夜の女王



 納屋の藁山をこっそりと拝借していた。
 長雨のせいで少し湿気て感じるちくちくした感触を誤魔化しながら、さあさあと音を立てる屋根に意識を向ける。
 確かこの雨が降り始めたのは夜半を回った辺りだったろうか。
 体内時計を頼りにした直感でしかないので確証はないが、雨に降られなかったのは幸いだった。
 普段の状況ならともかく、今のアルフレッドは替えの服など持ち合わせてはいない。

 雨音を聞いて、あの人のことを思い出すのは少なくなったはずだった。
 濡れた土と藁の軽やかな草の芳香に紛れて、懐かしい香りが鼻先を擽ったように感じる。
 まるでそれが不快であるかのようにアルフレッドは眉間に皺を深く刻んで、アルフレッドは藁に体をより深く沈ませた。




    *    *    *    *




 眩しさを感じて意識が浮上した。
 それが人為的に灯されたランタンに寄るものであると気がついて、一気に体が緊張する。
 朝が来たのかと悠長に考えていた一瞬前の己を殴ってやりたい。
 いくら自分が国であるとはいっても、民家に勝手に入り込んでいいいわれはない。
 よくもまあこの夜の雨の中、納屋に来る気になったものだと家主の領地を守る嗅覚に驚きを隠せないまま、眩しさに目を慣らす。

「おはよう、アルフレッド」

 暖色の明かりの向こうにかんらん石色の瞳を認めた瞬間、聞き覚えのある女性の声が降ってきた。
 まあ、朝って時間でもないけど、と笑いながらアーサーはアルフレッドと視線を合わせるために膝を折る。
 ランタンが底の硬質性を主張しながら納屋の床に下ろされて、両の手が自由になったアーサーがアルフレッドの腰の横辺りに手を突いた。
 彼女の手の平が藁を押し下げて、幼い頃に己の頬に触れた手の感触を思い出す。
 苦労をした手ではあったが、それでも女性的な優しさを有していたそれでは痛みを感じているのではないかと案じざるを得ない。
 しかし彼女は悠々と手の平に体重を掛けながらアルフレッドの瞳を覗き込んだ。
 これほど彼女が接近してきたのはアルフレッドが今の背丈になってからでは初めてかもしれない。

「どうした?」

 四つん這いの姿勢が辛かったのか、アーサーが太股の上にぺたんと腰を下ろす。
 そのセックスアピールとも取れてしまいそうな仕草に息を飲みながらも、固まりそうになる口を開いた。

「……怖く、なったんだ」

 ゆっくりと瞬きをする間に、あの一瞬の光景が瞼に浮かんだ。
 それにつられるかのように、鼻先に硝煙の臭いが蘇る。
 そうして湧き上がった吐き気に前のめりになると、目の前にいたアーサーが体を優しく抱き留めてくれた。
 幼い頃から感じていた体温に心底安心させられる。

「引き金を引いて、俺は国民を殺したんだ」

 彼女の肩口に額を擦り付けて、震えて熱くなる呼気と共に思いを音に替える。
 肥大する国の中で明確に分かれてしまった風習は国家の分裂を誘った。
 自由を求め、独立を選んだアメリカという立場から、アルフレッドがどちらを選ぶかなど考えるまでもない。
 それがアルフレッドを旗印にすることで自らの正統性を確保しようとする目論見故だったとしても、そうすることで彼らの自由が保障されるならそれでよかったのだ。

 小さくて殊更優しい相槌が耳元で転がって、彼女の体を抱きしめ返す。
 昔は大きく見えていた体は今ではとても小さく見えてしまっているが、その小さな彼女が心強くて仕方がない。
 子供の頃のように優しく頭を撫でられる。
 それだけで、胃に蟠った冷たい不快感が晴れるように感じた。
 少しでも近づきたくて擦り寄ると、くすくすと彼女が笑う。

「アルフレッド。お前は――」

 粉砂糖をそっと振り掛けるような優しい声音。
 想像もつかないほどの時間を歩んできた彼女なら同じような経験を何度もしてきたはずだ。
 いったいアーサーはその耐え難い経験をいかにして乗り越えてきたのだろう。

「人の命を区別するんだな」

 アルフレッドの顔を上げさせて、視線を合わせたままでアーサーが微笑む。
 今、彼女は何を言ったのだろうか。
 予想してもいなかった声に息が詰まって、言葉を発することもできなかった。

「お前は、沢山俺の国民を殺しただろう。それなのに今更恐がるなんて」

 声音は今までのまま、アーサーがアルフレッドを詰る。
 あの時は大儀があった。
 イギリスからの度重なる重圧からアメリカは解き放たれなければならなかった。

 奴隷解放。

 アーサーの口角が綺麗に上がって、まるでアルフレッドの思考を読んだように致命的な言葉を口にする。
 そう、その通りだ。
 今回の戦争にも大儀はあるのだ。

「イギリス人はお前にとって家畜同然だったか?」

 弱々しく首を振って、否定することしかできなかった。
 いいや、違わない。アーサーが歌うように口にする。
 今度は否定を表明することすら叶わない。

「アルフレッド、忘れるな。命に貴賎なんてない。お前はずうっと昔から人殺しだ」

 夜の帳を恐れたときのように、アーサーがアルフレッドを再び抱き寄せる。
 アーサーの背中に回していたはずのアルフレッドの腕は、いつの間にか力なく降ろされていた。

 人殺し。
 彼女の言葉が垂れ下がった指先を冷やしていく。
 否定できない事実に、アルフレッドの喉がひくりと跳ねた。

「長く生きれば逃れられない」

 アルフレッドの頬に生温い感触が走る。
 不快感を孕むそれに体を引けば、彼女の指先から赤い液体が滴っていた。

「俺達は人殺しだ」

 塗りつけられた液体を拭おうとした自らの手の平にべったりとこべりつく血糊の赤色と穏やかな声が知覚できたものの最後だった。