イングランドが毎年この時期になるとフェーリアの生地を送ってくる。
何かしら発端があったはずだったが、今では綺麗さっぱり忘れてしまった。
それでも、毎年欠かさず丁寧な作りのタータンだけが届くので、その生地に相応しいフェーリアを作るように手配をする。
一年ごとに増えていってももはや四六時中着る機会がある物でもないので、どこぞに寄贈してしまうことも多い。
けれど、この前派手に染みを作ってしまってそのまま新調していなかったこともあり、今年の分は自分用に仕立てるのが自然な流れだった。
何年か十何年かに一度こんなことがあるのだが、その度に腹が立ってしまう。
人間ではないのだから、早々急激に体型が変わることなどないだろうに、毎度きっかりワンサイズ大きく長さを取った生地を送ってくるのだ。
そういういらぬ気遣いが取り入ろうとしているわけではなく性分だと分かってはいるものの、気に触って仕方がない。
彼の土地まで出掛けたついでに頬の一つでも張り倒してやろうと思って自宅に顔を出したが、呼び鈴を鳴らしても音沙汰がなかった。
イングランドの部下が有給を取って薔薇を弄っていると言っていたから、庭まで音が届いていないのかもしれない。
外から全体を見渡せない程度にはこの家の庭は広い。ああ面倒だ。
とりあえず見つけ出したらそれ相応の報いは受けてもらおう。
舌打ちをするかしないかのタイミングで、イングランドの代わりに随分可愛らしい住人が出迎えてくれた。
羽を使う様子もなくふわふわ宙に浮くカーシーを撫でてやると、ねだるように手の平に頭を押し付けてくる。
郊外で人気は少ないとはいえ、さすがに見えないものを撫で続けるには具合が悪かったので門を開けて庭に入り込む。
そうすると自らの役目を思い出したらしいカーシーが手から離れてスコットランドを先導した。
これがイングランドの指示であるのなら、一度殴打を追加するくらいでは済ませられない。
スコットランドからすれば遺憾でならないが、自分が無条件で兄として慕っていた相手を蔑ろにしていいはずがない。
というよりそもそも、世間一般的には見えないはずの者を使いに出すとはどういう了見だ。
この家に訪ねてくるのは偵察しなければならないような客ばかりなのだろうか。
導きに従い歩いて行けば、普段の多忙が信じられないくらい見事に咲き誇る薔薇に出迎えられえる。
素人目でも素晴らしい技術であるのは見て取れた。
いっそのこと国政の手伝いなど止めてしまって、薔薇の世話を本職にした方が世のためになるのではないかと思うくらいだ。
フランス式に対抗して自然であること意識した作りでありながら、見目はもちろん匂いすら混ざり合わないように細心の注意が払われた空間を進めば人よりいくらか背の高い木に行き当たった。
サクラ辺りも薔薇に関係した植物らしいから、恐らくこの木も薔薇に属するのだろう。
それから視線を下げていくと、日陰で少し色濃くなった乾いた金の髪に行き当たった。
気配も潜めずがさがさと青々とした芝生を踏み潰しながら進んだが、イングランドが起きる様子は全くない。
真横まで近寄って見下ろしたが、こちらまで甘い眠気を誘われそうな鼻にかかった寝息が聞こえる以外に変化はなかった。
元々幼い顔立ちをしていた覚えがあったが、深く寝入ったときの表情はハイティーンだと言っても納得されそうなくらいに幼く写った。
風に髪が揺らいで頬に触れたせいか、眠り子が少しむずがる。
しかし、浮かび上がりかけた意識は再度ころりと眠りの淵に落ち込んでしまったらしい。
ふるふると顔を揺らして髪を払い落としたのを最後に柔らかな寝息が響き出す。
その寝顔に思考がざわついた。
ちりちりと軽いが確実に爪を立てられているような感覚が眉間に力を入れさせる。
いらいらする。
理由は単純明快だった。
この幼い表情に、幼い頃の彼を思い出さされたのだ。
同じ島に生まれたというだけで人を兄と慕い、共に生きることを望んだイングランド。
自分達は基本的に家族を持たない。
親密な間柄の相手ができたとしても、五十年もすればいなくなってしまう方が多い。あの頃はもっと短かった。
昨日まで健常で、狩に行っていた者が次の日には冷たくなっていることも珍しいことではなかったのだ。
そうして、あまりに人を見送ることが多すぎたし、それからの時間もあまりに長かった。
同じ時間を過ごすことはできても、同じように歩むことは叶わない。
家族の営みを傍から眺めながら、一度も羨む機会がなかったといえば嘘になる。
けれど同時に、本当の家族を得ることなどないと痛いほど知っていたのだ。
アイルランドやカムリも同じケルトの民の国だったとはいえ、それ以上の関係にはなりえなかった。
兄弟と呼ばれることに違和感はないが、やはり国民の作り上げる家族にはなりえない。
それなのに、イングランドはその家族を求めて止まなかった。
民族も言語も異なる彼は同じ島で見つけた国を兄と慕った。
恐ろしかった。
危害を与える相手にそれでも縋り付こうとする両の手を振り払う目に恐怖が浮かんでいなかっただろうかと、今でも危ぶむときがある。
今ならばそれ程痛手になることでもないが、当時は自分よりもずっと格下の存在を怖れていただなんて誰にも気づかれたくなかったのだ。
当時の自分達は虐待をする親と子の関係に似ているようにも感じるが、事実そうなのだろう。
父親と思うよりも兄と捉えた方がずっと自然な年齢だったし、髪や目の色だった。
けれど、彼は間違いなくスコットランドに何かしらの庇護と愛情を求めていたのだ。
そう気づいたのは確か、イングランドにスコットランドが吸収されてしまったときだった。
決して触れてはいけない領域を陵辱してしまった罪の意識とそれでもスコットランドが強大な存在であることを望み続ける瞳の色に怖気が走った。
どうしてこの少年はこんなにも盲目的になれるのか。
今でも理解はしきれないが、その直向さが彼を高みに上らせたのは確かだろう。
それから一応の和解を見るまでは、彼が随分入れ込んでいた"弟"が長い時間をかけて親離れをしてからいくらか経つまで待たなければならなかった。
会議の後に声を掛けてきた彼は終戦直後の憔悴はそれなりに影を潜め、代わりに何かしらの確信を抱いているように映った。
それが何かなど知りようがなかったが、以前の瞳よりもずっとましだったから椅子に腰を降ろしてやった。
すまない、とイングランドの謝罪が響く。
俺はあなたにああやって接するべきではなかったのだ。
そう、確かに彼は口にした。
あなたを兄として扱うべきではなかった。
天地がひっくり返るような出来事だったから、声の調子からそのときの明かりの入り具合まで鮮明に覚えている。
遂に頭がおかしくなったのかと思った。
むしろ以前までの対応が異常だったのだが、それでも生まれてこの方盲目的なのが彼の標準だったから仕方がない。
その彼に極々全うな思考回路を作動させるほどにあの戦争は衝撃的だったのだ。
だとすれば、この殊勝な態度も単なる打算なのだと結論付けることもできる。
「イングランド、お前を弟だと思ったことは一度もなかった」
今現在腹立たしいくらい穏やかに眠る彼に、当時告げた言葉をそっくりそのまま落とす。
たとえいまだに血縁者だと思っていたとしても、それがまざまざと見せ付けられないのならそれで良かった。
そう思ったし、それからの彼の態度も概ね満足がいくものだった。
今回のようないらぬ気配りから派生する苛立ちだけは数えられないような有様だったのは除外しての話だが。
とはいえ、それが二人を血縁関係と見ていることが起因になっているわけではないから根に持つつもりはない。
では今は、と思考の束のどこかから問いかけが響く。
今、もはや兄弟でない彼に何という名前をつけて、戸棚にしまい込んでいるのか。
いいや、状況から兄弟と名付けてはいたものの、そもそも彼は一体己にとって何でありえたのか。
レッテルを付けられないまま、外界の彼と等しく己の中の彼もまた精神のそこここで眠りに就いている。
フェーリアの件を約束した覚えがないのは、恐らくアルコールが起因しているはずだった。
彼の酔いっぷりを思えば随分可愛らしい方だが、それでも酔いが深過ぎるとスコットランドとて記憶が飛ぶことがある。
酔いの具体例を上げるなら、どちらかというと口数が多くなり、普段なら如実に苛立ちそうなことも聞き流すに留めるらしい。
ふんふんと興味のない話に相槌を打っている内に、どうせフェーリアを送るとかどうとかということになったのだろう。
つまり、正体をなくす程度には深酒ができる関係であるはずなのだ。
だというのに、決してイングランドとの関係にインデックスを付けて管理する気持ちになれないままでいる。
自分達の関係を言い表す言葉は両手に余るくらいにはあるだろう。
けれど、その全てを否定するほどの嫌悪感も受容するほどの確信も持ち合わせてはいないのだ。
自分にとってお前は何だ、と彼に問えば酷く奇妙な顔で彼は笑うだろう。
そうして、不自然な沈黙を保ってから友人だと思ってほしいとその下手糞な笑みを深めるのだ。
しかし、過去から引き摺り続ける望みを捨てきれないまま自分を言い聞かせようとするイングランドを理由にスコットランドの中で分類を怠るのはあまりにも動機が弱い。
理解はしている。ただ、しているだけにすぎないが。
大仰に溜め息を吐く。
それから妖精から水場を聞き出して、丁寧に敷き詰められた砂利の上をほとんど無意識で密やかに歩いた。
そよぐ木々の気配と共に、青臭い匂いが鼻を突く。
どうやら剪定をした後らしい。
水場に辿り着いてからタータン地の端切れを引っ張り出して、水に浸してぐっしょりと濡らす。
長年の習慣というか条件反射から絞ってしまいそうになったが、何とか本来の目的を思い出してじだじだに濡れた生地を椀形にした手に乗せる。
それでもぼたぼたと水が落ちていって細かな石を色濃く染めていくが、何の悪影響があるわけでもないしむしろ水が零れるだけもったいない気持ちの方が先立った。
それ程時間が経っていないから当然ではあるが、木陰を去る前と彼の様子が変わったところは見受けられない。
ただ、妖精だけはこちらの様子を見て怪訝な表情で小首を傾げていた。
先程に来たときよりも真剣に気配を殺してイングランドに近づく。
彼を跨いで膝を突いた瞬間にむずかるように自己主張の激しい眉に力が籠もったが、この至近距離ではもう手遅れだ。
ぺしゃりと濡れた端切れを顔に乗せた途端、悲鳴とも呻き声とも取れるような声が上がる。
顔にへばりついて呼吸を妨げる異物を除去しようと動く両手を握って地に縫い付けると、パニックに拍車がかかったらしい。
何かを喚きながらむちゃくちゃに暴れようとするが、効率的な采配も考えられていない力に負けるはずがない。
赤子の手を捻るとまではいかないが、鼻歌の一つくらいは歌えそうだ。
ここでヒントを与えてしまうとつまらないので、実際は息すら潜めるように努めていたが。
大きく口を開けてひゅっと息を吸い込んでも満足な結果は得られず、その絶望からか急に抵抗が治まった。
混乱の後にやってくるだろう大いなる恐怖にイングランドが支配される前に、彼の自由を奪う腕を緩めてやる。
多分昔の自分なら彼の両の手がぶるぶると震える様をあざ笑っていたことだろう。
随分丸くなったというべきか。
「――は……なかなかのご挨拶ですね、お兄様」
「まだ元気そうだな」
「いいえ、お腹一杯ですとも……!」
聞き手で端切れをもぎ取って深呼吸をする間に、ぼんやりした頭で色々と考えていたのだろう。
返ってきたのは彼にしては随分率直な非難だった。
しかし、生意気には違いなかったのでまだ実用に堪えうるだろう端切れをイングランドの顔に近づけると、悲鳴が上がる。
「まあ、遠慮するなよ。そもそもお前のなんだから」
ぐぐぐ、と効果音が付きそうな拮抗状態から営業用の笑みを浮かべてやると、一瞬虚を突かれた表情をしてからイングランドが端切れに注視した。
それから、呆れたような心底安心したような響きの混じる溜め息が口元から漏れる。
「クーリングオフは製品が原型を留めている状態でしか受け付けられませんが。できれば包装もそのままで」
「なら、プレゼントだとでも思っとけ」
生意気にあれこれ言ってくる彼に手首のスナップを使って布を投げつけると、首筋辺りにべちゃりと音を立てて落下した。
急所への刺激に一瞬体に緊張が走ったようだが、原因は頗る平和な物体だったからか表情もすぐに緩む。
それどころか、何となく嬉しそうに見えるくらいだ。多分、プレゼント辺りに反応してしまっているのだろう。
わあ、気色が悪い、とは思わなくもないが、それほど深刻な不快感と共にその感想を抱かなくなってきているのが空恐ろしい。
「じゃあパッチワークに使って、ティディベア作って大切にしますね。そういうのお嫌いでしょう」
「……今のは結構気持ち悪かったな」
自分が着ている服と同じ生地を使った熊の人形を愛でている彼の姿を想像して、その絵面が受け入れなくて声のトーンが低くなる。
ティディベアを愛でて許されるのは女性でも限られた年代に限られはずだ。
売り言葉に買い言葉の延長線上とはいえ、普段の趣味を考えればベッドで人形を抱き枕にしていたとしても違和感だけはない。
思わず地に突いている膝を立てて、少女趣味が炸裂するイングランドから離れる。
本格的に嫌がられたのが分かったのか、少し悲しそうに表情を曇らせた。
その理由が自分に否定されたからなのか、趣味そのものに嫌悪感を抱かれたからなのかまでは読み取れない。
「じゃあ、今度からはぴったり二着分送りますから、二着作るなりなんなりと」
邪魔する者がなくなったので立ち上がって、イングランドが伸びをしながら告げる。
ついでに欠伸に誘われて涙が少し。
その逆なのかもしれないが、わざわざ突っついてやるのも面倒だ。
「一着分にする気はないのか?」
「だったら、毎年事前に採寸してデーターくださぁあああ!?」
あんまりにも暴力を加えなかったせいか調子に乗り始めたイングランドの腰付近を踏み潰すように蹴ってやる。
自分を取り繕うのに精一杯だったせいかほぼ無抵抗に蹴られたイングランドが盛大によろける。
そのまま崩れ落ちて蹴られた辺りを擦りながら恨みがましく見てくるが、今回は調子に乗った彼が悪い。
「紅茶」
は、と吐息とも疑問符とも取れない音がイングランドの口から漏れる。
紅茶といったら彼の数少ない誇れるものだというのに、自らその誇りを捨てようというのか。
「この家は客人のもてなしもできないのか?」
「……客人?」
「そうか、ただのマゾか」
この期に及んで生意気を言ってくる彼に唾を吐きかけてやろうかと思ったが、マゾヒストだったらむしろ喜びそうだから止めておいた。
少し頬を紅潮させて反論してくる彼を見て、本当にそうだったら本気で殺しにかかっていたと確信する。
一通り喚いたのを聞き流してから、彼の膝に足を乗せればスイッチが切れたかのように静かになった。
「紅茶、入れます」
「よろしい」
膝から足を離せば弾けたようにイングランドが立ち上がって家に向かって走り出した。
その背中を見ながら、自分の膝についていた土を叩いて落とす。
客人を庭に放置するとは何事か。
後でまたぶん殴ってやろうと心に決めて、彼が走って行った方角に足を向ける。
縋るような、人の機嫌を取るようないやらしい瞳はついぞ見ない。
代わりに、挑発をしてくるようになった。
これは本当につい最近、ようやっと彼ができるようになったことだ。
お前は俺にとってどのような友人になりえるか、と問えば、もしかしたら彼は答えられないかもしれない。
それほどイングランドの望みは曖昧だ。
ならば、彼の望む振る舞いができるまで自分達の関係に名前など付ける必要などないのではなかろうか。
だからまだ、この曖昧な関係がきっと心地良い程度には丁度いいのだろう。