殺してください、そう乞われた。
回らない口を何とか動かして、不鮮明な言葉を伝えようとする。
まるでそうすることでしか心を明らかになどできないのだというように、彼は震える舌で意思を紡いだ。
「私を、私を殺してください。恋、をしてしまいました。あの方がいなければ、世界に、わたしの日々に何の意味がありますか」
滑り出しの言葉は予想に難くない告白だった。
この屋敷で勤める者達はみんな彼に恋している。
その中で彼に惚れ込んで、一人だけのものにしたいと願う者までいるのだ。
けれどそれは許されない。
許したくない。
世話人の間では度を越した不貞を働いた輩はアメリカに殺されているのだ、と噂されているのは知っている。
事実に蓋をして黙っているのはそうした方が抑止力になるからであって、しおしおとなる彼が見たいからとかそんなことは一切ない。
とはいえ、それなりに痛め付けているのも確かなので、彼の懸念は消えることはないだろう。
彼らの言う不貞の度合いについては多少首を傾げる部分があるが、少なくとも生死に関わることは見過ごすことはできない。
「ころしてください、合衆国」
恋をしてしまった。
アメリカにこの事実を見咎められる前に自ら白状し、恋焦がれる苦しみすらも早々に終わらせてしまいたがる者は少なくない。
長く彼を愛し、今尚焦がれ続けているアメリカにはさっぱり理解できない論法ではあるが。
けれど、どうやら彼は違うらしい。
彼の恐れは叶わぬ恋にあるのではないようだ。
「私は恐ろしいのです。彼がいなくなって閑散とした部屋を見るのが、堪らなく恐ろしい。薔薇の香りも消えてしまった空間に、一人ぽつねんと立ち尽くしてしまうでしょう。それからの私の生活に、人生に、何の意味がありますか。最愛の方を失った隙間を別の何かで埋めたところで隙間風は私の心を常に冷たくさせるでしょう。私の心が二度と踊ることはないでしょう」
一気に饒舌になった彼はしかし、突然息を詰まらせると一度こちらから視線を外した。
不思議に思うか思わないかの間に鼻先に清々しい薔薇の芳香が踊る。
恐らくアメリカが感じるように、この香りは彼にとってもイギリスを象徴するものなのだろう。
再びこちらに視線が向かったときには、ブラウンの瞳に膜が張っていたようだった。
ふう、と小さく溜め息を吐く。
「……これで満足かい?」
予想はしていたが、碌に回避行動を取ろうとしなかった彼に半ば賞賛の念を抱きながら口にする。
拳で人の顔を殴ったのは本当に久しぶりのことだ。
バイソンと遊んでいたらイギリスから凄い顔を頂いた覚えが幼い頃の記憶として残っているが、今なら彼の気持ちが分からないではない。
幼い頃に持っていた怪力は未だに健在で、この屋敷での力仕事担当にされているくらいなのだ。
だから、力をセーブしていたからといって振りかぶって殴ってしまったのだから、その威力は想像するだに恐ろしい。
「――殺してください」
「駄目だよ。君が思う未来なんてこないから、俺は君を殺さない。俺は絶対に彼をイギリスとして返す」
殴りつけられて赤く変色していく頬と共に、じわりと瞳が潤んでいく。
イギリスが彼以外の誰かになってしまう未来など認めるわけにはいかない。
この男の思う未来など、どうして必要とされるだろうか。
アメリカである自分が認めない未来など。
「……信じてもいいですか」
「信じるも何もそれが未来だからね」
やはり縋るように響く声音を受けて、普段通りに聞こえるように努めながら返答する。
呪いをかけるように口にしていれば、次第にそれが真実のように聞こえてくるものだ。
日本はそれを言霊と呼んでいた覚えがあるが、自己暗示の一種に違いない。
みらい、と彼が口にして、じんわりと言葉が体に浸透していくのを待った。
「でしたら、私はあの方が帰る場所にいます」
彼だって好きで悲しい未来をその瞳に映しているのはなかったのだろう。
イギリスの帰るべき場所は山とあるように思えるけれど、彼は既に確たる所を心に決めているようだった。
俯いているばかりだった視線が上げられて、アメリカを射抜く。
その瞳の揺るぎなさと力強さに、彼が平凡な人間ではないことを何となく察した。
彼が一体全体何を望んだか今は分からなくとも、その大望を成し遂げてしまいそうな期待を抱かされてしまう。
踵を返して彼は己の主がいるであろうリビングへと足を進めた。
今のイギリスには見えないけれど、その代わりというように芳醇な芳香に包まれた庭を通る最中に、盛りを少し過ぎてしまった薔薇を二、三摘んだらしかった。
ソファにちんまり座っているイギリスを見つけると、一瞬だけ躊躇うように歩みが弱まった。
それからこくんと頷くように顎を引く。
「ご隠居。申し訳ないですが、お暇をいただきたいと思います」
ソファを小さく叩き、イギリスの注意を誘導する。
手馴れた仕草で彼の髪に花の茎を絡めて、そっと耳元に囁きかける声はどこまでも優しい。
「……どうした? 随分急だな」
「あなたに会いにくるのに疲れてしまったんです」
ぴくんと微かに僅かにイギリスの指先が跳ねる。
けれど、分かりやすい反応はそれだけで、彼は少し溜め込んだ息をゆるゆると吐き出しただけだった。
「そっかあ、ごめんな。色々大変だっただろ」
「ええ、ですから待ってます。あなたのホームでずっと」
声を出す喉が不自然に震えないのか気になったのか、彼はずうっとイギリスの細い首筋を見詰めていた。
耳元で話すときですら、小さな反応を見逃さないように凛とした光を灯す視線がそこここを走る。
「ホーム?」
現在住んでいる建物のことしか思い浮かばなかったのだろう、イギリスが不思議そうに首を傾ける。
意識していなかったのか、囁きかけていた人物を頭と肩で挟んでしまいそうになって少し慌てたようだった。
当の本人は随分と楽しそうだけれど、イギリスにはそれは伝わらない。
「そう、あなたがあのスーツを着て通っていた所で待ってます」
穏やかな笑みを残しながら、彼はゆっくりそう言った。
彼の吐息のような囁きを耳にしたイギリスの手がぴたりと止まる。
挟んでしまったかもしれない髪を気遣おうとした手が一瞬宙を掻いて、音も立てずにシーツへと沈んでいく。
その指先すら、彼は愛おしそうに見詰めるのだ。
その先に、気の遠くなるような未来があるのだと信じて欲しい。
「それではイギリスさん、また会いましょう」
その挨拶に今のイギリスが応えてやることはできなかったけれど。
いつかその日がくることを何よりアメリカが信じている。
ついでに彼が手強いライバルにならないようにと祈ってもいる。
イギリスは何も見えていないし、聞こえてもいない。
けれど、靴音の振動でも察しているのか、それとも部屋の構造を把握しているからか、感情の渦巻く瞳で遠ざかる彼の背中を見詰めていた。
* * *
長々と居座っていることに気づいて我慢ができなくなったのか、夕方頃になってイギリスに呼び止められた。
仕事はちゃんとやってきたのかだとか休みなんだからしっかり休めよだとか、いつも通りの愚痴が続く。
いつも同じことを言って飽きないのだろうかと思わずにはいられないが、文句を言う覇気があるのは大変喜ばしいことだ。
「それで――」
拳を作っていた指を一つずつ解きながらああだこうだと指摘をしていた彼が、急に言葉を失ってしまったように黙り込んだ。
具合でも悪くなったのかと人を呼ぼうとしたが、腰を浮かせたところで腕を掴まれてしまった。
縋るような瞳に見詰められて、そっと腰を下ろす。
「……世話人が一人辞めるんだ。あーあ、セクハラしてこない貴重な人材だったのに」
結構な期間目から情報を得ていないせいか、感情と表情がリンクするなんてことは忘れてしまっているらしい。
まるで明日の天気は雨らしい、散歩をするつもりだったのに残念だ、とでも言うような雰囲気で口にしているのに、彼の本心は全て表情に表れていたといっていい。
寄る辺のなさそうな、歯痒そうな面持ちにそうしたところでどうにもならないと分かっていても抱きしめてやりたくなる。
「俺が飯食っててもっと楽しいように、ソムリエみたいにあれこれ説明してくれてさ。どんどん上手くなって……」
イギリスの言葉にその光景がありありと思い出さされた。
彼がカレーを目前にしながら静かに待っているのは彼の前だけだったと思う。
今日の肉はどんなのだとか、スパイスの種類による色の差だとかを話す彼にイギリスが早く食わせろなんて口にすることは一度もなかった。
まてを命じられた犬の如くそわそわとしながらも、もう夕食を口にしてしまったような顔でいる彼を見るのはアメリカを随分穏やかな気持ちにさせた。
恐らく、他の世話人にとっても同じだったであろう。
「寂しいね」
相槌でもあったし、忌憚のない気持ちでもあった。
その言葉はイギリスの心にすとんと落ちて行ったらしく、言葉が深い場所に転がり込むにつれて表情が欠落する。
彼が感情を爆発させる前の準備運動のようなもので、何を言われてもそれなりの反応ができるように身構える。
「……ああ、そうだな。寂しい」
ぽつりとイギリスが言葉を転がして、瞼の縁から涙が滑り落ちる。
それはとても密かで、それでも春の嵐のような感情の高まりだった。
自らの体の変化に消えたくないと泣き喚くときとは少し違う気がして、戦慄く唇を注視する。
「あいつ、政府で勤めたいって言ってた。俺じゃあ無理だから、お前口添えぞえしておいてくれ」
試験も面接も執念で合格してしまいそうな予感があるのだけれど、部署だけは作為的な働きがなければいけないだろう。
今は彼の兄が国の仕事の一部を代行してくれているようだから、本来イギリスが勤めるべき場所はまだ現存している。
彼はそこに帰りたいと思っているのだろうか。
もしもそうならそれだけで嬉しい。
「入れれば凄く働く奴だから出世する。絶対、絶対だ」
「うん、俺もそうなったときには会いに行きたいな」
正面から首を伸ばして耳元で囁いてやれば、目の前にいることに気づいたのかイギリスがアメリカの肩に額を付けてきた。
いつもは布団や毛布に包まれて温かな体は、長い間起きていたせいで少し冷たいと感じるくらいだ。
けれど、唯一触れる額は彼の高ぶりを示すが如く熱を孕んでいて。
「また会いましょうって。俺、返事できなかったけど、でも、約束したんだ……あいつに、会いに」
戻りたい、と何とか口にして、イギリスが堪らず嗚咽を上げる。
帰りたいと思ってくれた事実に、アメリカまで涙の熱源が目許に集まってきそうだった。
抱きしめてやりたいから抱きしめたいに気持ちが変わってしまうと、途端に衝動を押し留める手立てがなくなってしまう。
彼の体に負担をかけないように気をつけながらも、目一杯細い体に密着する。
イギリスは少し背筋を緊張させたけれど、すぐに体の力を抜いてアメリカに全身を預けたようだった。
わっと彼が泣き出して、泣きたい気持ちに引っ張られそうになるのを何とか堪える。
リズムを取ってイギリスをあやしながら、もうここには帰らないだろう人のことを思い出す。
彼を筆頭とする世話人達は例外なくこの人の国民だ。
国民であるというだけで無条件で愛おしく、愛すべき者であるというのに、特別に縁を持てば尚更その思いは深まるだろう。
彼にとってイギリスがいない世界は絶望そのものだった。
つまるところ、イギリスは彼にとって希望そのものなのだ。
この屋敷の誰もが彼を何かしらの形で愛している。
そうして、イギリスもまたこの屋敷の全てを慈しんで愛している。
ねえ、君は、君達は気づいているだろうか。
ともすれば暗雲垂れ込め陰鬱な日々を無為に過ごすはずだった彼が、会いたい人がいると泣いている。
明日を、未来を望ませている一つに君達がいることに、君達は気づいているだろうか。
君という存在が君の希望にとっての希望なのだ。
そう、気づいてほしかった。