王の檻



 キスがこんなにも涙を誘うものだとは思ってもみなかった。
 思った以上に柔らかい唇の感触に時折瞼を震わせながら、生まれてこの方障害だらけだった人生の道程を思う。
 ダイヤの国にスペードのクイーンの証を持って生まれ、まともに家から出られない生活を送ってきた。
 それでも見出され、付け焼刃に過ぎないもののスパルタ教育を受けた上でスペードの国に売り渡されたのだ。
 ダイヤの国からすれば、血眼になってスペードの国が探し回っていた女を自国で見つけたのは喜ばしいことであったに違いない。
 髭さえそればもっと見目よくなりそうなダイヤのキングが恩を売るいい機会だ、とほくそ笑んでいたのを今でも覚えている。
 各国は現在戦争こそしていないものの、平和で平等な協力体制を気づいてはいない。
 少しでも交渉の道具があればいいというのは各国の共通認識であるだろう。

 命の危険があったとはいえ家に軟禁され、祖国に売り渡される。
 悲惨な人生だ。
 けれど、それ以上に目の前の男が哀れでならなかった。
 盲目にアーサーを愛そうとするアルフレッドがあまりにも可哀想だった。

「……アルフレッド様、あなたはそれでよろしいのですか」

 生まれて初めての心が醒め渡るキスから解放されて、アーサーは堪らず問いかけた。
 夢心地に揺れているアルフレッドの瞳はほんの少しの空白時間を挟んで、思案の色に染まっていく。
 アーサーを抱きとめる腕や体は温かく、心地よさと苦しさを同時にアーサーに伝えてくる。
 本来であればこれは自分に与えられるべきものではないのだ。

「どういうことだい?」

 するりとアルフレッドの親指がアーサーの頬を撫でる。
 眉間に浅く刻まれた疑問の現れを見返して、緊張を解すためにゆっくりと長い息をついた。

「私は、あなたが不憫でなりません」

 下手をすれば斬首ものの発言だ。
 自分がクイーンであるという驕りではなく、アルフレッドの優しさに甘えてしまっているのだろうと思う。
 許してもらえて自分が害されることはないと欠片でも考えている思考回路が情けない。
 けれど、命を奪われても構わないのかもしれない。
 それで、この人が自由になれるのなら。

「……ごめん、全然分からないんだけど」

 甘えるような困ったような表情にきゅうっと心臓が締め上げられるのを感じる。
 きっともう、自分は手遅れなのだ。
 アルフレッドに優しくされると心が解けて全てを預けたくなってしまう。
 けれど同時に、精神の片隅が冷えて凍り付いていくのだ。

 だって彼の思いは恋ではない。

「私はただの町娘です。キングの后として資格こそありますが、あなたの相手には相応しくない」

 脈々と続く名家出身で、生まれた瞬間から王として育てられてきた彼とまともな家系図すら存在しないような自分である。
 そもそもつり合うはずがないのだ。

「クイーンはキングの御子さえ産めばいいのです。あなたが無理に私を愛する必要など、どこにもありません……!」
「キングとクイーンは夫婦になるんだよ。国民の模範になるような、理想の夫婦に」

 搾り出して枯れてしまったアーサーの声に対し、アルフレッドの声はどこまでも穏やかで優しかった。
 理想。
 確かにその通りだ。
 どの国でもキングとクイーンは仲睦まじい夫婦として扱われる。
 けれど、それを信じ込んでいるのは十になるまでだろう。
 いつしか報道が虚偽であると悟り、理解しながらも『理想の夫婦である』と評していくのだ。

「あなたはキングとして育てられてきました。あなたがどれだけ努力してきたかも分かります。アルフレッド様が王である限り、この国は幸福だと思います」

 アルフレッドは王として、自らの心すら縛ろうとしているのだ。
 その縛られた心でもって愛されるのが苦しい。

「でも、キングの義務として私と理想の夫婦になったとしたら、あなたはいつアルフレッド・F・ジョーンズに戻るんですか! いついかなるときも王としていなければならないなんて、そんなの」

 あまりにも可哀想だ。
 王としての義務から逃れられないのは確かだ。
 それでも、心を休める一瞬がないなんてあんまりではないか。
 そのときのアルフレッドがアーサーを愛してくれなくたって、見てくれなくたっていいのだ。

「もっと、自由になって下さい、アルフレッド様……!」