仕事が大変なのも忙しいのも分かっている。
その点を考慮すれば、スーツを椅子に引っ掛けてあるのは褒めるべきことなのかもしれない。
しかしこの掛け方だと、どうしたってスカートの折り目が四つに増えてしまうではないか。
詰めがなっていないとぼやきながらスーツをちゃんとハンガーにかけ直してやる。
「にしても、だ」
普段よりもいくらか声を押さえ気味にしながらロヴィーノは漏らす。
家に帰ったら、同居している女がほぼ下着姿でフローリングに転がっているというのはどういうことだろう。
まだ床が寒いとかそういう季節ではないが、何が悲しくてごつごつした床に体をぺったりと付けねばならないのだ。
後何歩かでふかふかのベッドで眠れただろうに、と憐憫と共に思う。
いや。いや、そうじゃなくて。
そんなことよりも重要なことがある。
ロヴィーノとアントーニョは同居の関係なのだ。
断じて同棲という言葉を使わないのはそれなりに理由のある関係であり、ついでにいえば先々そういう関係にならないという確信に基づいている。
とくれば、第一に二人の間にあるのは他人という名の溝であり、異性の異性たる所になるべく反応しないようにするというのは半ば暗黙の了解であった。
しかし、しかしだ。
その反応しないというのは日常におけるセックスアピールの面に過ぎないはずなのだ。
それ以上の、たえばあからさまなミニスカートで胡座を掻くとか、そういうのに対しては適応しかねる。
まあ、そんなことをされた日には背中を蹴り倒すのだけれど、それはともかく。
つまり何がいいたいのかというと、現状の狡さなのである。
女が下着姿でうろついて許されるのは同性か家族の前くらいだ。
確かにある程度濃い関係にあるのは否定しないが、少なくとも家族になった覚えはない。
間違いなく赤の他人だ。
あまつさえ寝ているというこの上なく無防備な状態は、何かしらの手段で移動させることを強制しているようで大変困る。
非常に遺憾であるが、どうしたって無視はできないのだ。
これで何かしらの感慨を抱かない男は真性のゲイか、性欲を欠いて生まれてきた者くらいだ。
別にその種類の人間を厭う気もないし、ましてや現在に限っては羨ましい。
しかし、凄い格好で寝ているものだと彼女を見下ろす。
上半身はシャツを着ているとはいえ、下着の鮮やかなピーコックグリーンが透けているし、下半身は丈が長めのシャツが何とか尻を隠しているだけだ。
足はヌードカラーのストッキングのようだが、薄手の物なので足先を見てやっと確信できた。
男がパン一で寝ているのとそう変わらないのではない状況ではないだろうか。
さすがに一人暮らしであろうともこの格好で床に寝る気にはならない。
目を閉じて深々と溜め息をついてから、再び目を開けると彼女の胸が目に入った。
ああ畜生でかいな。
そう、彼女の胸は素晴らしい。
胸における理想の形を定義しようとするとき、ある人は形だと言い、またある人は大きさだと言う。
触り心地は厳密にいうと形からは外れてしまうから省くとして、個人的にはやはり形を優先したい。
別にこの形でなければ嫌だというえり好みはないが、やはりぐっとくる形というのはあるわけで。
形という点では正直脱いでもらわなければ何ともいいがたいのだけれど、とりあえずアントーニョの胸は大きい。
しかも、下着を着けたまま寝入っているので、胸が脇に流れることもないのだ。
まあ彼女のことだから、しっかり胸筋もあるだろうし一般よりも崩れたりしないのかもしれない。
その代わり多少硬いのかもしれないが、観賞している限りでは一切問題はないので今回は不問に付す。
胸筋があるのならば自然、胸の上部分もしっかり膨らんでいるのだろう。
むっちりした印象があるので、下乳のラインも張りのあるものに違いない。
ああいいなあ、生で見てみたい。
いやしかしいくら胸が素晴らしいからといって、そのままその持ち主が素晴らしいはずもないのだ。
ほらどうせ、酷く魅力的な膨らみから視線を滑らせれば、締まりのない表情のいつもの彼女の顔があれおかしいな可愛い。
締まりのないという点ではゆるゆるも極まりないのだが、こてりと傾けられた幼い仕種にまずしてやられる。
熟睡しているわけではないのか、瞼がきっちり閉じられているのも大変よろしい。
その反面、口許はゆるりと解けて普段は合わされて見えない唇と粘膜の境目が見える。
口呼吸をしているのか、ふわふわ動くのが堪らない。
化粧は多少崩れているようだったが、夜更けという時間を考慮すればむしろ滲んだアイシャドウも舞台装置に早変わりだ。
そんな細々したところにまで隙を匂わすだなんて、こいつ本気で誘ってるのか。
男と女の友情は成立するか、という議題は昔から重大なテーマとして扱われてきた。
それほど興味もなかったから、その結末は知らないが。
少なくとも、そのテーマの役者として選ばれそうなシチュエーションにある自覚はあったが、この関係を友情と呼んでいいのか彼には分からない。
心地いい距離感にある魅力的な体。
お淑やかとは口が裂けても言えないが、野生動物を思わせるような若々しい四肢をスーツで覆う姿はそれだけで倒錯的だ。
彼女を囲む全てが彼女の自然たる姿を変質させる罪とさえ思えるときがある。
彼女と共に家へ帰るとき、感じる視線に優越感を抱かなかったといえば嘘だ。
この感情は友人に関するものなのか。
それも彼には分からない。
――いやいやいや、俺! 気の迷いだ、そうに違いない! ほらちょっとむらむらしてるだけなんだって!
頬を撫でかけた指を引っ込ませながら内心で叫んで、何とか彼女と距離を取る。
そうすると嫌でも全体像が視界に収まるが、眉間に皺を寄せる勢いで目を閉じて体を反転させた。
網膜に染み付いたピーコックグリーンが反転して赤く染まるのを大袈裟に頭を振って振り払う。
瞼を上げて見えた世界はなんだかんだいっても柔らかそうな彼女とは打って変わっておおよそ柔らかいはずもない室内となっていて、少しだけ解けた緊張に息を吐き出した。
これからトイレに行く。
そう自分自身に宣言する。
そうすれば、現在の問題は大体が解決するはずだ。
何をするか? そんなもん大人のウイットで考えろ、ちくしょーが!
「おお……」
別に時計を見て入ったわけでもなし、どれだけ時間が経ったかは皆目見当がつかなかった。
しかしながら、まあ十分以上は掛かったと自尊心が告げているので、その申告を素直に受け取っておくことにする。
逆に彼女が微動だにしていないように見えるので、それ以上の時間というのも違和感がある。
とにもかくにも、すっきりした頭で彼女を見下ろしてロヴィーノは盛大に胸を撫で下ろした。
胸は好きだ。
一般的な男子とそう変わらない程度には大好きだ。
そして目の前には形のいいおっぱいがある。
それも事実だ。
でもそれだけで、グラビアアイドルのポスターの見て、いい乳だなあ、と思うのと全く同じ感情しか抱かない。
いわんや顔においてはよだれだって垂れているし、化粧崩れはだらしないと思えてくる。
どう見たって駄目な子だ。
よって、一切、一分足りとも彼女にむらむらしない自分がそこにいた。
というか、むらむらしていたからこそ彼女なんぞにむらむらが助長されたわけなのだが。
性欲って怖い。
「こおら! こんなことで寝てんじゃねーぞ、アントーニョ!」
ロヴィーノは仁王立ちになって声を張り上げるが、本日最大の危機に瀕していた彼女はむにゃむにゃ言うだけでお目覚めは随分先になるようである。