ズラチナルーカ



 彼は貧民街で生まれ、殺人犯になった。

 十九歳の彼には恋人がいた。
 正確には彼を溺愛する女性に囲われていた、というのが正しいのだが。
 彼が生まれた街では、まともな仕事にありつけることなどほぼない。
 あの街では少年から青年に移行する年頃になればまるで義務であるかのように酒や薬を嗜んで、後ろ暗い仕事に足を突っ込まねばならなかった。
 泥沼のような空間で同じ泥を被る人間を踏みつけになければ生きられないような世界で彼も早くに酒を覚え、気軽には話すこともできないような仕事を重ねてきたらしい。
 どんな経緯で女性に見初められたのかを彼は決して詳細に話そうとしないから判然としないが、とにかく彼は彼女の手によってスラム街から抜け出した。
 新しい街で家と生活費を与えられながら初めて真剣に学問に向き合って、所謂ヒモにしては真面目な日々を過ごしていたようである。

 新鮮な日々だった、と彼は時折思い出したように口にする。
 あの人の愛情に応えられないことが苦しくもあったけれど、それでも構わないって言ってくれていたのだと。
 きっと、自分は彼女のことが好きだったのだと思う、と搾り出した声は悔恨に塗れていた。
 彼が思いを吐き出して長く黙り込んでしまったときに、アーサーは何と話しかけたのか全く思い出せない。
 カーテンの向こうで震える吐息があまりにも鮮明に思い起こされて、思い出しただけでも瞼を震わせてしまいそうになる。
 まるで、すでにこの世にはいない人を愛していたと信じることが義務であるかのような響きを帯びたそれが、アーサーの心臓をちくちくと痛めつけるのだ。

 歪でありながら穏やかだった日々はある日終わりを告げた。
 女性の愛が途切れたのではなく、ましてや彼が彼女との日々の終焉を望んだのでもない。
 女性には婚約者がいたのだ。
 彼女は婚約者からの熱烈な求愛と親族の勧めで結婚を決めたらしいのだが、その直後に一人の青年を愛してしまう。
 結婚の段取りは強固な親族関係を築きながら進み、政略結婚の様相を深めていたため彼女一人の力では撤回など到底不可能だったらしい。
 ままならぬ人生に悲哀を重ねながら、彼女は青年を囲い込むという選択をする。
 作り上げた箱庭は彼女にとっての理想郷だったが、ある日を契機に婚約者がその楽園に気づいてしまった。

 愛を拒まれたと知った婚約者は青年の住む部屋に乗り込んだ。
 青年と話を付けるのが目的だったのか、はたまた危害を与えるつもりだったのかは分からない。
 その日そこにいるのは婚約者の愛する人だけで、青年の姿はなかった。
 かなり激しい口論になったのは近隣の住人の証言から明らかになっている。
 ふつりとその声が途絶えた後、その部屋の住人であった青年が帰宅した。
 青年が知覚したのは湿気を帯びた生臭さと、鮮烈な血の赤色と異様な興奮に目をぎらぎらと光らせた男性の姿。
 最後の床に倒れこんだ女性を認めて、彼は全てを理解したらしい。
 柄まで血で滑る包丁を握りこんで青年に襲い掛かってきた男に応戦し、結果として男を殺してしまった。

 当初は嫉妬に狂った愛人が恋人と彼女の婚約者を殺害したと思われたが、周囲の証言から彼が殺害したのは婚約者のみだと判明した。
 正当防衛が適応されるかと思われたが、殺し方に過剰防衛の片鱗が見られたことと、スラム街での余罪が明らかになったことが原因で現在彼は塀の中で刑期を送っている。

 彼、すなわちアルフレッド・F・ジョーンズが懺悔室に来るようになったのは半年ほど前のことだったと記憶している。
 身寄りらしい身よりもない彼は始め、外の人と話がしたかったのだとどこか照れくさそうにしていた。
 カトリックのシスターとして神に身を捧げるアーサーがボランティアとして行っている懺悔の時間は、アルフレッドにとって次第に重要な時間となっていったらしい。
 次第に彼は身の上や事件について話すようになり、何度もあの瞬間を思い出すのだと声を殺して泣いたこともある。
 普段は快活で頭の回転が速いことを窺わせる彼が何とかアーサーに聞こえるくらいの泣き声を漏らしているのを聞くと、ただ抱き寄せてやりたい衝動に襲われた。

 その彼が今、格子の向こうから呼びかけている。
 落ち着いた赤くて重たいカーテンを避けてほしい、と酷く真剣な声で願い出ているのだ。

「そんな、ことしたら」
「そうだね。懺悔じゃなくなっちゃうかもしれない。でも、お願い」

 君の顔が見たいんだ。
 声だけじゃ足りない。
 アルフレッドがしっとりと濡れた声を吐き出して、格子の間から指を差し入れて埃っぽいカーテンを爪で掻く。
 揺れるカーテンが風を巻き起こして、アーサーの頬の産毛を揺らしたような気がした。

「やだ」

 まともに息を吸い込めない状態で何とか上げた声は、まるで情事のときのような甘ったるい響きを帯びていた。
 これでは正しい否定の意思が伝わるはずがない。
 意のままにならない喉に頬が熱くなるのを感じていると、アルフレッドも同じような受け取り方をしたのか小さく笑ったのが聞こえた。
 格子にかける力を強めたのか、カーテンの向こうが鈍く軋む。

「お願い、アーサー」
「だっておれ、シスターなのに」

 長くシスターになるべく人生を歩んできたのだ。
 生涯結婚はおろか恋愛も謹慎する特異性からちょっかいをかけようとする男も少なくはなかったが、全く魅力は感じなかった。
 むしろ、その経験をするたびに神への帰依の思いをより一層強くしてきたのに。
 それなのに。

「君の人生を台無しにさせてほしいんだ」

 どうして、顔もまともに知らないこの人に、こんなにも惹かれてしまうのだろう。
 どうして、この人は顔も見たことのない女にこんなにも惹かれてしまったのだろう。
 決して上等でないこの相貌が、彼に見られてしまうのが少し怖い。
 お願い、と重ねて乞われて、ひくりと喉が引きつったのを感じる。
 駄目だと分かっているのに、それでも手が動いてしまう。

 カーテンはそもそも動かすことを前提にはしていなかったようだった。
 スライドをしないのを確認した後、埃を被ってしまうのも構わずにその奥に潜り込む。
 アーサーのいる空間とそう変りがないように思える格子の向こうには、金色の髪に相応しい明るさを紺碧の瞳に湛えた青年が立っていた。
 なぜこんな場所に彼がいるのか一瞬分からなくなるような、日の下を歩むのが相応しい顔が少し歪む。
 何とか指が通るだけの格子を握り締めるアルフレッドの指に力が籠ったのが分かった。

「アーサー、アーサー」

 ありがとう。
 そう告げる声が震えていた。
 額を格子に擦り付けて、指先が乞うようにアーサーに向けられる。
 爪はまるでアーサーに触れるために丁寧に切り揃えているように見えた。
 全身で、求められているのが分かる。
 シスターとしての自分ではなく、ただのアーサー・カークランドをこんなにも求められたことは今まで一度もない。

「……ごめんなさい」

 謝罪の言葉にアルフレッドの瞳が揺れた。
 膝を折って蹲ってしまいそうな身体を叱咤して、アーサーはひたりと冷たい壁に腕を付ける。
 覆うように触れた指先は格子に体温が奪われたのか、驚くほど冷え切っていた。
 彼の指に少しずつ体温が移っていくのが分かるが、手を放す気持ちにはなれない。

 自らの信念と将来を裏切る絶望と彼に触れる多幸感に胃の中がめちゃくちゃになるのを感じる。
 ぼろりと涙が溢れ出して、今度こそ足から力が抜けてしまった。
 ずるずると壁に倒れ込むように身を寄せてしゃがみ込む。
 それでも指先は彼に触れたまま、ただひたすらに許しを請う。
 それが自らの信じる神に対してなのかアルフレッドに対してなのか、はたまた今までの自分に対してなのか分からない。

 愛してしまった。
 他でもない、この人を愛してしまったのだ。
 たとえ、アルフレッドの愛情を拒んだとしても、この裏切りをなくせるわけではない。
 何よりも罪深いのは、この自らの内に根付いてしまったこの感情なのだから。