「……狭い?」
「ワシントンのど真ん中のアパートで文句言わないでくれないかい? それでなくとも何回も来てるんだから、忘れたとは言わせないよ」
確かにロンドンの郊外にある彼の家と比べれば、都市部のアパートなど窮屈で仕方がないだろう。
ふうう、と大仰に溜め息を吐いて見せるが、ふわふわに酔っ払ったアーサーには何のダメージも与えないようだった。
この百パーセントとはいわないけれど、この三割くらいは精神的な強さを日常で持ち合わせてもらいたいものだ。いつもの彼はナイーブ過ぎる嫌いがある。
「そっか、これお前ん家かあ」
くるりと視線を巡らせて、やっと納得がいったらしくアーサーがふにゃりと双眸を解かした。
ふらつく足元を細い廊下の壁にフォローしてもらいながら、いつも以上に幼く見える彼がリビングを目指して足を進める。
引っくり返らないかと気が気ではないかったのだけれど、何事もなくリビングに着いたと思うや否やソファにダイブする。
その振動でサイドテーブルに摘んでいた雑誌が揺らいで、二人して息を飲んで行く末を見守った。
「おお……セーフ」
「あのねえ、君あんまりはしゃがないでくれないかい? 部屋の中がぐちゃぐちゃになっちゃうじゃないか」
さっきから止まることを知らない溜め息を自由にさせながら苦言を申し立てると、んん、と彼は唸りながらさっきしたように周囲を見回した。
ついでにあちらこちらを指差ししながら、ひい、ふう、みい、とカウントをして見せる。
指を指す先と数えるものに法則性らしきものは見出せない。
「あそことあっち、多分向こうも崩れるな。どうせ、物だらけだからあんまり変わらないだろうけど」
「本当かい?」
確かに脇を通れば大惨事が起きてしまいそうなゲームソフトから、ちょっとやそっとじゃびくともしなさそうな雑誌の山までアーサーが順々に指差していく。
俄かには信じられない指摘があるせいで声を裏返すと、にちゃっと質の悪い笑みが彼の表情を彩った。
嫌な予感がしたけれど、時既に遅し。
アーサーが軽く棚に振動を与えた瞬間、ものの見事に詰まれていた雑誌が倒壊した。
「ほら、言ったとおりだっただろ?」
「君ねえ……!」
くすくす笑ってすぐその場を離れる彼を見送りながら、無残な状況になった雑誌群に駆け寄った。
そもそも物が沢山あるのと、ぐちゃぐちゃなのでは状況が違ってくる。
前者は把握さえできていれば結構機能的で快適だが、後者はノイズが多すぎて機能の面では格段に落ちてしまうのだ。
ちなみにその手の議論は何度もやっては、家が片付いているのがデフォルトな彼には全く共感が得られないまま今日に至る。
どちらにせよ同じことという意思表示かもしれないが、この仕打ちはあんまりにもご無体ではなかろうか。
「……冷蔵庫にビールが入ってる」
「ああ、うん」
雑誌の角が丸まってないかを確認しながら丁寧に積み直していると、少し不機嫌な声が響いてきた。
どうやら勝手に台所を創作していたらしいのだが、もしかしなくてもまだ飲むつもりだったのか。
ベッドでもソファでも、それこそ床でも構わないからさっさと眠ってほしい。
寝顔は可愛いと思えても、この手の酔っ払いを可愛く思える思考回路は持ち合わせてはいないのだ。
片づけが済んでソファに座れば、表情を曇らせたアーサーがビールを抱えて隣に乱暴に腰を下ろす。
ああ、栓抜きも一緒に持ってくるなんて、結局のところ飲むつもりなんじゃないか。
「この冷蔵庫、ワインセラーの機能なんかついてないじゃねえか」
「俺がどんな飲み方したっていいじゃないか。暑い時期だとキンキンに冷えたビールもいいもんだよ」
彼の国のエールは他国の追随を許さないほどの温さだ。
何たって、そもそも冷やさないというくらいの温度が飲み頃なのだ。
普通ならワインと同じように温度調節をして飲むのが基本なのだから、特異性においてはマイナス何度とかにまでビールを冷やし始めた日本とそれ程変わらないような気もする。
はじめはどうかと思っていた冷やしビールだけれど、梅雨の蒸し暑い頃に来日したときに菊からそっと差し出されたそれには心が震えた。
喉が渇いていたら何でもかんでも美味しいといわれればそれまでかもしれないが、炭酸と苦い味が冷感をもって全身に行き渡る感覚は素晴らしかった。
ビールそのものの芳香は失われているかもしれないが、別の利点か浮上してきていたわけだ。
それからというもの、暑い時期は特にビールを冷蔵庫に常備している。
「こんなの飲めねえ。本田には悪いけど、こんなビールは認められない」
「それだったら飲まなきゃいいんだよ。っていうか、そもそも酔っ払ってるんだから追加で飲もうとしないでくれないかい!?」
心底深刻な事態だとでもいうような表情でアーサーが人の趣向を否定してくるから、アルフレッドまで語勢に力が入ってしまう。
下らないことに声を荒げてしまっている自分が憎らしいが、よくよく考えてたら自分だってそれなりにアルコールが入っていたのだった。
沸点がいくらか下がってしまっている理由の一つだろう。
「嫌だ飲む」
「飲むって言ったって、ここにあるのはビールだけなんだけど?」
むっつりと告げられて、同じくらい苛立ちながら返事をする。
酒が入るとどうも声に迫力が出なくなる事実すら、今は神経を逆立てる一因になっているらしい。
そういう関係のないことまで彼にぶつけてしまっている自分にも苛々する。
一方でお酒を飲むと随分打たれ強くなる彼は聞き流しているのか聞いていないのか、真剣な表情で口元に緩く作った拳を当てて熟考しているようだった。
「――お前が」
ああ、とかいった類の感嘆の声すらなく、すっと上がった視線がアルフレッドを捕らえた。
キスをくれるときにも似た、真剣なそれに少しの間瞬きを忘れて彼に魅入る。
アルコールのせいで赤く染まったのは頬だけではなく、グリーンの瞳だってそうだった。
新緑を通り過ぎて萌芽の直後の明るい緑になった瞳は情事に直結する色味で、酒が入っているにも関わらず下半身が重たくなってしまう。
「お前が口に含んで温くしてくれ」
「……君、馬鹿だろう」
どうして自信満々に名案とばかりに彼が告げてくるのか理解ができない。
彼が全てを語ったわけではないが、最終的には口移しをしてくれということなのだろう。
そもそも炭酸はどうするのだ。
口に入れてしまうと一気に気が抜けてしまって、随分ぼんやりとした味になってしまうではないか。
冷蔵庫で冷やしている自分がいうのもなんだが、ビールに対する冒涜である。
それなのに、アーサーはビール瓶の王冠を小気味のいい音と共に外してしまって、あまつさえそのままビールの口をアルフレッドの唇に押し付けてくる。
唇を引き絞ってビールの進入を拒んでいたら、アーサーが押し付けていたビール瓶を引いた。
ちょっとした違和感が残った唇に触れる前に、柔らかな感触に支配される。
彼の唇だ、と気づくか気づかないかの内にその唇が離れて行った。
「どっちから飲ませてやったっていいんだからな……?」
「ゃっ……分かった、分かったから!」
それから放たれた残酷な言葉に背筋がそば立った。
結構下品な言い回しを好む彼のことだから、恐らくあちらを指しているのだろう。
常人を元にしたの情報になってしまうけれど、腸からアルコールを摂取するのは急性アルコール中毒を引き起こしかねないという。
国の化身であるアルフレッドにどこまで適応していいのかは微妙なところだが、経験上飲んだ量に相応しく酔っ払っているのだから常人とそう変わりはしないだろう。
死にはしない代わりに病院送りになった上、あまり知れ渡ってほしくない事実が明るみに出そうなので勘弁したい。
それでも、ビールの口移しに抵抗があってすぐに返事ができないでいたら、アーサーがぺろりと唇を舐めてきた。
このままでは彼の意のままになりかねなかったので、勢いで返事をする。
まあ、どちらにせよ手の平で転がされているには違いないが。
途端ににっこりとでも効果音が付きそうなくらいに嬉しそうな天真爛漫な笑みが浮かんで、何となく泣きたくなる。
何があったって結局はこの笑顔のためにアルフレッドが何度も妥協していることに、彼は気づいているのだろうか。
疑問形ではあるものの、絶対に知っているだろうとは確信している。
「いい子だな。ほら、あーん」
子供のときにしてくれたみたいに頭を撫でられて、アルフレッドは観念して口を開ける。
顎に手を当てられて上を向かされた辺りで、ひんやりとした液体が口内に転がり込んできた。
量が増えだすと喉の奥に滑り込みそうになったので、慌てて喉を閉じてやり過ごす。
ある程度口の中にビールが溜まってくると、アーサーが一度瓶を引っ込めた。
口を閉じれば頬の内側をビールがちりちりと刺激しながら、唾液を呼び寄せる苦味を舌に伝える。
唾なんていつもキスのときに嫌というほど交換しているというのに、酷く背徳的なことをしているようだった。
「そろそろかな……ほら、飲ませてくれるよな?」
たっぷり一分は口に含ませて、アーサーは一度アルフレッドの唇に指を置いてから視線を誘導するために自分の唇に指を乗せて見せた。
憎らしいけれど、従うしかない。
アーサーの技術を持ってすれば、アルフレッドくらいの性欲を持て余す若者を崩落させるのなんてそう難しい話でもなんでもないのだ。
唇を重ねれば、ゆるりと唇が開いて誘い込まれる。
しかし、普段通りの口付けをしてしまったら、ビールは豪快に零れてしまうに違いなかった。
結んだ唇の先端だけを解いて、ゆっくり彼の口にビールを移す。
いつもならそれだけでアルフレッドをオーガズムに達せさせんがばかりに攻勢を仕掛けてくる彼はこくこくと喉を鳴らすばかりで大変大人しかった。
ゆるりと瞼を落としている彼はとても可愛らしくて、アルフレッドと押さえ込もうとするときの荒々しさはどこかに家出してしまっているとしか思えない。
個人的には一生帰ってこなくてもまあ不自由しないというか、立場が逆転しても問題はないような気がする。
多分。きっと。
まだ自分自身がそっちの面でそこまで感化されているとは思いたくない。
「ん……もっと」
ビールを飲み切るとアーサーが途端に顔を引いて、代わりに瓶を押し付けてくる。
素直に口を開けると先程よりも大分多いそれが注ぎ込まれて、慌てて瓶の口を上向かせて口を閉じた。
「……ふふ、不細工? いや、間抜けかな、そんな顔だ。かわい」
自分でもぷくりと頬が膨らんでいる自覚があったところに笑われて、かっと顔に熱が灯るのを感じた。
君のせいだろうと文句を言ってやりたかったが、ビールが邪魔で口が開けない。
そんなことを真面目に考えた次の瞬間、いつの間にかゲームに乗っかって訳の分からないルールに縛られていた自分を殴りたくなった。
酔っ払いに付き合っていないで、さっさとこんな物は飲み込んでしまえばいいのだ。
「こぉら、悪い子だな」
「ん……!?」
一度大量に液体を口内に留めてしまうと、飲み込むのはなかなか大変だ。
その仕草を悟られて、膨らんだ喉仏にアーサーの指先が滑った。
突然の刺激にビールを吐き出しそうになってしまったが、さすがに部屋に一度口に入れた物をぶちまけることなんてできない。
「出したら駄目だからな。俺が六十数えるまでそのまま我慢してろ」
そう宣言するや否やアーサーがぴたぴたとあちこちに触れてくる。
それも明確な意図を持っていて、首筋は触れるか触れないかのぎりぎりを突いてくるのだから憎らしい。
音節ごとに伸ばされて発音される数字に意識を集中させると、何が何だか分からなくなってきた。
いーち、にい、と柔らかに響くそれは幼いときに聞いていた響きに酷似していて、一見すると性的な行為とはかけ離れた要素と評するしかない。
「ほら、もう少しだ」
囁く声も優しいのに、脇腹に這わされる指は容赦ない。
震えを逃がすことができなくて、アーサーの肩口に額を押し付けると仕方ないというような微苦笑が響いた。
どうしようもないのはそっちの方だよ。
ろくじゅう、ともったいぶった宣誓と共にアーサーが頭を撫でてくれる。
そんなことよりも早く解放してもらいたくて、自分からアーサーに口づけた。
さっきよりも随分乱暴に注いだので、少し零れてビールの香りが二人の間で香る。
口の中が一杯だったのもあいまって上手く呼吸ができていなかったので、久々に空気を深々と吸い込んだ。
「む……んんっ」
盛大に息を吐き出していた口にアーサーが噛み付いたと思えば、冷たいビールが注ぎ込まれた。
火照った体に心地良く感じたのは一瞬で、ぬる、と入り込んできた熱い舌が口内に熱を灯していく。
何度繰り返されたか分からないくらいビールやら唾液やらを飲まされて完璧に腰が抜けてしまった頃、ことんと瓶が床に置かれる音が聞こえてきた。
よっこいしょ、と親父臭い掛け声と共にアーサーの影が顔に落ちてくる。
ぴたりと頬に触れてくる指先が不自然なくらい熱い。
けれど、自分の頬だって随分熱くなっているのは想像に難くなかったし、アーサーもどこか嬉しそうに熱い、と呟いた。
頭をかき抱かれて感じるのは煽られるような濃厚なアルコールと情欲の気配。
覚悟を決めて抱き返せば、アーサーは抱き寄せる手の力を強めながらこの世の楽園を見つけたように笑って見せた。