理があるのか分からない。
 日差しの中ならともかく、日影に入ってしまえば邪魔な上、蒸し暑いだろうに。


「……いいじゃないですか、別に人がどんな格好してたって」


 不思議なことに言葉の内容の割に、口調は柔らかだった。
 そういえばこちらが挨拶を抜かしたというのに、特に不機嫌そうなところは見当たらない。
 それどころか普段よりも口数が多いのは、単に気のせいなのかこの気温のなせる業なのか。


「禿げるぞ」


 言わなくていい言葉が口を突いた。
 どうしてこんな躍起になって白鐘の帽子を脱がそうとしているのか自分でも分からない。


「小学生ですか、あなたは」


 呆れた口調と一緒に溜め息を吐き出す後輩の腕に粒の汗が浮かんでいた。
 本当に暑そうだ。
 多分自分も同じくらい汗をかいているのだろう。
 この後ここで食事をするかと思うと、目眩に近いものを感じる。
 それでもゆっくりと白鐘と似たような姿勢で腰を降ろして、にわかに後悔した。


「塩噴きそうだな」


 当然、時間の変化によって日の射す方向は変わってくるのだから、影のできる位置も変わる。
 多分自分が座ったのは何時間前に燦々と太陽光の降り注いだアスファルトだったのだろう、じわじわと伝わる温度に眉を顰める。


「こっちはまだましですよ」


 白鐘の横を指で示されて、素直に座りなおす。
 午前中に照らされなかったらしい場所はもしかしたら気持ち良いくらいだった。

 猫みたいだ、と呟きそうになって、どうにか飲み込んだ。
 日差しの方向を見て、うろうろしていたのかもしれない。
 彼の性格上、そういうところを指摘されるのは良しとしないはずだ。


「ありがとう」


「いえ。それよりも集合場所変えませんか」


 少しタイミングが遅れた礼の返事に、至極真当な提案をされる。
 涼しい場所はもう陣取られてしまっているだろうが、ここと比べたらどこだろうがましだろう。
 一年半近くこの高校にいる花村や里中なら、どこか集まれるような場所を知っているかもしれない。


「そうだな、後で話し合おう」


 お願いします、と白鐘が口にするかしないかの内に油蝉がぽとりと落ちてきた。
 すぐさまじいじいと鳴き出す蝉を追い払うために白鐘が座ったまま足踏みをして、ばんと大きな音を立てた。

 じ、と悲鳴のような羽音を鳴らして、蝉が飛び立つ空は馬鹿みたいに真っ青だった。