目覚ましのアラームを設定した時間よりいくらか早く目覚めた。
普段であればもう一眠りするところだったが、目が冴えてしまって眠れない。
諦めてベッドから出る。
カーテンを開けても外はまだ薄暗く、室内に満足するほどの明かりは入ってこなかった。
ぼんやりと室内を明らかにする明かりを頼りに照明を点け、シーツをベッドに入る前と同じ状態にする。
寝室を出て、瞬間湯沸しポットのスイッチを入れようとして止める。
今日は時間もあるのだし、丁寧に紅茶を入れたい気分だった。
ポットに多めに水を注いで、ガスの火の上に置く。
沸騰を待って、ポットとカップを暖める間に再びやかんを火にかける。
暖めたポットに茶葉を入れ、沸騰した湯を注いた。
ティーマットとティーコジーで熱を逃がさないようにして、しばらく砂時計を見守る。
砂が落ち切ってから、ポットをスプーンで一回しする。
ふわりと立ち上る芳香に緊張しきった心が和らいで、それから今まで以上に硬直する。
――もしも、頷いたら。
あの頃のように紅茶を二人で飲むようになるのだろうか。
それからミルクと砂糖を入れて飲んだ紅茶も、朝食の味も覚えていない。
* * * *
アルフレッドが独立を選んでから何年経ったとか、計算をするのもあまり苦痛を感じなくなった。
それは単純な時の流れや、関係の改善があるのだと思う。
独立からいくらかの間は会議でのやりとりや、よそよそしい会話しか存在しなかった。
どちらに悪意があったわけではなかっただろう。
ただ只管に深く絶望的な断絶を前に、双方なすすべもなかったのだ。
断絶の衝撃が鈍化するに従って、アルフッドとの交流は少しずつ増えていった。
どれだけ時が過ぎ去ろうとも、彼の根本的な部分が変質したわけではない。
大人になったと感じる振舞いもあったが、昔から変わらない性質に苦笑してしまったことだってあった。
言い争いを繰り返しながらも、アルフレッドはアーサーを避けることはなくなっていた。
仕事のついでに食事に誘われることもあったし、その逆だってあった。
それだけで幸せだった。それ以上を望むべくもなかったのだ。
「……こく、祖国?」
突然意識に介入してきた声にびくりと肩が跳ねた。
「体調が優れませんか?」
「ああ、いや大丈夫だ。すまない」
思考回路が芳しくない方向に没頭してしまっていたせいで、顔でも青かったのだろうか。
部下が随分気遣わしげに問いかけてきて、意識的に笑顔を作る。
家の鍵が心配で、だなんて冗談を言ってみれば、せめて呆けるのは僕が死んだ後にしてくださいと真顔で返事をされた。
縁起でもない話だと思いながら、同時に今まで痴呆になった国はいたのだろうかと疑問が過ぎる。
「今回の会談は国家間の親密さをアピールするものですから、挨拶の際にはプライベートの感じで挨拶をしてほしいのですが」
「プライベート?」
「はい。お願いできませんか? ちゃんとアメリカ側にも話は通してありますので」
形式だけはお願いをする形にはなっているものの、これは脅迫に近いだろう。
すでにアメリカ側に話が行っている時点でアーサーが断るのは無礼な振舞いに当たってしまう。
今度の繁忙期は覚悟しておけと内心で呪いを吐きながらも、表面上では二つ返事で了解する。
用事が済んでさっさと部下が退室してしまった部屋で重苦しい溜め息を吐いた。
どうして今日なのだ。
今回の要望が前回の会談での出来事だったならば、本心から二つ返事できただろうに。
あの事件が起こるきっかけになった会談の朝であれば。
あの会談のあった日の晩、アルフレッドは強かに酔っていた。
会場からホテルまでそう遠くないとはいえ、容貌に相応しいティーンそのものの酔い方に少し呆れたのを覚えている。
アーサーとて酒癖が悪い自覚はあるが、次の日に公式の仕事が入っている日に危ない飲み方はしない。
幸か不幸かアルフレッドのホテルと同じホテルを予約していたので、ふわふわとだらしなく笑っている酔っ払いを連れ出した。
まだ帰りたくないとごねる彼を無視して、手配していた車に詰め込む。
車が滑り出してしまえば振動を心地よく感じたのか、座席にくたりと沈み込んで静かになってしまった。
十五分ほどの道のりの大半を睡眠に費やしたらしい。
「――ついたのかい?」
車が玄関に着いたので揺り起こすと、ぽやぽやした声で尋ねられた。
「ああ、立てるか?」
「大丈夫なんだぞ」
うたた寝が効いたのか、アルフレッドの足取りはしっかりしていた。
ついでに語調にもいつもの調子が戻る。
明日のスケジュールを詳しく聞いていたわけではなかったが、どちらにせよ支障は少なそうだと胸を撫で下ろす。
「ねえ、具合は悪くない?」
静かにしていたアルフレッドが口を開いたのは、エレベーターに乗り込んですぐのことだった。
むしろお前の方が大丈夫かと聞いてやりたかったが、今後の自分のためにも酔っ払いには優しくすることにする。
「いいや。どうしたんだ急に」
「だって、昔はこの時期にはもう辛そうだったから」
そこまで言われてようやく合点が行く。
随分前は六月の頭であるこの時期から、独立記念日を意識してか体調を崩していた。
今だって血を吐く勢いで体調を崩すのだけれど、期間そのものは随分短くなっている。
「お蔭様でかなりましになってるから、お前は気にするなよ」
「気にするよ! 今日だって、日が悪かったんじゃないかって、俺がいたら辛くなるんじゃないかって心配だったのに」
色々考えてたら飲みすぎちゃったんだと、可愛らしいことを言い出すものだから、口角が上に上がってしまいそうになる。
そんな風に思えてもらっていたのだと思うと素直に嬉しい。
ああ、そういえば自分も飲んでいたのだった、と表情筋が蕩けたことに気づいた瞬間だった。
暖かな温度に包まれる。
混乱したまま意味を成さない音が喉をつく間に、エレベーターの戸が開いて、抱きしめられたまま外に連れ出された。
「すき」
体温に相応しい上擦った声だった。
「君がもう少し許してくれたら、伝えたいって思ってたんだ。君が六月になっても俺と公の場に出ても大丈夫になるまでに、君の体が許してくれたら、君に」
体温はすぐ離されてしまい、アルフレッドが大きく息を吸い込んだ。
まるで一つ一つの言葉を吐き出すのが重労働だと言わんがごとくの振舞いである。
「緊張しちゃってこんなに酔っ払っちゃったけど、伝わってるかい? 好きなんだ、アーサー。俺は君にずっと恋してる」
いつかお前は人の好意に鈍すぎると評されたことがあったけれど、ここまで言葉を選ばれて明確に伝えられてしまえば曲解のしようもない。
盛大などっきりの可能性も否め切れなかったが、熱っぽい声と言葉が嘘偽りとは思えなかった。
なんと返せばいいかも分からなくてはくはくと唇を動かしていると、アルフレッドは小さく苦笑した。
「今は返事はいらないから。ゆっくりしっかり考えて、それから俺に教えてくれよ」
がちがちに固まる関節を無理やり動かして了解すると、アルフレッドの瞳が柔らかく細められる。
見たこともなかった大人びた表情にそわそわしてしまう自分がいた。
「……できればいい返事だと嬉しいけど」
どんどんと鳴り響く心臓の合間から聞こえる声にもう一度頷いたのがその日の最後の記憶。
それからアルフレッドには会っておらず、ついでに言うと返事だって決まっていない。
そんな宙ぶらりんの状態で挨拶とはいえ抱き合うだなんて、なかなかの拷問である。
あの時のことを考えただけで、更年期障害かと思ってしまうような動悸が起きる。
今も焦燥感を煽る鼓動に体を支配されながら、アルフレッドへの対処を考えていた。
好きかと聞かれれば、答えはイエスである。
愛していると言ってもいい。
出会った瞬間から、現在まで。
独立された直後でさえ、アルフレッドを嫌いになったことなどなかった。
けれど、これが恋かと尋ねられると答えに窮してしまう。
恐らく違うが、この愛情ならばきっと彼に体を許すことくらいできてしまうだろう。
それはもはや恋ではないのかと思わずにはいられないが、アルフレッドの思いとは性質を異にするものに違いない。
彼への答えを探そうとして、何度も死滅回遊に陥っている。
正しい道を探し出せずに、どこにも辿り着けないままに朽ち果ててしまっているのだ。
何度も泳がせた思考はいい加減くたびれてしまっていた。
何回思考を殺したか分からなくなった辺りで、アメリカの一団が現れたことを部下が告げにきた。
「そんなにメディアにハグ撮られるのが嫌なんですか?」
「いや、別に……」
眉間に皺が寄りまくった顔が見られてしまったらしく、途端に萎縮した様子で部下が尋ねてくる。
別に、とは言ったもののハグシーンが国家間を越えたお茶の間に放送されるのは女優くらいではないだろうか。
少なくとも自分の仕事ではない気がする。
どんどん気分が重くなるものの、修正はしないまま席を立つ以外に選択肢はない。
ほとんど待合室から目と鼻の先のメディア向けの会見室の扉が開かれる前に、意識的に表情と姿勢を調整した。
廊下よりも幾分か明るい室内に一度瞬きをすることで瞳を順応させ、部下にエスコートされながら室内に入る。
初めに視界に飛び込んできたのはアルフレッドの姿だった。
公の場ですら滅多にやらないオールバックの髪型に、思わず何度か瞑目する。
いつかオールバックにしたときに、やたらめたら褒めたのを覚えていたのだろうか。
何とか平静を表面上で保ちながら、強烈に彼を意識してしまっている自分がいる。
こんなことでハグができるのかと不安に駆られながら、途端に汗が滲む手の平を強く握った。
まずはアルフレッドに差し障りのない挨拶をして握手を交わす。
触れた手の平はアーサーよりも温かくて、多分同じくらいに汗の気配がした。
アルフレッドも緊張しているのだと思うと、途端に心音が高まって呼吸が浅くなる。
一瞬腕の上げ方が分からなくなって、アルフレッドを見上げる。
動転してしまっているのに気がついてくれたのか、アルフレッドが腕を引いてくれた。
そのままアルフレッドを抱き留めた瞬間、ぞわりと肌がそば立った。
あの日の夜に感じた一瞬の体温を思い出して、一気に感情が溢れ出した。
この人に触れたい。
気持ちの正しさなんてどうだっていいのだ。
だた、近づきたくなって仕方がなくなった。
擦り切れた思考なぞ捨ててしまって、寄り添いたいと願ってしまった。
もうだめ、と心が悲鳴を上げる。
もうどうしようもない。
だって自分は知ってしまった。
アルフレッドの体温に高揚する精神と欲求に、気づいてしまった。
きっとこれが愛であり、恋なのだ。
何度も繰り返してしまっていた死滅回遊の果てに、ようやく答えをみつけられたらしい。
背伸びをしてアルフレッドの頬の傍でリップ音を立てて、一度顔を離す。
アルフレッドが俄かに瞳を丸くしているのがほんの少し愉快に感じた。
それから、メディアの席からは見えない方向の頬に軽く唇を落とす。
一瞬口紅が付いてしまったのではないかと危ぶんだが、最近の口紅は予想以上に高性能だったらしい。
後でゆっくり話そう。
そう彼にしか聞こえないように囁くと、小さく彼が頷いたのが分かった。
期待に煌く瞳を作り上げているのは他ならぬ自分なのだと思うと、堪らない気持ちになる。
この瞳をもっと輝かせてやりたいし、蕩かせてやりたいのだ。
それから二人で紅茶を飲みながらゆっくり話そう。
彼の思い続けてくれた時間に負けないくらいに。