独立後夜



 愛のないセックスはしません。

 そう宣言したのは確かだし、実際ポリシーでもある。
 けれど、今だけは先程の言葉を撤回させていただけないだろうか。それか、


「アーサー、一回でいいから好きって言ってくれない?」


 自分でも情けないと思う声音で囁いてみても、ついさっきまでしゃくりを上げていた彼女はぴくりとも動かなかった。
 彼女はフランシスの情欲などどうでもいいらしく、少し熱っぽくありながらも深い寝息を立て始めている。
 こんな雨降りの夜中に男女が抱き合って何もしないなんて、何かの罰ゲームに違いない。
 そう思わせる程度には彼女は暖かかったし、甘美な柔らかさを持ち備えていたのだ。
 絶望的な気持ちで溜め息を吐き出しながら、アーサーを抱え直して瞼を下ろした。





 土砂降りではないが、風が強いから外に出れば傘があろうがなかろうがびしょ濡れになってしまうだろう。
 だから、彼女がポンチョを被ってやってきたのは正しい判断といえる。


「で、どうしたの」


 扉を開けた途端に雨水でべしょべしょになったアーサーが突撃してきたのを何とかかわしたときから、妙に静かだったのは気になってはいた。
 しかし、これほどに沈黙を守る彼女というのは珍しいを通り過ぎて異様である。
 嫌なものが心中に蟠るのを感じながらも、平静を装って尋ねてみる。


「しよう」

「え」

「え、じゃねえよ。男の部屋に女がいて、やることなんて一つだろ」


 心底真面目な声に、座っているのが三人用のソファだったことを後悔する。
 せめて対面にしていればテーブルという名の障害物が彼女の凶行を阻んでくれただろうに。


「お前ね、お兄さんのことを何だと思ってるの」


 距離を詰める支えにしていたフランシスの膝に置かれた手をそっと覆って退かしながら、アーサーの瞳を覗き込む。
 新緑のそれは普段の感情の波だけでは出るはずもない、一種異様な興奮に輝いていた。


「色魔」

「俺、お前には言われたくなかったな……」


 握られている手を無理やり支点しながら、やはりアーサーが顔を近づけてくるので思わず視線を逸らす。
 ついでに漏らしたのは飲酒後の行動とかの聞こえてくる彼女の話を思うと嘘偽りのない言葉である。


「誰が言おうが色魔は色魔に違いないだろ」

「いや、そうだけどさあ」


 深々と溜め息を吐く際に注意して息を吸ってみたものの、彼女から感じるのは雨の気配だけだった。
 自然と下りた沈黙に焦れたのか、黙って握られていた手を解く。


「ちょ、ちょっとアーサー! 止めろったら!」

「っ、いいから抱けよ!」


 自由になった手で何をするのかと思ったら、自らのシャツのボタンを外しだしたので悲鳴を上げて押し留める。
 本当に何なんだ。
 俺達は喧嘩ばかりしていたはずだろう、と問いただす前にアーサーが甲高く叫んだ。


「あのさあ、俺はただセックスをするんじゃないんだよ」


 小さな子供に言い聞かせる口調で、決して子供には聞かせられないことをアーサーに伝える。
 どこかぎらぎらした瞳が虚を突かれたように瞬きをした。
 服を綺麗に着こなすためにあるようなサイズの胸も短い髪のせいで露わになっているうなじも惹かれないわけではないが、それでも彼女は条件が足りない。


「愛を伝えるんだ。だから、お前とはしない」


 そう、何も間違ってはいない。
 フランシスとアーサーは何度も戦争をして、境界線を書き換えてきた仲だった。
 腐れ縁的な感情はあったとしても、そこに一晩でも囁き合う恋情は存在しないはずなのだ。
 けれど、分かるだろう、と念押しをしても彼女は黙ったまま動かない。


「それにわざわざ俺じゃなくたって、いくらでもいるだろう? 手持ちがなきゃ貸してやるし」


 黙り込むアーサーに堪えかねていつもの調子でちゃかしてみると、奇妙な感情の高ぶりに染まっていた瞳の色が変わった。


「誰が、誰が男なんか買うか!」


 雨の日に相応しくない乾いた音と頬にびりびりと刺激が走る。
 痺れるような痛みが鈍痛に変わる間に、理解できない異物に対する苛立ちが噴出した。


「なら女でも買うんだな!」

「ああ! そっちの方がずっといい!」


 普段からそう荒げないフランシスの声に応じて、アーサーが喚き返しながらソファから立ち上がる。
 本来なら、それを睨みつけるだけで見逃すのが正しいはずだった。


「……放せ」


 ぼろぼろと涙を零しながら言われても、掴んだ腕を放す気にはなれなかった。
 春の嵐のように渦巻く感情が目頭から溢れて、俯く頭の下にあるフランシスの腕に落ちる。
 暖かいような冷たいような感触に、高ぶった感情がすっと引いていった。
 小さなしゃくりが聞こえて、よく泣く子だ、とフランシスは思う。
 けれど、いつもなら癇癪を撒き散らしながら泣くはずなのに、今日は泣き出してからがやたら静かだ。

 黙って腕を引いてやると、素直にアーサーが膝を折ってソファに飛び込む。
 うん、ちょっとずれてるよね、と口には出さず指摘して、背もたれにしがみ付く彼女を抱きすくめる。
 不平の一つも漏らさずにアーサーが体を捻って体勢を正したと思ったら、脇腹辺りに手の平の熱を感じた。
 こちらは全て計算ずくだというのに、なんら意図せずやってのけるのだから空恐ろしい。


「どうしたの? お兄さんに言ってごらん?」


 彼女が多少落ち着くのを待って、顔が押し付けられたシャツが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった頃にそっと語りかけた。
 すん、と一つ鼻を啜る音が聞こえる。


「……男もいないで母親面したところで、所詮は紛い物だとさ」

「あ、あー、なるほどな」


 母親なんて場に相応しくない言葉に面食らったが、すぐさまその罵倒の理由が思い当たった。
 我らが新大陸の子供達のことに違いない。
 こう言うと彼女は怒り出すだろうが、ここは譲れない。


「どこの誰か知らないけど、そんなお前を全然知らない奴に言われたこと気にしてどうするの」


 彼の独立の火種になってしまった自分がいけしゃあしゃあと発言するのが嫌で、即座に話題を誘導する。
 実際彼女に恋人かどうかは別として特定の人間がいるのは珍しいことではなかったし、わざわざ秘密にもされていないはずだ。
 それすら知らない輩の言葉にいちいち傷つく必要などないだろう。


「でも、否定できなかった。そんなに長く誰かと一緒にいたことねえし、いたとしても睦まじくなんて間柄じゃなかった」


 そっか、と相槌を打つと律儀にもそうなんだ、とアーサーが返事をする。


「昔は必要がないからそれでいいと思ってた。だけど、俺は誰一人まともに愛せなかっただけかもしれない」


 だから、とどうにか口にして、湧き上がるしゃくりを殺そうとアーサーはフランシスの胸元に顔を押し付けた。
 続けられなかった意思が手に取るように分かって、フランシスの意識に暗雲が垂れ込める。
 彼女の涙は巡り巡って自分のせいに違いない上、いつぞや評価したように顔は可愛い。
 そういう人がこんなにシリアスな内容で、それも自分が原因で泣いているところを見たくはなかった。


「だから、アルが」

「アーサー」


 喉を震わせながら背中をあやすように叩いてやる。
 聴きたくない言葉を塞ぐためにも、頭を撫でてやりながら胸元に押し付けた。
 しがみ付いてくる彼女をいなしながら、いつもこれくらい素直であってほしいと思う。


「でも、なんで俺だったんだ?」


 すんすんと鼻が鳴らされるのを聞きながら、アーサーの顔を覗き込む。
 布地に擦り付けられていたせいで目元や鼻先が赤く染まっていたけれど、それが彼女の魅力を損なうことはないようだった。


「一番初めにお前が浮かんだから」


 それに、一回したら絆されてくれそうだし、と台無しな補足をされて一瞬盛り上がりかけた気持ちが萎んでいく。


「……俺の胸きゅんを返せ」


 しおしおと彼女の肩口に額を埋めると、少しだけ間があってから何とも柔らかい罵り言葉が落ちてくる。
 まるで睦言のような響きに顔を傾けてアーサーを窺えば、彼女は何だか幸せそうに笑みを零していた。


「何があってもお前はここにいるんだな」


 こてん、と首を倒してアーサーが頬をフランシスにの頬に触れさせてくる。
 こいつは一体全体俺にどうさせるつもりなんだろう。
 どう考えても酔っているようには思えなかったが、感情の起伏が飲酒時のそれと酷似しているのは確かだった。
 まあ、飲酒時とはいってもかなりの初期状態ではあると留意されたい。


「アルフレッドだってそうさ。どこかにいくわけじゃない」

「それは……」


 脇腹の辺りで服が握られるのが分かる。
 髪を撫でるのはそのままに、背中に回した手を腰に移動させて更に抱き寄せた。
 腰に行き着くまでのラインの綺麗さに感心する。
 彼女のパーツの一つ一つは驚嘆するほどに整っていて、紳士の国と自称するだけはあるストイックさを感じた。
 けれどそれでいて、どうしようもなく女性的だ。


「大丈夫。子供はおっ母さんから独立するもんなんだ」


 名前を呼ばれる。
 その揺れる瞳に触れるだけのキスをしてやる。
 震える瞼はその体温を受け入れた。


「お前は立派な母親だよ。だからアルフレッドも大人になったんだ」


 たとえその結末が反発によってだったとしても、そんなことは珍しくも何ともない。
 心もない暴言を吐いた輩は愛しい子を抱きしめたアーサーを見たことがないに違いない。
 あの微笑みを母親以外の誰が浮かべられただろう。


「……ありがとう」


 まれにしか聞けない感謝の言葉に虚を突かれた瞬間、アーサーが体重と勢いを使ってフランシスを押し倒した。
 何をされるのかと身構えたが、まるでお返しとでもいうように鼻先に唇が落ちただけでそのまま肩口に頭が乗せられる。
 非常に彼女らしくない行動に幾分か明日の朝が怖くなる。
 時折口にしている妖精とやらにしてやられたのだろうか、と考えたりもしてみたが、答えは依然彼女しか持ち得ない。

 そのときはまあこれはこれで、とまだ涙の気配が残る呼気を耳に感じながらやはり彼女の頭を撫ぜたのだった。