かの青年のルポルタージュ



 彼の話をしよう。
 とある朝、彼は六時に起床した。
 彼を知る者からすれば意外なことと思うかもしれないが、同時にそれが犬の規則正しい散歩のためと付け加えるならば納得してもらえるかもしれない。
 ちゃんとした時間に目覚め、散歩に連れていくくらいに彼は犬達を愛している。

 普段ならすでに起きているはずの弟は五日前から会議のために国外に出ているので、家の中は少しひっそりしている。
 リビングの一角で団子になって眠っていた犬達が彼の訪れを察して寄ってきて、我先に撫でられようとしていた。
 その頭を順々に撫でてやって、彼は盛大にあくびをする。
 挨拶を済ませた後、先に犬の朝食を用意してから、彼は自分も朝食を食べようと冷蔵庫を開けた。

 あ、と彼は気の抜けた声を上げる。


「何もねえな」


 それから、溜め息混じりに独り言ちる。
 冷蔵庫は彼の呻きに違わずとまではいかないが、調味料と飲料を除けばまともに残っている物など一つもなかった。
 このままでは彼の朝食にも足りないだろう。
 何故このようなことが起こり得たのかというと、彼らが人とは違い食事を必須としないことに一因があると思われる。
 食事は美味いし楽しいものだ、と彼は言う。
 けれど、一人で食事はあまりお気に召さないらしく、食料の残量に気を配らなくなってしまうようなのだ。
 それ故に、いつもの彼ならばまず食事を抜くはずだった。
 しかし、今日の彼にその選択肢はそもそも存在しなかった。

 湯を沸かす面倒を嫌って始めた水出しコーヒーと牛乳をコップに入れて一気に飲み干してから、満腹になったらしい犬達を彼はほぼ無意識で撫でる。


「今日は朝市行くぞ」


 わん、と揃った返事があって、彼はくしゃりと破顔する。
 お前らも楽しみだよなあ、と漏らして彼は散歩の準備に取りかかった。
 何せ、今日は彼の弟が昼前に帰ってくるのだ。
 そんな日に冷蔵庫が空っぽだという現状は、到底看過できるものではなかった。

 朝市への道は彼らにとって散歩道の一つだったし、そこら辺の意思の疎通は抜かりなかった。
 朝の空気を吸い込みながら、時たま通り過ぎていく車を横目で見やる。
 まだ学生達が自転車専用道を疾走する時間には到らず、彼は何とはなしにそこに侵入した。
 本当は車道の白線を踏んで歩きたかったのだけれど、車と鉢合わせしたら事故を起こすまでもなく死にたくなるはずだ。
 弟がいたならそれは自動車道だろうが自転車道だろうが同じだろう、と諭しただろうが、残念ながら今その人はここにはいない。


「お前らのり悪いぜー……」


 その代わり、躾の行き届いた犬達が歩道から彼を窺っていて、彼は急に気恥ずかしくなって歩道に戻る。
 その内に比較的大きな道に行き当たって、人影が増えてきた。


「あら、おはようございます、プロイセン」


 その人影の中の一人が彼の名前を呼んだ。
 プロイセン、と亡国の名を酷く親しげに、目尻に刻まれた皺を深くして老女は彼に挨拶をする。
 挨拶を返すと、彼女はこんな時間に市に行くだなんて珍しいとやはり微笑む。


「今日ヴェストが帰ってくんのに冷蔵庫が空っぽなんだ。このままじゃ、どんな自堕落生活してたんだって叱られちまう」


 肩を竦めてみたけれど、当然こんな叱られ方をされるはずがないのは百も承知だ。
 むしろ、もっと自分を大事にしろと言われて、自分が妙にしょぼくれてしまう図の方がずっとありそうだと彼は思う。


「それは大事ね、たんまり買ってきなさいな?」
「おう、じゃんじゃん金落としてやるぜ!」


 と、言ったところで朝市にそれほど高価な物もないだろうが、要は気持ちの問題だと彼は考える。
 更に何かを喋ろうとしたけれど、焦れてしまったらしい犬達が小さく鳴いてしまったせいで阻まれてしまった。
 自らの下にも立ち寄った犬の一匹を撫でて、老女は笑みを深めた。


「それではまた、我が国」
「よせって言ってんのに」


 日常的に彼女が行う挨拶に、彼ははにかんで見せる。
 彼は知っている。
 老女がプロイセンが国であった頃にこの地で生まれ、国でなくなった今なおこの地で生き続けていることを。
 そんな人々がいまだここに居続けていて、この地となくなっていくはずの国を慕い続けてくれることを彼は気恥ずかしさと共にこの上なく幸せに思う。

 その日、彼と犬達はそれほど長くもない道程を時間をかけて踏破した。
 もしかしたら止まって話していた時間の方が長かったかもしれないが、彼はもとより犬達も気にしたふうではない。
 家に帰って抱えていた荷物を下ろそうとすると、犬達が紙袋に鼻先を突っ込んだ。
 買い物の先々でおまけとばかりにぎゅうぎゅうと詰められた物の中に果物があったから犬達と一緒に食べようかと彼は考えて、小さく笑みを漏らした。

 彼の弟は時に兄の最期の日を思い、その日に恐怖を抱く。
 しかし、その日は朝の散歩における雑談や市に出掛けたときの過剰なくらいのおまけがなくなる日であり、それは人々が彼を愛さなくなったことを意味するのと同義である。
 それ故に、その日はいまだ予想できないほどに遠いように思われるのだ。

 以上が亡国でありながらもなお生きる彼についてと彼が培ってきた日々の結果であるルポルタージュである。