月明かりの弱い夜のことだった。
初めは風に煽られた何かが戸にぶつかったのかと思っていた。
それほど控えめで弱々しい物音ではあったが、こうも規則正しく響かれてしまうと他の要因を考えざるを得ない。
何者かが訪ねてきたと考えるのが妥当だが、今の時勢を考えればよろしくない状況である。
己の王国の正統性をより強めるため、世の為政者が血眼になって自分を探しているはずなのだ。
どこかの為政者の差し金がここを嗅ぎつけたのならば面倒だし、単なる旅人であったとしても子供が一人家に住んでいては不思議に思ってしまうだろう。
悪意がなくとも、あの森の小屋には子供が一人で住んでいるという情報が近隣に出回ってしまう。
不安定な王国のいざこざに巻き込まれて、生きるの死ぬのといった応酬に巻き込まれるのは御免被りたい。
この住処を捨てて、裏口からでも逃げてしまうべきだろうかと考えている最中にあんまりにもノックが弱腰である事実に思い至る。
子供一人を捕らえるためならば、戸を蹴破り進入すればいい。
ノックの主が旅人であるならば、住人に宿を求めたり道を尋ねたりすることが火急の用なのだからもっと大胆に戸を打ち鳴らすだろう。
「ブリタンニア……?」
結局来訪者が誰なのか目星をつけられないまま、かといって無視してしまうこともできずアルバはその人を出迎えた。
アルバの手にした明かりに照らされたのは見覚えのある小さな子供で、開いた扉に表情を緩ませたようだった。
「ここには来ないように言ったはずだ」
本来ならそんな措置はしたくはなかった。
ブリタンニアがローマ帝国の支配を受けていた頃は共に生活を送っていたし、これからもそうなるものだと思い込んでいた。
しかし、帝国が手を引くと、ブリタンニアの民はその土地の中で覇権を争いだしたのだ。
いつかはブリタンニア全体を覆う王国とアルバを覆う王国ができてしまうのだろう。
そうなれば、たとえ兄弟とはいえど、共にいることはどうしたってできなくなる。
ならば今から距離を置いて、来るべきときに負うだろう傷を浅くするようにしたかったのだ。
今のアルバにはブリタンニアを傷つけることなどできないが、そうしなければならない日がきっと来てしまう。
そのときのために、この子とは離れてしまいたかった。
なるべく冷たく響くように言い放った言葉はもしかしたらブリタンニアには届かなかったのかもしれない。
向けられた瞳はそう思わせるくらいに茫洋としていた。
その瞳に誘われてぴたりと額に手を当てれば、予想通りの熱が手の平に伝わってくる。
「ごめんなさい……でも、俺怖いんだ。今日だけでいいから、お願い」
手の感触に緊張が緩んだのか、ブリタンニアの瞳がじんわりと滲む。
震える声で一人にしないでと告げる弟を安心させるために抱き寄せてやると、小さなしゃくりが聞こえてきたので背中をそっと撫でてやった。
途端にくたりと体の力を抜いてしまった弟を抱きとめながらも、ベッドまで歩くように伝えると素直に体が離される。
一人で熱を出して不安になってしまったのか、何かに怯えてこちらへくる内に熱を出してしまったのか。
判然とはしないけれど、そんな身内を追い返してしまうようなことができるほど、情は薄れてはくれていなかった。
寝台に寝かしつけると、ブリタンニアはもぞもぞと寝台の端に寄る。
どうやら一緒に眠る心積もりでいたらしく、隣に来ようとしないアルバに気がついておずおずと視線を投げかけてきた。
小さな山小屋では満足な設備が整っているはずがなく、眠れそうな場所といえば寝台くらいだ。
野営をするときのようにマントを巻きつけて眠ってしまおうと思っていたが、同じ空間にいるだけでは飽き足らないらしい。
もしかしたら自分の体調にまで気が回らずに、むしろ気を使っているつもりのだけなのかもしれないが。
数日後の体調不良を覚悟しながらベッドに潜り込むと、ブリタンニアは安堵の息を漏らす。
その頼りなさを感じさせる温度に、自然と表情が緩んだのが分かった。
ずっと怖くて、と弟が口にする。
何がそんなにも恐ろしいのかと問いかければ、途端に体を緊張させる弟の頭を撫でてやった。
「……心の中に何か入ってくるみたいな感じがする」
他の誰かに聞かれるのを恐れるような小さな声でブリタンニアが口にして、視線をあちこちに走らせた。
まるで誰かが彼の隙を狙っているのだと言わんがばかりの仕草に思わず笑みが零れてしまう。
「ほんと、本当なんだ!」
「――いや、信じてないわけじゃない。ブリタンニア、それは仕方ないことなんだ。今、お前の土地では沢山の部族が覇権を争っている。その渦がお前の心を掻き乱すんだろう」
額と髪の生え際の輪郭をなぞってやりながら、アルバは弟の心に染み込ませるように口にする。
時折自分も覚える感覚だ。
心の焦点を見失ってしまうような感覚は決して気分のいいものではない。
ローマの比較的安定した支配の下で自我を伸ばしてきた彼には初めての体験であるだろうし、混迷の時代の中で縋れる者があまりにも少ない状況では不安に飲み込まれてしまう夜もあるだろう。
それがたまたま今夜だったのだ。
撫でられて心地良さそうに視線を細めるブリタンニアの、頼る相手が自分であったことが素直に嬉しい。
もしも国であるだなんて数奇な生を受けなければ、自分達は寄り添って生を送ったはずだったろう。
得られぬものを嘆くばかりでは虚しいが、それでももしもとは思わずにいられなかった。
「兄さんも、こんな気持ちになるの?」
「たまにな。まあ、じきに慣れるだろ」
「俺、慣れたくないな。なくなってほしい」
わがままを言う子供の額をペちんと指先で叩いてやれば、じわりと瞳に膜が張ってしまった。
元々精神的に打たれ弱いところはある子だったが、やはり随分と参ってしまっているのだろう。
すぐに同じ場所を撫でて、弟が落ち着くのを待ってやる。
「……いつまでここにいていい?」
「……ほら、もう寝るぞ」
いつまでも。
お前が望むのを止めるまで、そう言ってやれるなら良かったのに。
分かりやすく萎れてしまった弟は離れがたいといわんがごとく、胸元の生地を強く握り締めてきたようだった。
夜中の放浪が随分堪えたのか、ブリタンニアは揺らぐ気持ちを抱えながらも簡単に意識を手放した。
それを認めた後のことをはっきりとは覚えていなかったので、アルバ自身も息を潜める毎日に疲れてしまっている事実を認めざるを得ない。
外敵に備える日々を送る者に相応しく、自分の眠りは一瞬で深く沈む。
有事があれば即座に目覚め、早急に意識レベルを日常へと帰すのだ。
アルバの意識を呼び戻したのは弟の悲鳴だった。
「にいさん、にいさん!」
どうした、と聞き返す前に怯える子供が高い悲鳴を上げて縋り付いてくる。
嫌、と響く悲鳴はまるで陵辱を受ける女のもののようで、あまりの様相にアルバの臓腑が凍りついた。
「やだ、入ってくる! たべられる、やっ……にいさん、アルバ兄さん!」
ただひたすらに名前を呼ぶことでブリタンニアが助けを求めているのが分かる。
大きく見開かれた瞳はこちらを射抜いてはおらず、どこか違う何かを見ているようにも感じられた。
恐怖に硬直する体を抱いてやり、彼が名前を呼ぶ度にこちらも名を呼んでやる。
「ブリタンニア、大丈夫だ。それは――」
「違う、ちがう! そんなのじゃない!」
金切り声を上げて否定する弟の指がシャツを巻き込みながら皮膚を抉った。
胸元に湧き上がる痛みが、精神を蝕んでどこかへ逃げ出したくなる衝動へと駆り立てる。
それでもこの子を置いて、という考えが浮かばなかったのは不幸中の幸いだったといえるだろう。
恐らくブリタンニアに痛みをもたらすであろう位の力を込めて、アルバは彼を抱きとめた。
物理的に身体を苛む感覚に弟が小さく震えて、それから少しずつ緊張が解けていく。
最後にはぐったりとしてしまった彼に少々危惧を覚えたが、とろんとなった瞳を見つけて安堵の息を吐いた。
どうやら睡魔が打ち勝ってしまっただけらしい。
「大丈夫だ、ブリタンニア。今は眠った方がいい」
「や……にいさ」
言葉を掛けられて意識を少しだけはっきりとさせたらしい弟がふるふると頭を振った。
今度は返事をしてやらずに頭を撫でてやれば、掠れた声が漏れ出したのが分かる。
「どうした?」
「……ぎゅってして。痛くてもいいから」
ああ、お安い御用だ、そんなこと。
零れ出す笑みをそのままに抱きしめてやって、諍いから離れてずっとこうしていてやれればと思う。
弟へ視線を向けるとほんの少し寂しそうでいて花びらが綻ぶような笑みを浮かべたものだから、愛おしさに任せて額にキスを落としてやった。
それが本来のブリタンニアを見た最後の瞬間の出来事。
* * * *
それなりに長く生きてきたつもりではいたが、素手で人を殺すのは初めてのことだと気がついた。
動物を殺めるときでさえも某かの道具を用いていたはずだったから、生き物を殺すと言い換えてもいいのかもしれない。
それ以前に、今体の下であがいている者が全うな生き物であるかというと少々疑問を抱くところではあったが。
間違いなく青痣ができてしかるべき力を込めながら、随分反応の少なくなった末の子だったそれを見下ろす。
構わず垂れ流される体液と上げることすら叶わなくなった腕がだらしなくシーツに落ちている。
瞳は焦点を失い、恐怖を表現することもできずにどこか遠くを見ているようだった。
ほんの少しあの子のことを思い出させる視線。
ひくん、と体が震えたのを最後にイングランドの呼気が止まった。
それでも手の平に感じる脈が残る限りは力を緩めてはいけない。
一度この体を殺してしまわねばならないから。
「やっとお前に体が返せる」
あの夜に自分は、正確には世界はブリタンニアを失ったのだ。
夜が明けてからやたらけろっとした顔で起きてきたブリタンニアに安堵したのも束の間、奇妙な感覚を覚えてしまった。
彼が本来持っているはずの魂の色が、綺麗さっぱり抜け落ちてしまっている。
そう気がついた瞬間、弟の悲鳴が鼓膜を震わせるような錯覚に襲われた。
ブリタンニアの土地で争っているのはどこの出自の者達だったか。
一つは古くからそこに住まう者達。そうしてもう一つは。
寄るな、と理性が理解する前に心が叫んでいた。
新たにブリタンニアの土地にやってきた民族はすでに根付いた人々よりもずっと力強い。
退路のない者の勃興は異常ともとれるものだった。
遠くない未来、あそこが新民族の国になると想像するのは決して難しいことではない。
どちらにせよ決着がついてしまえば、ブリタンニアも落ち着くことができたはずなのだ。
置いていかれる悲しみを、空虚を抱え、自分達は生きていくとばかり思っていた。
しかし。しかしそんなものは誰も正しさを保障できない思い込みに過ぎなかったのだ。
それを目の前の存在が自明にしていた。
突然喚いたアルバが理解できなかったのか、ブリタンニア、否、弟であったはずのものが体を震わせた。
それから縋るように伸ばされた手を力の限りでもって振り払う。
どうして、と喉を震わせずに口にする彼に問いかけてやりたい。
どうしてお前は弟を食ったのだと。
ああ、その通り。
ブリタンニアの主張した通りだったのだ。
人口の流入と主権の移行によって衰えた民族の国であった彼は新しい民族の国になるべき者に取って食われてしまった。
その瞬間を自分は理解するどころか、誘いすらしてしまったのだ!
あの願いを漏らした瞬間、あの子は己の末路を悟っていたのだろう。
あんなものしか求めさせてやれなかっただなんて。
あんなことで笑顔を浮かべてしまうような生を歩ませることしかできなかっただなんて。
本来であれば悲しさや憤りに喚き散らして、理解を希求するべきだったのではあるまいか。
信じがたいことに弟はたった一回抱きしめられたくらいで満足してしまったのだ。
己の愚かさと、弟のあまりにも小さな手の平が悔しくてしかたがなかった。
泣き喚きながら、せめて惜しんで押し留めて送ってやりたかった。
あれでは一人寂しく死なせてしまったのとなんら変わりないではないか。
「兄――」
「出て行け! 二度と戻るな!」
その言葉だけは聞きたくなかった。
自らとの関係性を理解しているということはこの化け物はブリタンニアを食って、彼の記憶を自らのものにしていることを証明している。
記憶の保持はすなわち、彼が今後もなんら支障なく生きていけることをも保障しているのだ。
精霊や妖精の類を見、彼を深く知る自分以外、ともすれば彼自身すら気づかぬまま、この化け物はブリタンニアとして生きることを可能にしたのだ。
本当のブリタンニアの死を一人にしか伝えないまま、元凶の化け物は生きながらえるのかもしれない。
小さな子供の体を小屋の外へ押し出して、弟の最後の体温が残る寝間に自らを押し付けた。
すぐにでも混ざり合って消えてしまうであろう温度に神経を尖らせながら、深く深く記憶に、身体に覚えこませる。
皮肉にもいまだ鮮やかに思い出せる数少ない幼い日の記憶の一つ。
今触れている弟の体の温度は記憶よりもほんの少し温く感じる。
「――おやすみ、ブリタンニア」
その囁きに応じるように、指先に嫌というほど伝わっていた振動が途絶える。
ああ、やっとこの瞬間を迎えることができたのだ。
最愛の弟に体を返し、完全な死を迎えさせることができたのだ。
そうして、イングランドは単なる隣国に成り下がる。
近い将来に併合が約束されてしまう瞬間にも、己はこの男を他者として扱うことができるだろう。
最愛の子と同じ顔であからさまに傷ついて見せられたとしても、もう罪悪感らしきものに捕われることはない。
あの子はようやっと死ぬことができたのだから。
どうせ化け物じみた自分達だ、この指を離してしまえばじきに鼓動を取り戻すだろう。
その前に、彼がブリタンニアである内に、最後に落とした口付けと同じ場所へそっと口付ける。