あなたを痴漢したい



 毎日彼がこの電車を使うというわけではない。
 水曜日と金曜日のラッシュの時間帯にいつも決まった時間、乗る車両を変えながら乗っている。
 水曜日に一番前の車両に乗ったら金曜日は二車両目、といった具合に明確なルールを持って律儀に実行しているらしい。
 目の前の席が空いたとしても絶対に座ろうとしない彼はいつも伝統的スタイルを踏襲したスーツをきっちりと着こなして、どこまでもストイックに見えた。
 近くに立ったときは嫌味ったらしくない薔薇の香りが鼻を擽って、彼の瞳の色が美しい緑である意味を自明にする。
 緑の瞳は美しいその葉を、金の髪は幾重にも重なる花びらを表しているに違いない。
 彼は薔薇そのものなのだ。

 ああ、我が愛しのシャルロット!

 君はきっと社会的地位の高い人間だろう。
 そうでなければ、あの気品を生み出すことはできない。
 君はきっと恋人もしくは配偶者を有しているのだろう。
 そうでなければ、愛おしげに携帯電話を見詰めることなどできない。
 自分などに入り込む余地はない。
 いいや、そもそも入り込む必要などない。
 己が彼のような上等な生き物に認識される必要などどこにもないのだ。
 ただそこにいるだけで、味わったことのないような充足を感じていた。
 そう、あの日までは。




 定員を優に倍ほどオーバーしていそうな電車にぎゅうぎゅう人が乗り込んできて、堪らず溜め息を吐く。
 何種類も入り混じった香水の匂いにくらくらしてきたが、倒れられるほどの隙間もない。
 恐らくここで全身を脱力させても真っ直ぐ立っていられるのが簡単に分かるくらいには車内は人口密度が高かった。
 それでも今日は金曜日なのだから、この駅では彼が乗り込んでくる。
 そう思えば、気分の悪さも吹き飛ぼうというものだ。
 車両の特定は簡単だが、彼がどの乗り口から乗ってくるかまでは分からない。
 乗り込める場所は三箇所しかないのだから、どこかの入口に立っていれば近いポジションを取るのは難しいことではないのだが。
 そこからいつも彼を見詰めている。

 落ちた速度に堪えられず、たたらを踏んだ女性に足を踏まれる。
 反射的に謝ってきたちんまりした女性は、言動に相応しくそれなりの教育を受けてきたのだろう。
 彼に会うまでならば今日はいい日だなあなんて思っていただけなのだけれど、今は幸先がいいなあと思ってしまう。
 こういうことがあった日は不思議と彼の近くを陣取れることが多いのだ。
 女性に小さく会釈をして、すぐに視線を扉に向けた。
 乗り換えのある駅なので自然人の入れ替わりが多くなるため、完全に電車が止まるまでに人々が動くのが分かる。
 その流れに従って、入り口付近に移動しながら扉が開くのを待った。
 アナウンスと共に扉が開くと、車内の湿った空気を孕みながら人が波のように外に流れ出ていく。
 出入り口の脇を上手く陣取って、彼の姿を探した。

 次の瞬間目の前に彼の姿を認め、ひゅ、と息を飲む。
 誰かに鞄を引っ掛けられて、後方に傾いでしまったせいでつり革の並ぶ列に体が移動してしまった。
 乗り込む順番の具合で彼がその位置に納まって、ある種の人気スポットを奪ってしまった罪悪感か気遣わしげな視線が向けられる。

 彼が自分のために心を動かしているだなんて。
 間近で彼が見られただけでも素晴らしい出来事だというのに、こんなことがあっていいのだろうか。
 暴れる心臓が顔にまで出てしまわないことを祈りながら、人受けのいいような笑顔を作って見せた。
 それを受けてほんの少し後ろめたさを抱えたまま浮かべる彼の微笑みときたら!

 今日は何と良き日だろうか。
 彼が目の前にいるのだから、じろじろと背中を見詰めても何の不自然もないのだ。
 パットで張った肩とは対照的に、絞り込まれたウエストのギャップが美しい。
 ぴったりとしたタイトなシルエットが彼の生来持ち合わせているのであろう細身を強調していて、感嘆の溜め息を吐きそうになった。
 かっちりとした印象を受けるが、同時に決して着心地が悪いようにも思えない。
 選ばれた人のみが着ることを許される仕立ての良さが見受けられた。
 胸ポケットから携帯電話を取り出してメールかニュースをチェックしている姿には何の欠点も窺えず、正しく英国紳士に相応しい人間としか評しようがない。
 彼がストイックに見受けられるのは、恐らくアッシュブロンドを無造作に放置しているからだろう。
 ぱさぱさのそれをオールバックにしていたならば、その場の大半が当てられてしまうような色気を放つはずだった。
 その背中から首筋、髪の流れに見とれている内に電車が次の駅に停車するために速度を落とす。
 無事に落ち着けるスペースを得ていた彼は気が緩んでいたのか、慣性の法則の影響に耐え切れず体を傾がせた。

 あ、と声が出なかったのは息を吸っていたタイミングにそれを視界に納めたからだったと思う。
 彼の手元、すなわち携帯電話の画面に釘付けになってしまった。
 プラチナブロンドの長い髪を前に垂らして、自らの裸体を隠しながらも、挑発的な視線を向けてくる女性。
 彼が姿勢を正すまでのたった一瞬の出来事であったに関わらず、鮮明に焼きついてしまって離れない。
 サイトの広告かとも思ったが、あんな過激な画像が広告に起用できるようなところが健全なニュースサイトであるはずがない。
 それに、液晶画面の中央に表示されていてはそもそも広告とは考え難かった。
 もう一度確認したかったが、背後から彼の手元を覗き込むわけにはいかない。
 携帯電話の画面を覗き見られたとは夢にも思っていないらしく、彼は熱心に画面を見詰めていた。
 いつものあの澄ました顔で。

 その視線に心のどこかが急速に冷えていくのを感じた。
 薔薇の名で呼んだ美しい人が、公共の場で淫猥な画像を見るような人間だったことに怒りのようなものを覚える。
 これは公共の平和に反する行為である。
 そんな下品な人間をずっと神聖視し、彼に対してマナーを守ったり気遣いをしたりしていただなんて。
 この男にそんな高級な善意を受ける価値が一体全体存在するというのだろうか。

 熱烈な欲求が吹き上がってくるのを感じる。
 この表情を崩して、あるべきものに戻してやりたい。
 実のところ、彼もそれを望んでいるのではないだろうか。
 本性を暴かれる欲求がなければ、息が詰まりそうな満員電車の中で見咎められれば社会的地位が危うくなるような行為はできないだろう。
 自覚こそしてはいないだろうが、心の底の欲求が彼を駆り立てているのだ。

 そっと彼の首筋を見るがもちろん赤い痣は付いていなかったが、ぴんとアイロンが掛けられたカッターシャツを捲ればどうなっているかなどわかったものではない。
 電車のドアが開いて人が出入りするせいで体を座席側に寄せる際の体の動きは、真実を知った今でも美しかった。
 しかし、逸らせた背はどこか情事を思わせる曲線を描いているようにも思える。
 自分も人に流されないようにつり革を握り直して、やっと手の平に汗が滲んでいるのに気がついた。
 再び電車が動き出してから、首筋からスーツの上からではやっと分かるような肩甲骨とそれとは相反して綺麗に浮かび上がる腰のラインへ視線を滑らせる。
 きゅっと締まった臀部を見詰めた後、タイトなスタイルにも関わらずぴっちりとした印象を抱かせないくらいに細い足を注視した。
 彼はこの痩せぎすで繊細でありながらも、美しい体を不特定多数の人物に見せ付けているのだろうか。
 不埒な行動を取る彼が、たった一人のステディで満足するとは思えない。
 それは女だけに止まるだろうか。
 少年めいたその肢体を気に入る男も多いだろう。
 飲み込み方を忘れた唾液を無様に喉を動かして食道に流し込む。

 列車が大きなカーブに行き着いて、彼が数インチ分だけ足の幅を広げて凌いだ。
 わざわざ足を元の位置に戻すまでもないと判断したらしく、太股同士の間に隙間が生まれた。
 するすると生地が擦れ合い、時折片方が引っ張られたせいで、本来の足のラインが浮かび上がる。
 その生々しい線を見て、何の感動も覚えない人間が一体どれだけいるというのか。
 もはや、自らの衝動を抑えることなどできなかった。
 端正な顔の裏にある、淫らな精神を浮き彫りにしたい。
 彼の本当の姿を、自らの手で。

 始めはゆっくりとズボンの生地に触れるかどうかの場所に手を置いた。
 微弱な振動によって時折生地を指の形にへこませるたびに、誰かが視線を向けているのではないかと気が気ではない。
 それでも列車が揺らぐのに合わせて手を動かせば時折彼の内股に触れる。
 布越しであるのに無駄なものが一切付いていないのが分かってしまったら、もう人の視線など気にならなくなってしまった。
 次第に無遠慮に手の平を当てていくと共に、彼の様子を窺う。
 肩からは異変は感じられないが、先程まで動いていた指先が一切の運動を止めている。
 恐らく視線も一点を見詰めたままだろう。
 足の間に手を差し入れれば、思いの外柔らかな感触が迎え入れてくれた。
 さすがに彼の体が跳ねて足を締められかかったが、他人の手に股を擦り付ける行為になると気づいたのかすぐに力は緩んだ。
 抵抗のなくなった柔らかなそこを撫で回しながら、スーツの生地の下にある化繊のすべらかさを楽しむ。
 直接触れる肌のそれとはきっと雲泥の差があるだろうが、それでも上がる息を必死に抑えなければならないくらいに興奮している。
 後を確認する余裕もない彼はいつしかぐっと頭を下げていた。
 平静とはかけ離れた表情を隠すためであろうと憶測した瞬間、腰が覿面に重たくなる。

 ずっと遠くにいた薔薇が、自分の愛撫によって反応しているのだ。
 こんなことがあっていいのだろうか。
 今、この人は自分の手の中にあって、一挙一動に翻弄される立場になってしまった。
 試しに撫でる動作から軽くではあるが握る動きに変えてやると、びくりと内股が震えた。
 ふにふにと揉み解せば、乗り降り口の棒を掴む手が握り直される。
 その仕草に首筋がちりちりしてきて、自身が望むままに太股の上の方にまで指先を伸ばす。
 足の付け根辺りを擦って太股とは明らかに異なる体温の高さを味わうと、一瞬だけ彼の首筋に顔を寄せて彼の体臭を吸った。
 さっぱりとした薔薇の香水の中に、品の良い紅茶の香りが鼻腔を満たして堪らない気持ちになる。

 電車が速度を落として、指がぐっと彼の足の付け根にめり込む。
 それからあの独特なアナウンスが彼がいつも下車する駅の名前を告げた。
 沢山の人が乗り降りする駅だから、そわそわした気配が途端に車内を支配し出す。
 手を離して彼に余裕を与えてしまっては、降り際に振り向いて確認されてしまうかもしれない。
 それでなくとも、どの位置の誰がやっていて、それが恐らく場所を譲ってきた男だとくらいは理解しているだろう。
 完全に個人特定をされるわけにはいかないので、足の付け根から太股を撫で上げる愛撫を続けた。
 彼が顔を上げて、扉を見詰めているのが分かる。

 扉が開いて、彼の緊張は一気に解けたようだった。
 人の流れを注視しながら、いち早く入り込める隙を探しているらしい。
 その様子を注意深く窺って、彼が足を踏み出した瞬間に一気に手を上げてやった。
 熱を持った局部を撫でられて、ん、と喉が鳴るのが確かに聞こえる。
 そうして一つの核心を持つ。

 やはり彼は公共の場で愛撫を施されて、性的興奮を覚えるような人間なのだ。
 もしかしたら、ずっと誰かを探していたのかもしれない。
 そうでなければ、どうして電車内なんかで性的コンテンツを見ていたというのか。
 人並みに乗って遠ざかっていく背中をうっそりと眺める。

 ああ、きっと、きっとそうだ。




 僕のシャルロット。
 今日、僕は初めて君を理解した。
 今までずっと可哀想なことをしてしまったね。
 愚かな僕をどうか許してほしい。
 これからは君の望むことを沢山してあげるから、楽しみにしていてくれないか。

 また、君に触れられる日が僕も楽しみで堪らないんだ。