エンドクレジットの向こう側



 気が付いたら痛みは綺麗に消え去っていた。
 それでもほんの少しの息のし難さが残るのだけれど、そんなものは些細なものでしかない。
 軽く深呼吸して、信じられないような顔をしている詩織に笑い掛ける。


「……潤也君!」


 詩織が握っていてくれていた手をより強く握り締めて、泣きそうな顔で破顔した。
 なんてきらきらした可愛い俺のお嫁さん。
 意識ははっきりしているというのに、どうしてかうまく動かない指先でゆっくり握り返す。

 そういえば、死に際に呆けていた人の意識が急にはっきりすることがあると聞いたことがある。
 とある人など点滴を外して衰弱させていこうかと親戚と相談していたときに、当人がぱっちりと目を見開いたという。
 何か言おうと口元を動かすので顔を近づけると、私を殺す相談をしているのか、ときつい口調で問いただされたという。
 なんというホラーだ。
 自分のときはそんなことはないようにしようと心に誓ったのを覚えている。
 けれど、あれはまだ高酸素室があった時代の、七十年八十年と前の話ではあるが。
 それでも、脳死状態であるはずの人が目を開いたという話もあるのだ。

 呆けていようと脳が死んでいようと、死ぬ間際に人は自分を取り戻すのだ。
 それがきっと今に違いないと思う。


「詩織ちゃん、色々、本当に色々あった」


 色々なんて言葉では片付けられないほどのできごとがあったのだ。
 年若くして両親と兄が死んだこと。
 不思議な力がこの身に宿ったこと。
 その力で良いことから悪いこと、有益なこと無駄なことまでやってみたこと。

 それでも何より思い出すのは、兄と暮らした毎日だったり詩織と歩いてきた道ばかり。
 取り分け特別ではない、穏やかだった日々。
 幸せだった。
 声に出して言ってみる。
 幸せだった。


「先に行くけど、詩織ちゃんはあんまり慌てないで良いから」


 黙りこくって俯いてしまった詩織にね、と返事を促すとシーツにぽろぽろと雫が落ちた。
 生地に滲む色すら綺麗に見えて、窓の向こうをそっと眺める。

 いつか読んだ宮沢賢治の詩にあったような透明な風が流れている。
 完全に閉まっている窓の向こうなのに、分かる。


「潤也君、大好きだよ」


 私も幸せでした、と震える声が鼓膜に届いて。


「ありがとう」


 最後にみた光景は青い空と、風と、どんな顔をしていたって愛らしい詩織の姿。
 そうして世界が暗転した。





 ――いや、真っ白になったのだろうか。

 あにき、と呼んだつもりだったのにちゃんと声が出ない。
 ぴかぴか眩しい空間の向こうから兄貴が若々しい姿で、極上としかいいようのない笑顔を浮かべてやってきていた。


「潤也、久しぶりだな」


 待っていてくれたのか、とかわざわざ来てくれたのか、とか言いたいことは沢山あった。


「ごめん兄貴、ごめん」


 でも出てきた言葉は謝罪ばかりだった。
 兄貴ができないことは俺がやると言ったけれど、兄貴がやらなくても良いことまでやってしまった。
 きっと殺し屋など雇うような人生を兄貴は望まなかった。
 選択自体に後悔はないけれど、そうすることが苦しかった。
 進めば進むほど、兄貴から遠ざかる気がした。


「潤也は潤也がしたいことをしたし、俺は俺がしたいことをした。俺は幸せだったけど、潤也はどうだった?」


 青年の手の平がそっと握り締めた自分の拳に触れた。
 感じる暖かさに膝が崩れそうになるのを押さえて、必死に生涯を思い起こす。
 一番に浮かんだのは兄貴が家事をしているところを詩織が嬉しそうに撮影している姿だった。
 後々兄貴はこういうのは盗撮だと、少々不平を漏らしていた。
 あれがわざわざ額縁に飾られる事態になるなんて、誰も予想すらしていなかった日々。


「幸せだった。優しい兄貴がいて、綺麗な奥さんがいて、俺はもう何もいらないくらい……」


 それは兄貴がいなくなっても変わらなかった。
 優しい兄貴がいた幸せなあの日は不幸せにはならなかったし、その先の人生も不幸せではなかった。


「なら良いじゃないか。潤也、お前は自慢の弟だ」


 一杯頑張ったじゃないか、と言って解け切った手の代わりに今度は頭を撫でてくれた。
 全部見ていたのだろうか、自分のやり口を認めてくれていたのだろうか。
 苦しい。息ができない。


 でも、もしそうだったとしたら。


「兄貴、会いにきてくれてありがとう。俺はもう大丈夫だよ」


 喋る端から口に涙が入ってきて、やけに塩っぱい。
 こんな様子で言ったところで信じてもらえないかもしれないが、それがいつも気にかかっていたのだ。


「良かった。……潤也、消灯ですよ」


 それでも兄貴は安堵の息を漏らしてくれた。
 穏やかに笑って、懐かしいフレーズを続ける。
 小さな小さな子供の頃に、二人で囁きあった言葉。


「うん、消灯ですよ」


 ああ、今度こそ真っ黒だ。