好きだ、と告げたあの人を思い出す。
初恋だった。
それは違えようのない事実だったし、今更否定するつもりもない。
まあ問題があるとすれば、相手が男でありイタリアも男だったことくらいだろうか。
国に人間の概念をそのまま適応して、問題を提示していいかはよく分からないが。
とりあえず、昔の自分に何かアドバイスができるなら、一回オーストリアの前で脱いだ方が良いの一点に尽きる。
そこまでつらつら考えて、珍しいことを思い出したものだ、だなんて思う。
彼は初恋の人だったが、自分は遠に美しいとはいわないまでもうまく消化して過去のものにしたつもりでいたのだ。
忘れてしまいたいわけではないとはいえ、時の流れが彼の存在感を薄くしたのは間違いない。
そんな彼をやけに思い出してしまう理由も分からなくはない。
この、嫌になるとしか表現しようのない熱波である。
日本の家も湿気と熱気のダブルパンチが凄まじいらしいが、本日のイタリアもなかなかのものです。
思考が蕩けて、今といつかの輪郭が曖昧になってしまうのを止められない。
シェスタまでは曇っていたからか冷房を付けなくても大丈夫だったのだが、熱波としか表現しようのない風に頬を撫でられて目が覚めた。
窓から見える空はいつの間にか青一色で埋め尽くされていて、一時間前の風景の気配は全く感じられない。
イタリアとて原始人ではないのだから、冷房の電源は入れたものの一向に効き出す気配が感じられないのだ。
熱気にうなされながら何の夢を見たか分からないが、多少感じる性欲もこの暑さでは晴らす気も起きない。
放っておいたらすぐにでも過ぎ去ってしまいそうな代物なので、この際なかったことにする。
暑いと口にするのも億劫になる暑さに、無言で寝返りを打って寝汗でべたついているシーツから逃げる。
仰向けからうつ伏せになって、多少背中が涼しくなったのは良いがシーツと面と向かうことになった顔がよろしくない、だなんて当然なことを考えていると携帯電話が無機質な音を立てた。
「うん……わあああ!」
寝返りを打った分サイドテーブルから遠ざかってしまっていたのに、不精をしたのが悪かった。
指を懸命に伸ばして何とか日本からもらったワインボトルのストラップに付いている紐を確保したと思って引っ張ったら、耐久度が足りなかったのか人差し指から輪が外れ無慈悲にも床に落下する。
破裂音と共に呼び出しがぴたりと止まってしまったのだが、どうやら呼び出し音が再生されるまでの待ち時間だったらしい。
「ヴェー、ああ、そうじゃなくって!」
安堵の息を吐き出してから、目的がそこにないことを思い出す。
呼び出しはまだ律儀に続いているが、じきに留守番電話に繋がってしまう。
個人の携帯電話にかけてくるのだからさほど重要なようではないとは思うのだけれど。
「はい、イタリアです!」
さっきまで殆ど動かしていなかった体を瞬間的に動かすと、釣られて声まで大きくなる。
不味いとは思ったが、取り返しが利くものでもないのでどうしようもない。
「……音量には気をつけろといっているだろう」
「あ、ドイツ。ごめんね?」
呆れた声でありながらも被害を被らなかったのか、全く声音に苛立ちを感じなかった。
まあ、日頃から結構な確率で繰り返してしまっているので、第一声は受話器から耳を離しているとかそういう対策がなされているのかもしれない。
四角四面の几帳面な性格に似つかわしいくせに、それでも女性らしさを十二分に備えた声音に頬を緩める。
女の人というのは不思議なものだ。
「反省が見えん」
はあ、と彼女が溜め息をついた瞬間だった。
ぞくりと背筋に何かが走って、いつの間にか部屋の冷房が効いていたのに気が付く。
けれど、冷房は部屋を冷やそうと吐き出し口から風を出している真っ只中だった。
空気も先程よりかは幾分かましだが、涼しいには程遠い。
「イタリア?」
「あああの、あのさ、ごめん!」
ばふんと音を立てそうな勢いで顔が赤くなるのを感じて、対面でなくて良かったと心底思った。
彼女の吐息に鼓膜を擽られて寝起きの燻りに火が付いてしまったのだと分かると、耳までかっかしてくる始末だ。
ここまま電話を続ける度量も技術もあえていうなら趣味も、イタリアは持ち合わせていなかった。
「本当にごめん! また後で掛け直すから!」
返事も聞かずに電話を切って、ベッドに倒れこむついでにサイドテーブルに携帯電話を戻す。
顔に触れたらさぞや熱かろうと思ったが、指先も熱を孕んでいるらしく予想するほどでもなかった。
しかし、シーツに顔を埋めると、ひんやりとした触り心地に目を細める。
ベッドに押し付けた胸の奥で心臓が喧しく活動しているのが聞こえて、珍しくイタリアは自分を叱咤した。
彼女の吐息で欲情してしまうだなんて。
頼もしい、互いを助け合うと誓い合った仲である友人をまさかオカズにできるはずがない。
鍛えられていながらも、出るべき所はしっかり出ている彼女にハグをするときに下心がなかったといえば嘘になる。
しかし、それは性欲に結びつく感情よりはずっとマイルドなものだったはずだ。
優しい気持ちとでもいえば良いのだろうか、とにかく親愛に比重を置いた心だった。
こういうときに気を紛らわすため素数を数えると聞いたことがあるが、二十三の次の素数など知らない。
ドイツならあっさりできてしまいそうだとまで考えて、結局意識が彼女の下に帰ってきてしまった。
熱い。どうしたらいいの。
困ったらいつも助けてくれた彼女は、今回に限って全く助けにならない。
ドイツのせいじゃないけど、どうしようもない。
彼女の腕に守られた日々を思い出す。
遠くから聞こえてくる恐ろしく大きな音を塞ぐように己に影を落とし、ドイツは爆音のその先を見据えていた。
その鋭い視線は常にイタリアの為に向けられていたのだ。
その方角にイタリアさえも含まれていることがままあったのが欠点ではあったのだけれど。
普段なら恐怖の対象であるそれに畏怖が混ざりこみ、顔を背けることも視線を逸らすこともできなかった。
その表情に、姿に魅入っていた。
そう、分かっていた。
彼女はただの友達などではない。
だったら親友か、と問うような言葉遊びをしているわけでもない。
辺りが静寂に包まれて、ゆるゆると肺から息を吐き出して。
それから、もう大丈夫だと緩められる口元と瞳が向けられる。
馬鹿みたいに抜けた青い空と透明感の強い影のコントラストと彼女の姿をセットで覚えている。
だから、初夏の空やそれこそドイツを見ればあのときのことを思い出した。
心音も今、そっくりそのまま再現していると判断が付くくらいには鮮明に鼓膜に残る。
彼のことを思い出すのは、暑いからだけではなくてきっととても近い感情を彼女に抱いているからだ。
違いといっても、性欲を持ち合わせているか否かくらいの瑣末なものなのだけれど。
「……神聖ローマ」
熱を持て余しながら、彼の名を呼ぶ。
初めて好きだと言ってくれた人を声に出して呼ぶ。
そうすると少し気持ちが落ち着くような気がした。
「俺、もうちびじゃないんだ」
この前思いっきり女装をしたけれど、さすがに日常的に女の子の格好で過ごすことはもうない。
「このまま神聖ローマを待っててもどうしようもないって分かったから、凄く頑張った」
きっとその頑張りは他の国から見れば、もっと余地のあるものだったのだろう。
間違いなくドイツならそう言うはずだ。
でも、頑張ったから彼女に出会えたんだ。
「お前は俺の初恋の人だ。それだけは絶対変わらない」
彼女を思うたびに、ちりちりと心を焼く罪悪感が彼を思い出させた。
自分よりも先に死んでしまう思い人はずるいとよくいうけれど、本当にたちが悪い。
「俺、俺はドイツ……ううん、ルートヴィッヒが好きなんだ」
じくり、と高揚と共に鈍い痺れが腹を通じて爪先にまで染み渡る。
いつか自分を苛んだ後悔の引きつるような感覚に、少しだけ眉を潜めてゆっくりと深呼吸をした。
腹の底に残っていた冷たいような感触が時間をかけながらも四散していくが、ばくばくと心臓を打つ激情は治まる様子を見せようとしない。
ああ、今、恋をしているのだ、と思う。
ずっと、恋をしていた。
後悔も何もかも飲み込んで、そうして彼女を愛していく。
なにもイタリア一人が特別なのではなく、誰もが通る人生の道だ。
歩まねば生きていけはしない。
「俺は生きていくよ」
返事など聞こえるはずもないのだけれど、それでもイタリアはたった一人のひとに囁いた。