若者、しくじる。



 ボトルグリーンのスーツに低めのヒール。
 貧相とはよく言われるが、均等の取れた足のラインが膝上丈のスカートからすっと伸びている。
 ぱさぱさした髪は普段よりも随分丁寧にまとめられているし、化粧も手間隙かけられているのが見て取れた。
 いつもながら好みの顔なのだけれど、一層綺麗な仕上がりに惚れ惚れする。
 可愛い。中身があれじゃなければ、万策でもって籠絡して見せるのに。
 こつこつと廊下に響くストイックな靴音を聞きながら、心底残念がってみる。


「帰りにデートの予定でもあるの?」


 比較的会議の打ち合わせで初めて顔を合わせる者が多い場に向かっているとはいえ、気負いすぎではなかろうか。
 尋ねれば反射的にふるふると首を振って、それからフランシスの意図するところが読めなかったらしくきょとんとされる。
 追加で身だしなみの気合の入れようについて問いただそうする前に合点が言ったらしくああ、と声を漏らした。


「その、ええと」

「いや、言いたくなかったらいいからね?」


 もごもごと言葉を濁す彼女に思わず苦笑しながら、アーサーを焚き付ける言葉を選ぶ。
 字義通りに言葉の意味を取ろうとしないのは、常日頃からの言動の一環なのだろうか。
 途端にきゅ、と唇が引き絞られて、闘争心に似た決意が瞳に灯る。


「……あれから、アルフレッドとまともに顔を合わせるの、今日が初めてなんだ」

「あー、お兄さん帰って良い?」


 それでも視線を逸らされながらの告白があまりにもヘヴィなものだったので、同じく視線を明後日の方向に向けてしまう。
 彼女の言うあれとは例の独立戦争のことだろう。
 馬鹿みたいに時間をかけ、二つの国を巻き込んで起こした離別の果ての邂逅に立ち会うだなんて、そんなまさか。


「ふ、不安なんだよ!」

「そんなの俺だって怖いよ!」


 袖を引かれて、酷く可愛らしいお言葉をいただくが、今回ばかりは勘弁して欲しい。
 たとえばアーサーがもう少し物事をストレートに受け止められて、おまけにアルフレッドが落ち着きを持っていたならば仲立ちだってやぶさかではなかった。
 けれど二人はベクトルこそ違えど大分ひねくれているし、暴走したらなかなか止まらない性質だ。
 遠くで眺めているのならともかく、真横にいて巻き込まれるのは絶対に嫌だった。


「やだね、俺絶対お前らの喧嘩止めるなんてやだかんな!」

「そんなのしねえよ! ……俺だって、アメリカがちゃんと国としてちゃんとやってるの、分かってるし、だから国として迎えてやるつもりだ」


 一度大声で否定してから、アーサーは急に声のトーンを落した。
 どうやら彼女はその身だしなみをするに相応しい相手としてアルフレッドを迎え入れるらしい。
 我が子を失ってひんひん泣いていた頃を思えば、目覚しい進歩といえるだろう。
 どことなく上から目線なのは相手が新興国であるのだから仕方があるまい。
 彼女の彼の関係を思うと全く別の理由が透けて見えてくるのだが、それはそれとして。


「なら、久々に淑女モードが見れるわけだ」

「今日はフルスロットルでいくからな。惚れるなよ?」

「またまた、いつだって俺はめろめろだよ」


 珍しく冗談めかして言ってきたので、へらへら笑って返してやると大分引いたようだった。
 気持ち悪い、とぼやく彼女の声色が僅かに硬くてほんの少し笑みを深める。
 対等な関係としてアルフレッドに接すると決めてはいるが、戸惑いがないわけではないらしい。
 まあ、本人も不安だと叫んでいたのだから、当然の話ではあるのだが。


「知ってる? あいつかなり時間にルーズだから、今日も遅れてくるかもね」


 ええ、と非難めいた声音を漏らして、途端にアーサーが眉間に皺を寄せた。
 ただの顔合わせとはいえ仕事の一環だと考えている彼女からすれば、許されざる蛮行だろう。
 あの馬鹿とか何とかぶつぶつぼやくのが聞こえた。


「どうぞ、お嬢さん」


 眉間やら肩やらに違和感を残したまま会場の前まで辿り着いたアーサーのために戸を開けてやると、殊勝にも優雅な会釈が返ってくる。
 それほど広くない豪奢な一室を見渡して、目的の人物が見つからないと悟ると小さな安堵の吐息が漏れ聞こえた。





 あからさまに態度に表さないまでも時計の針が開始時刻に近づくにつれ、アーサーの気配が刺々しくなっていくのが分かる。
 アルフレッドにとって時間の厳守が相手に対する尊重に繋がらないのは何となく分かってはいるが、彼女にとってはそうではない。
 時間を決めるということは大げさにいえば契約であり、守らなければ不誠実な上に軽んじられていると考えるだろう。
 彼女にそれが許せないとアルフレッドが知っていてそれでも時間を守らないなら、軽んじているのと同義になるのかもしれないが。


「……あいつ、どうしたんだ?」


 隣に座っているギルベルトが腕を突いて、ほしょほしょ囁いてくる。
 ほぼ対角線上の円卓に座るアーサーはマシューに声をかけられて、少し気配を和らげているようだった。


「どうって、めかしこんでること? それとも怒ってるのに黙ってること?」

「どっちも」

「アルフレッドが来るから、かな」


 彼女の家の物であろう紅茶に口を付けて、カップに移ってしまった口紅を気にしている内に派手な足音が扉の向こうから聞こえてきた。
 何か言わんとしていた口をギルベルトが名残惜しげに閉じるのと、足音に勝るとも劣らない勢いで扉が開いたのはほとんど同じタイミングだったように思える。


「よし、みんな揃ってるかい!?」


 開始時刻ぎりぎりに飛び込んできたアルフレッドを見た途端、アーサーが椅子を引いて立ち上がった。
 アーサーと視線が合った瞬間、扉の向こうにいたときから騒がしかった彼が一気に静まる。


「お元気そうで何よりです、ジョーンズ。このような場でお目にかかるのは初めてですね。始めはどうなることかと思いましたが、これまでの手腕を見る限り、全て私の杞憂だったようです。あなたの国とならば、我々はこれからも関係を深めていけることと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」


 アーサーが口火を切った。
 クイーンズイングリッシュ特有の薄く開く唇から、すらすらと練っていたであろう挨拶が零れ出す。
 湛えられる柔らかな表情には非の打ち所もない。
 さすがフルスロットルと宣言していただけはあって、そんじょそこらの男なら頬を緩ませるしかなかっただろう。
 床に敷き詰められた絨毯のお蔭で、アーサーがアルフレッドとの間合いを詰めてもヒールが鳴るようなことはなかった。

 仇敵として戦ったこともありましたがあなたから認められて、これほど嬉しいことはない。
 これからは対等な関係で友好を深められればと考えている。
 本来はそんな返答をして、彼女の両頬に挨拶のキスをしてやるのが妥当なところだ。
 というか、それが義務だ。
 けれど、アルフレッドはぴくりとも動かなかった。

 アーサーは彼が呆気に取られているのだとでも思っているのだろうが、完全に岡目八目のフランシスにはその表情の理由が痛いほど分かった。
 木偶の坊のように突っ立って、彼はじいっとアーサーを見ている。
 記憶の中よりも滑らかに見える肌に、丁寧に乗せられた淡いチーク。
 持ち上げられた睫毛とその奥に潜む瞳の金と緑のコントラスト。
 ぴったりとした服のラインにそのまま現れる腰から尻への曲線から、青年は目が逸らせない。
 恐らく彼は欲情している。
 今すぐにでも目の前の相手に覆い被さって、うなじに噛み付いてしまいたい衝動がレンズの向こうに宿っているのだ。
 だって、気づいてしまったのだもの。
 彼女がたった一人、自分のためだけに意に添わない髪を必死にまとめ、服を選び、唇に朱を引いてきたことに。
 そうして、自分を認めた上で飛び切りの笑顔を見せてくれている。
 全て、そう全てがアルフレッド・F・ジョーンズのために!
 打算があるとかそんなことは二の次であって、己のために精一杯好意を向けられるのが嬉しくない男なんてどこにもいないのだ。
 それが、好いた女だったのなら尚更だ。
 直接彼の口から聞いたことはなかったが、あの反乱に一役買ったのが彼の中の恋情だったと賭けてもいい。
 彼が少年の背格好だったときの彼女に向ける熱い視線といったらなかった。
 あれで隠しているつもりだったのも、彼女が全く気づかなかったのも驚きに値する。

 ともかく、ずっと高いところにいてアルフレッドを見下ろしてきた可愛い人がほとんど同じ高さの場所にいるのだ。
 それも身内としての大人ではなく、一人の女性としての顔で対等に接しようとしてくれている。
 何度も夢に見た彼女が具現化されているような、現実感のなさすら覚えるような感動。


「あの」


 さすがにフリーズする時間が長すぎたらしく、焦れたアーサーが声を上げる。
 普段よりも随分高い声に似つかわしく、腹の前で緩く重ねられていた両手に力が籠もった。
 不安げな声に意識が引き戻されたらしいアルフレッドの肩が小さく跳ねる。


「……アーサーったら、何なんだい! 久々に会うからってはしゃぎ過ぎだろう、似合わないよ!」


 虹彩ばかりに集中していた熱が顔中に四散したと思ったら、アルフレッドが無遠慮にアーサーを指差して声を大にした。
 あのときの真っ赤な軍服の方がいくらか似合うとけらけらと、吃驚するくらいの軽薄さでもってアーサーを笑う。
 部屋中を覆っていた好奇心と緊張の空気が一気に瓦解するのが肌で感じ取れた。

 口元を押さえながらにやにやする元身内を呆然と見上げて、アーサーが投げかけられた暴言に堪えかねたように一歩身を引いた。
 はくはくと口が動くと共に、チークの色以上に頬が赤く染まっていく。あーあ、なんてこった。


「おまえ、俺が一体どういう気持ちでこんな――いい! もういい! ガキのまんまじゃねえか、このばかあ!」


 丁寧に揃えられていたはずの両手は腰の高さで見事な拳になっていて、おまけに小さく震えていた。
 親指が握りこまれていないところを見るに、殴りかかる可能性を示唆しているのかもしれない。


「あー、吃驚したじゃないか。全然様子が違うし、頭でも打ったのかと思ったんだぞ! みんなが困るから変なことするんじゃないよ」

「畏まって誰が困るんだよ! TPOってもんがあるだろ!? むしろお前が大問題だ!」


 失礼なことを言われながらもきゃんきゃん吠えるだけなのだから、彼女なりに随分気を使っているらしい。
 フランシスが同じことを言おうものなら、一瞬の躊躇いもなく利き手を顎だの鳩尾だのに食らわしているだろう。
 甘いんだから。


「止めないでいいのか?」

「やーだよ。お兄さん、喧嘩止めないって言ったもん」


 ギルベルトに再び突っつかれて、盛大に背もたれにもたれかかる。
 じゃあ俺もしーらね、と大分投げやりな宣言と共にギルベルトが円卓に突っ伏した。
 小一時間寝たところで、何の進展もないと思うな、お兄さんは。
 かといって事態を改善する気も起きず、ぱっと見余裕綽々なアルフレッドに視線をやる。
 ああ、あの顔は自らの失態にまるで気づいていないようだ。
 上手くごまかしてあしらったと自分を褒め称えているくらいなのだろう。大馬鹿野郎。

 なあアルフレッド。
 恋と情欲は表裏一体のものなんだ。
 何を今更と思うかもしれないけれど、十全の理解には程遠い。
 お前はきっと、その恋心の下にあったあからさまで剥き出しで無遠慮な欲望を初めて実感したんだろう。
 理性とか自我とか、下手したら感情の類まで焼き切ってしまいそうな熱量に生まれて初めて晒されたんだ。
 そのどうしようもない感覚を恐れるのは当然のことだ。
 そして、ぐちゃぐちゃな欲望を自らが知ると同時に愛する人に悟られるとなれば、その恐怖は計り知れない。
 けれどその、ごまかしをお前は後どれだけ後悔し続けるんだろう。

 ほら見てごらん、アーサーの肩を。
 お前が小賢しく逃げるまで、可哀想なくらいに張っていた背筋は今や解けてしまっている。
 子供のままに振舞ったお前に心底安心しきっているんだ。
 子供のお前は彼女に受け入れられてしまった。
 その壁の高さを一度は破壊したお前が知らないはずがないのに。

 しかし、今はそれを伝えるすべもなく、ただただ溜め息を吐くに留めるしかない。
 その微かな溜め息も、子供の歓声のようにも感じる喧騒に溶けてしまった。