あなたの前では子供でもありたいのです



「どうしたんだい?」
「わ、あ、えと」


 部屋の片付けをしていたはずのトーリスが椅子に腰掛けて古臭い装丁の本をめくっていたので、何の気はなしに声をかける。
 大袈裟なくらい肩を震わせてアルフレッドを見上げた彼に苦笑しながら手元の本を覗き込んで、ほんの少し後悔した。
 別に悪いことをしていたわけでもないし、こちらの意図が分かったとしてもなんら後ろめたいこともないのは承知の上で気恥ずかしい。


「すみません、仕事に戻りますね」
「いや、それは良いんだ。本来は俺がやらなきゃいけないんだしね」


 家に置いてもらっているのだからとトーリスが率先して家事を受け持ってくれているのはとてもありがたいが、そこまで義務感を持たれてしまうと肩肘を張ってしまってしょうがない。
 立ち上がろうとするトーリスの肩を多少無理やり押さえて椅子に押し込めてから、アルフレッドは空いている椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。


「……これ、大航海時代の本なんですね。俺はこのときはずっとヨーロッパにいたんで、凄く新鮮でした」


 しばしの沈黙の間に家事を諦めたのか、トーリスがやたら豪華な装丁の縁をなぞりながら口にする。


「俺も似たようなものだよ。あの頃は出来立てのガキだったし、独立後はある意味引きこもってたからね。こういう航海は人づてにしかしらないな」


 生まれた頃は移民達の話を聞いてはヨーロッパの国々を思っていたような気がする。
 遠く離れることで彼らの郷愁は深まるばかりだったらしく、たとえば母なるイングランドと呼ぶその口調はまるで恋するそれだった。
 人々が流入する立場だった自分にはそんな存在になれるとはさらさら思わなかったから、姿も知らぬイングランドに憧れを抱いたものだった。
 大きな世界地図を見せられ、ブリテン諸島とその大きさを聞いたときの驚きは忘れられない。
 決して大きいとはいえない領地のどこからあのような強国になる力が発せられているのか、と不思議でならなかったのだ。
 あえて告白するなら、そうなりたかった。強く愛される国になりたかった。

 まあ、それも全ては過去の話なのだけれど。


「行きたかったですか?」
「ん? ヨーロッパにかい?」
「ええと、それでも良いんですけど、もし、アルフレッドさんが新大陸で開拓しているヨーロッパの国だったら行きたかったかどうかというのでも構いません」


 トーリスの言葉を受けて、アルフレッドは小さく鼻を鳴らして腕を組む。
 前者と後者では状況がかなり違う気がするのだが、別個に答えるべきなのだろうか。


「アルフレッド・ジョーンズとしてはヨーロッパに行きたかったな。移民は夢を求めて俺の家に来たけど、技術とかはヨーロッパの方がずっとあったからね。ロシアのピョートル大帝だっけ? 彼みたいに船作ったり、文化を見て回ったりしたかったんだぞ。でも、実際行くとなると話は違う。今みたいに飛行機で一っ飛びならいいんだけど、そうじゃないだろう? ルートが確立してるっていったって絶対安全なはずがないんだ。国が命をとしてまで行ってはいけないと思った」
「そうですね、俺もそう思います」


 つらつらと意見を述べれば、真剣な面持ちで頷かれた。
 その真剣さが伝播したのか、何とはなしに居を正したくなる。


「もしもヨーロッパの国だったらは……どうしたかな。開拓地に国が行く利点も意義もあるのは分かるよ。でも、航海って危険はもちろん時間もかかるじゃないか。行って帰るだけでも四ヶ月かい? その間の国政から離れるリスクを思うと、大分悩むんじゃないかな。まあ、他の国が行くんなら行かざるを得なくなるんだろうけどね」


 アメリカとしての意見は過去に幾度となく考えては諦めてきたことだったし、先程のものは少し前に机に居座る本をめくりながら考えたらことだった。
 四ヶ月といったら、議論が交わされて法案が成立しうる時間である。
 国政を動かすのはあくまでも人間だが、それでも近くにいれば意見を仰がれたりこちらの態度を見て案を練り直したりということはままあることだ。
 それがほとんど失われると思うと、容易に決断できる内容ではない。


「確かに国の象徴である俺達が開拓地へ行けば、そこが自国の領土だとアピールできますね。うまくいけば勢いで実情以上の既成事実が作れるかもしれませんし」
「うん、結局はそういうことだったんだろうな。誰が最初に踏み切ったか知らないけど、人ん家でいい迷惑だったんだぞ!」


 アルフレッドは先住民の国家ではなかったからそれほど苦痛はなかったが、本来なら己のもののはずである土地で喧嘩されるのは奇妙な不安感を抱かせた。
 どこかの島が丸々属国になるのならともかく、どこまでとも知らぬ我が身を細々と分けられてはどこに身を置いていいやら判然としなかったのだ。
 ポーランドのように国民性や確固たる文化がなかった頃のアルフレッドにとってアイデンティティなどあってないようなものでしかない。
 だからこそ、彼らからアメリカと呼ばれるのは誇らしかったが、逆にいえば彼らさえいなければあんな不安はなかったのだ。


「何かアルフレッドさんが小さいときって想像できませんね。アーサーさんは素直ないい子だったって言ってましたけど」
「……百歩譲って俺がひん曲がって成長したとしたら、十中八九あいつらのせいなんだぞ」


 西欧の奴らはともかく東欧にまでぐだぐだと昔語りをしているのかと思うと、酷く子供じみた苛立ちが沸き上がってくる。
 結果的に少年時代を短くさせたのは彼らにせいに違いないのに。


「まあ、子供はみんな可愛いものですから。じゃあ俺、叩きかけた所掃除してきますね」
「ああ、頼むんだぞ」


 当然というようにトーリスが椅子を直して出ていくのを見送ってから、やっと逃げられたことに気がついた。
 彼からバルト三国の中でライヴィスだけが失言関係の技術が身につかないとぼやいていたが、つまりはこういうことだったか。
 いい換えれば先程の自分がイヴァン並に面倒だったのだということで、大分情けなくなって溜め息を吐く。


「分かってるんだ」


 トーリスの足音が本当に聞こえなくなるまで待って、アルフレッドは小さく口にした。
 そう、分かっている。
 アーサーがイギリスの決定にそう口出しできないことも、それすらできない場所にわざわざ毎度赴いていたことも。
 アメリカ訪問が彼のためであったとしても、ペナルティは負わざるを得なかった。
 いうなれば彼もまた人の思惑に、歴史の奔流に翻弄されてきた被害者なのだ。

 それでも彼はアルフレッドの望む名を呼ぶために、遥か西方からやってきた。
 そんなこと手元に収まる本を読み込む前から知っている。
 そうでなければ、どうして彼をあんなにも大きい存在だと感じ続けていられただろうか。


「アル、アルフレッド!」


 世界会議に割り振られているビルの廊下を早足で進みながら氷の隙間に残った水分をストローで吸い上げていると、普段よりいくらか甲高いアーサーの声が聞こえてくる。
 毎度のことながら、よくもまあ同じ理由で怒れるものだ。
 最早呆れていいのか感心していいのか分からない。


「そんな喚かなくても聞こえるよ」
「ふうん、てっきりその音で聞こえないものかと」


 苛立ちから上擦った口調で言われたところで、相手にそれほどダメージを期待できないのを分かっているのだろうか。
 他の人に対してはもう少し上手くやっているはずなのに、どうして一応でも血縁と称される人達となるとこうなるのかアルフレッドは不思議に思う。


「何だいそれ、アーサーじゃあるまいし」


 なるべく無感動に返してやると、一瞬表情の抜けた顔が次の瞬間一気に紅潮する。


「んなはずあるかばかあ! ……じゃなくて、会議室に食料を持参するな!」
「会議中に腹の虫を野放しにするわけにもいかないじゃないか」


 別に意味もなく食べているわけではないのだ、と肩を竦めて見せれば途端にアーサーが眉間に皺を寄せ不快感を露わにする。


「あのな、ホスト国がちゃんともてなしてるのに、露骨に物足りないって表現するな。失礼にもほどがあるだろ」
「お腹が鳴ったら一緒じゃないか?」
「意識と生理現象は別物だ」


 鼻を鳴らしながら反論する彼にそれでも人を傷つけるには違いないのではないかと疑問を禁じ得ないが、ふうん、と相槌を打つに留める。


「まあ、善処するよ」
「……フランシスの次はお前が畳化かよ」


 疑問を悟られない内に適当に返事をすると、叱り飛ばしてくるとばかり思っていたアーサーが呆れたようによく分からないことを呟いた。
 日本の口癖を流用したのだから、日本の言葉が返ってくるのはそれほど無理のないことかもしれないが。


「タタミカ? なんだいそれ」
「フランシスの家で日本人以外が日本文化に感化されることだそうだ。曖昧な返事したりな」
「菊ん家はガラパゴスとか言われてるけど、案外みんないける口なんじゃないか」


 島国よろしく独自の発展ばかり遂げているせいで、グローバル経済において弱いといわれるらしいが、それが悪いことばかりではなさそうなのは既に知るところだ。
 但し、それをプッシュする力がないのが惜しまれる。


「まあ、他の国を見習うべきところもあるけどな」
「あれ、君が日本ん家をけなすなんて珍しいんじゃないかい?」


 フランスやアメリカをけなすところなら飽きるほど見てきたが、日本を標的にする彼を目撃した覚えがない。
 珍しいこともあったもんだとアーサーに向けていた視線を外すと、警備の人間と目が合った。
 やっぱり君も珍しいと思うかい、と心の中だけで声をかける。


「映画代はちょっとな。お前の所の映画を見るのに1800円は高すぎるだろ」
「なんだそういうオチかい……ちょっとわくわくした俺の気持ちを返してくれよ」


 少し外野に気を取られている内にアーサーが言い放った言葉に結構げんなりする。
 どの映画を見たかは知らないが、日本で公開されているのだから力作に違いない。
 彼の映画批判はいつものこととはいえ、腹立たしくないはずがない。


「本田が面白いらしいって言ってたから一緒に行ったけど、あのがっかり感は今のお前の比じゃないからな」
「で、どうだったんだい」


 どちらかというと本田の感想の方が部門を分けて詳細に評価してくれるから気になるのだが、残念ながら彼はここにはいない。
 仕方がないので先を促すと、アーサーが腕を組んでしばし瞑目する。


「悪役が薄っぺらい。どうしてあんなにひん曲がって悪事に走ったかくらい描かないと観客がおいてけぼりだろ」
「悪役にそんな凝ったキャラクター性なんていらないだろ? ヒーローさえしっかりしてれば万事解決じゃないか!」
「だからお前の所の映画にはリアリティがないっていってんだろ!?」
「……くたばれアーサー!」


 ああ、アーサー、君は今さっき大量に飲み込んだ言葉達に気づきもしないんだろう。
 最後のスラングの前にアルフレッドが唾と何かを飲み込んだとき以外は間も空けずリズミカルに応酬を交わしていたが、いつもの悪しきフレーズを放つと返事を待たずに踵を返す。
 手元に収まっていたコップに詰まった氷が片寄ってぐしゃりと音を立てた。
 湿気た音を追い立てるようにアーサーが喚いているのが聞こえて、意識的にシャットアウトを目論む。

 それからたとえば、と考える。
 たとえば、大航海時代からアメリカ独立戦争までのアーサーが悪役だったとして、この前トーリスと話していたときのことを合わせて考えるとどうなるだろうか。
 四半期以上の間国政から離されて、それでも彼らはアメリカ大陸に赴かなければならなかった。
 彼の不在時に通った法案が何だったとか、その内のどれだけがアメリカに関わるものだったかなんてことは知らないし知りたくもない。

 悲しい過去がある悪役が純粋に憎まれることはない。
 だからこそ、あのときの彼の内部事情など耳に入れたくないのだ。
 知ってしまえば、その悪役のようにアーサー・カークランドという一人の男を恨めなくなってしまうと彼は知っているのだろうか。
 多分、一ミリも分かっていないのだろうと思うと何だか馬鹿馬鹿しくなって、反転したばかりの体をまた返す。


「分かってないのは君の方だよ」


 すびすばとコーラ風味の水を啜りながら、大分お冠らしいアーサーの鼻先に人差し指を立ててやる。
 母音で構成された機嫌の悪い相槌のようなものを返しながらも、彼はまだ指を退けようとはしなかった。
 もしかしたら、発言によっては指を関節の逆に曲げる気かもしれない。
 アルフレッドにとって、それを実現させる気はそれこそ一切なかったのだけれど。


「考えてもご覧よ、悲しい悪役なんていたら辛くて冒険活劇なんてやってられないじゃないか!」


 悲しい過去を持つキャラクターは観客の同情心を煽って親近感を持たせるかもしれないけれど、同時にその強大さを失ってしまう。
 独立戦争の終幕に覚えた感覚は非常にそれに近かった。
 あの瞬間をなかったことにはできない。
 けれで、もう二度と味わいたくもない。
 つまりはそういうことなのだけれど、目の前のことばかりに囚われるアーサーはちっとも分かっちゃいないのだろう。
 まあ、子供の気持ちが親に伝わらないのはセオリーなのだろうけど。