いつからこの戦いを繰り広げているのかは知らない。
というか、カウントするだに恐ろしいので止めてしまった。
ひたすら働いていればいつか終わりを告げるような気もするのだけれど、後から後から仕事が追加されているのも確かである。
大丈夫、いつか終わる。
そう自分に言い聞かせるのはもう何回目のことだったろうか。
経験上終わらなかったことなどないが、だからといって平気なわけではない。
「おい」
「ああ、そこに置いておいてくれ。できた書類はそっちのケースにいれてあるから――っ!?」
背後から声を掛けられたのは認識していた。
けれど、それがどんな意味内容だったとか、どういう声色をしていたかまでは把握できていなかったのだ。
くたびれた思考回路は勝手にそれを仕事に関わるものだと処理をして、さっさと用を済ませようと指示を飛ばす。
しかし、全ての言葉を喋り終える前にいきなり体が後方に吹っ飛んだ。
椅子の背もたれを引っ張られ、キャスターが耐え切れず後退してしまったらしい。
高価な椅子はもちろん体をも守るため、何とかバランスを取って一息吐いた。
「随分偉くなったらしいな、イングランド」
「あ、あの、えと……」
今まで自分がいたはずの場所に立っていたのは過去に兄として一方的に慕っていた人の姿だった。
今現在も形式上兄と呼んでいるし、心情上でも兄と慕ってはいる。
しかし、彼は自分達を兄弟とは思っていないようであるし、兄として慕うのを止めると宣言して初めて彼を慕う許しを貰った過去があるのだ。
内心で自分がどう思っているかということを分からない彼ではないだろうが、あからさまに表現しないことで見過ごしてもらっているのが現状である。
つまるところ、彼と自分の関係性は他人でしかない。
もう少し細かくいえば、腐れ縁持ちの同僚くらいだろうか。
少なくとも直属の部下でもなんでもない。
だからこそ彼は、現状を把握しない失礼な対応に腹を立てているのだ。
しっかりと非礼を謝らなければならないのに、その言葉が出てこないのは疲れのせいなのだろうか。
頭が真っ白だ。
「やり直しだ」
「……お久しぶりです、兄さん。本日はいかが致しましたか?」
どちらかというとさっさと謝罪してしまいたかったが、彼はそんなものは必要ないらしかった。
なるべく自然になるように挨拶をすると、少し満足したような吐息が聞こえてくる。
どうでもいいことではあるが、彼が兄と呼ばれることを甘んじて受け入れているのは何百年と続いた慣習を崩すことでいらぬ面倒が起きるのを危惧しているからだ。
無理をすることはないと進言したものの、彼は昔からそうだったと切り捨てられた。
彼は兄として呼ばれることを甘受してくれていたのだ。
それに彼からの優しさを感じずにはいられない。
「こっちの仕事が片付いたから駆り出されただけだ」
「え、休んだ方がいいんじゃ……」
中央と地方では仕事の絶対量が違うので、彼の仕事が先に上がっても何ら不思議な話ではない。
けれど、その量が可愛らしいものでないのは確実なのに早速ヘルプに回すなんてあんまりだ。
応援を頼んだのはどこの誰だ。
後で覚えてろ。
舌が空気を鳴らす音が響いて、元々背もたれから離れていた背中がぴんとなる。
こんな姿勢を数日まともに取った覚えがなかったので、緊張に混じって気持ち良さを感じていた。
口答え、と彼が呟いたのが空気を伝ってやってきて、次の反応を神妙に待つ。
「愚図に拍車が掛かってやがる。さっさと寝て来い」
不快感を剥き出しにした言葉に肩を跳ねさせてから、自分の思考回路がいかに役立たずになってしまっているかを悟った。
そもそもヘルプで来るのだから、使い物にならないでは困るのだ。
十分と言い切れるかは怪しいが、丸一日は泥のように眠っている違いない。
渦中の自分が彼に何一つ言えることなどなかったのだ。
「分かった……ごめんなさい。すぐ戻るから」
それでも自分の職場を長時間離れるのには抵抗がある。
デスマーチではありながら自分なりに考えていた進行だってあるし、あまりにも状況が変化していれば復帰に時間が掛かってしまう。
仮眠の効率性を考えてもそう長く眠る必要はないだろう。
「起きてくるな」
うまく働かない頭を思えば随分ましな選択をしたつもりだったのだが、予想に反して彼の眉間には不快感の証が刻まれたままだった。
そうして告げられた言葉は突き放すような響きを帯びながらも、あたかも思いやりを持っているようにも感じられる。
心臓を打った血液が頬に集まり、それから脳を巡って視界に知性が灯ったような気持ちになった。
良くない反応だと思いながらも、押さえることなどできそうにない。
「この愚弟が……勘違いするなよ。俺は他国に手伝いに来てるわけじゃねえんだ。この国は俺の国でもある。国民の願いを無下にできるかよ」
何でもかんでも自分だけのものだと思い込むな。
無遠慮にこちらの額に人差し指を押し付けながら、彼は苦言を吐いてきた。
「分かったならさっさと寝てこい」
「は、い」
額の重さが外されてから、絡まりそうになる舌を必死に動かして立ち上がった。
一体自分がどんな表情をしているか分からないが、彼の苦虫を噛み潰したようなとしか表現できない口元から大体どんな傾向なのかは予想できる。
きっと、だらしのない喜びに満ちたそれなのだろう。
移動するといっても、仮眠室は執務室の隣にある。
防音に優れた部屋の扉を潜って、執務室よりも幾分か温度の低い部屋で立ち尽くした。
すぐに体の力がうまく入らなくなって、凹凸のある扉に背を付けた。
は、と上擦った呼気が肺から湧き上がってくる。
まさか、あの人が。
確かに彼は連合王国の一人だ。
けれど、彼の国はずっとスコットランドというアイデンティティに拘り続けたし、今だって独立を望む声があるくらいだ。
その人々の長である彼が、イングランド出身者を国民だと言ったのだ。
イングランドもまた、自国の範疇であると示したのだ。
ひく、と喉がしゃくりを上げるのが分かった。
吐き出す息が泣き出す瞬間の震えを帯びて、その熱が思考回路をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
嬉しい。
ただその思いが体中を駆け巡って、一周したのを合図にだらしなく開いた口から嗚咽が漏れた。
あの人が。
自分が大切にしたいものを大切にしようとしてくれている。
守ろうとしてくれている。
滂沱と流れる涙をシャツの裾で拭うけれど、止まる兆候も見られなかった。
苦痛からの涙を堪えるのは難しいことではなかったし、何よりも慣れてしまっている。
しかし、幸福感からのそれはどうだ。
耐え難い衝動に生まれてすぐの子供のように泣き喚くことしかできなかった。
「――寝ろと言っただろう」
どれだけ泣いたのかも分からない。
何の前触れもなく扉が開かれて、執務室側に転がり出てしまいそうになった。
謝りたかったのだが、枯れてしまった声と正常な呼吸を妨げる喉の痙攣が意味のある言葉を出すのを妨げる。
叱られた後の子供のように首を縦に振って、彼の意図に反するつもりではなかったのだと伝えた。
「――っ! にいさ」
重たい溜め息にびくりと肩を跳ねさせて瞼を強く瞑ると、突然浮遊感に襲われた。
抱えられたのだと気がついた辺りで、ベッドへやや乱暴に放り投げられる。
舌を噛まない様に口を閉じて、衝撃に備え何とか無事にベッドに収まって緊張が解けた。
その瞬間を狙っていたのか、毛布が無防備な体に被せられて小さく悲鳴を上げてしまった。
それから起き上がろうとする体を頭を押さえることで押し留め、彼は執務室に帰ってしまった。
随分乱暴な寝かしつけ方に何度か涙に彩られた睫毛を上下させる。
嵐のような介入に一度精神がリセットされたのか、いつの間にかしゃくりは遠ざかってしまっていた。
「にいさん」
被せられた毛布が温まり始めるのを感じながら、すでに仕事に戻っているであろう彼を呼ぶ。
当然ながら返事はない。
だからこれ以上は口には出さない。
今はぐっすり寝てしまって、目が覚めたら口にしたくて仕方がないこの言葉を伝えよう。
きっと酷くうざったがられるに違いないだろうけれど、それでも伝えたくて仕方がないのだ。