1784年某日



 イギリスから独立してから、ずうっと忙しい。
 起きて食べて働いて食べて寝るという、正に馬車馬そのものの毎日だった。
 目の前の仕事以外何にも考えないで済んだのはむしろありがたいことだったから、積極的に働いていたところもあったのも確かだ。
 けれど、積もり積もったストレスに耐えかねて、椅子を蹴り飛ばして喚き散らしたこともあったっけ。
 それでも少しずつ情勢は落ち着いていって、余裕の生まれた頭があれやこれやと思いを馳せ始める。
 たとえばくちくなったお腹を抱えているとき、まどろみの最中にそれはひんやりとした感触を運んできた。

 それから仕事に身が入らなくなって、みんなにも心配をかけてしまった。
 実際ミスも起きたりしたから、迷惑だったということもあったろうと思う。
 一方で、大丈夫かと声掛けをすることはできても、解決するまとまった時間を簡単にあげられるほど余裕のある状況でないのも確かだ。
 それでも、アルフレッドは頼み込むしかなかった。
 解決してくるから、一日だけ休みを下さいと。
 始めはさすがにそんなことはできないと説得される側だったけれど、その無理を承知で頼み込んでいるのだから無しの礫だ。
 押し問答をしている内に、彼らはその時間が惜しいことに気がついたらしい。
 ついでに、丸一日言い合いをしてもアルフレッドが折れないことも悟ってもらえた。

 溜め息と一緒に出された許可に満面の笑みを浮かべることはできないまま、それでも彼をぎゅうっと抱きしめた。
 とはいえ、即日お休みがもらえるはずもなく尻の座りの悪い日々が続いたけれど、それが馬でいうところの人参の役割を果たしていたように思える。
 恐ろしいほどめまぐるしく働いていた。
 その甲斐あって仕事の調整がついて、当日は無罪放免。
 目標の達成については諸手を挙げて喜びたいところだったけれど、やっぱり休んだ理由を考えるとそんなことは決してできなかった。

 仮の住まいではなく、ずっと暮らしてきた本宅に足を踏み入れると早々に埃っぽい匂いがした。
 雨戸まで締め切って真っ暗になった室内の湿気た空気に気持ちまでしんなりしてきて、アルフレッドは小さく溜め息を吐く。
 それから顔を背けて日向の匂いを命一杯吸い込んで、息を止めながら室内に足を踏み入れた。
 玄関からの明かりを頼りに手近な場所から窓を開けて回っている最中に、鼻の奥がつんとなるのは埃のせいなのだろうか。
 高い空からやって来る神の息吹が室内を駆け回って、湿っぽい空気を一掃して行く。
 このまま端々に積もる記憶の片鱗すらも連れて行ってはくれないだろうかと願ったが、それらはきらきらした陽光の元に穏やかに光るだけだった。

 いつか押し付けられたスーツにもう読まないであろう古いおとぎ話の本、何度も遊んだ玩具の兵隊を筆頭にあれやこれやを庭に運び出す。
 不便になるだろうけれどこれから数年は忙しくてなかなか帰ってこられないだろうから、椅子とテーブルまで持ち出した。
 持ち出す物をリストアップして、汗水垂らして引っ張り出している間は肉体労働に集中していたのか後ろ暗い気持ちになることはない。
 代わりに何だか面倒になって、いっそのこと家に火をつけてやろうかと思ったがさすがに止しておく。
 そこここに国民との記憶が滲んでいる大切な家だ。
 そう思い至ってから様々な人とこのテーブルで食事をしたことに気づいて、たっぷり十分近く悩んでテーブルと椅子を一脚だけ残して家に戻した。
 アルフレッドを嫌っているとしか思えないような音を立てていたヴァイオリンは悔しい気持ちの塊のような気がするが、譲渡者を考慮すればここに運ばれる資格があるだろう。

 ついにやることがなくなって、アルフレッドは鋭い溜め息を吐いた。
 空を見上げれば雲一つない晴れ晴れとした青が広がっている。
 あの人が、何度も褒めてくれた瞳と同じ色だ。
 俯いて空を視界から追い出してポケットからマッチと着火材を取り出し、気づけば浅くなっていた呼吸を深くした。

 そうして、一気に火を点けた瞬間のことだった。
 じゅ、と小さな音を立てて、マッチの火が消える。
 何事かと空を見上げたけれど、さっき見たのと同じく美しい空が広がっていただけだった。
 その上げた顔から何かが滑り落ちる。
 温いそれは風に晒されると共に、どんどんと冷たくなっていった。

 ああ、涙だ。
 そう思うと同時にあの人の声が聞こえた気がした。
 アメリカ、俺の希望、お前と出会って俺は初めて夢が叶ったんだ。愛しい子。誰が何と言おうと、俺とお前は。
 ないはずの声が鼓膜を震わせるのは、何度も囁かれたからだろう。
 そして、狂おしいほどに幸せだった。
 注がれる幸福と同じくらいに幸せだった。

 気がつけば、その幸せそうな響きを掻き消すくらいに大声を張り上げて泣いていた。
 役に立たなくなったマッチをかなぐり捨てて、青々と茂る芝生に膝を突く。
 あの声が苦しくなったのは確か、このスーツを貰う少し前のことだった。
 背が伸びて、同じ視線の高さになる頃にはあの人のことが好きになっていた。
 あの人がいない内に随分成長してしまったからだろうか、あのときから数日間どこかよそよそしさを感じるぎこちなさが続いた。
 その数日間がアルフレッドにとっては決定的で、家族の範疇から外れてしまったあの人の魅力に気づいたのもあのときだった。
 いつだってぴんと伸びた背筋に、島国気質の細い体。
 照れ屋なくせに惜しげない愛情を注いでくれたあの人を、どうして好きにならない理由があっただろうか。

 スーツが送られたのは恋愛対象として愛してしまったと気づいてからだった。
 愛する人から服を送られる気持ちなんか、あの人は絶対に知らない。
 ぎゅっと皺になるのも気にせずにスーツを抱きしめて、あの照れているような得意がっているような表情を思い出す。
 アルフレッドがスーツを着込んだ際の出来を見て、ほんの少しほっとしたような息を吐いたのまで覚えている。
 きっと、とんでもなく長い時間をかけて選んで、それでもずっと心配していたのだ。
 それがたとえ、弟に対する愛情であったとしても嬉しかった。
 あの人から離れてしまった今、一般的な視点では圧制の意味しか持たなくなってしまったのだとしても、それでも。

 目の前に広がる全てが過去そのものだった。
 上手く弾けなかったヴァイオリンも、何度も遊んだ人形も。
 何もかもが自分を縛り付ける物であり、同時に確かに残るあの人との繋がりであり、アルフレッドという個人を形成してきた物に違いなかった。
 今までの自分とあの人を明確に区別するラインの何と曖昧なことか。
 ある一瞬まではアーサーの生はアルフレッドのためにあり、アルフレッドの生はアーサーのためにあったのだ。

 消せない。消せるはずがない。
 あの人を家族として愛していたときの物もその後の思い出達も。
 けれど、どうすればいいだろう。
 ただ対峙するだけで、こんなにも涙が溢れて息が詰まってしまうのだ。
 ぼろぼろと涙を零し続けるせいで熱を持ち始めた頭とは反対にひんやりしてきた鼻先を一気に両手で覆って、落ち着くまで深呼吸を繰り返す。
 長く手を入れていないせいで埃っぽくなった生地の匂いが鼻先を擽って、またぼろりと涙が零れ落ちてきた。

 しゃくりを上げる声が落ち着いてきた頃、ようやっと腰を上げることができた。
 宝物を一つ一つ抱きかかえて、アーサーが私室に使っていた部屋に運び込む。
 妙な違和感があると思ったら、どうやら頻繁に出入りしていた時期が幼少の頃だったかららしい。
 夜中に起き出して仕事中のあの人を訪ねるときの視線はとても低くて、いつだって安心と憧れと共にその背中を見上げていたのだ。
 記憶とは違う佇まいを見せる室内に拒否されているようだと感じた瞬間、手にしたヴァイオリンが途端に重たくなった。
 アーサーから離れた自分が持ち合わせるには相応しくないと罵られているようで、既に十分食い縛っていた歯により力を込める。
 拒まれているからといって、過去が悪いのではない。
 裏切ったのは他でもない自分なのだから。
 泣いて詫びるべきはきっとアルフレッドの方だ。
 分かっている。でも、今そんなことはできない。

 痛む心臓を無視して全てを運び入れてから、勢いよく扉を閉めた。
 鍵はかけない。
 それでも、もう開くことなどできないだろう。
 きっとここに帰ってくるたびに苦しくて、息が詰まって。
 愛おしさや寂しさ、自責の念の数々が幾重にも鍵をかけて、もう触れることすら叶わない。

 堪らず屋外に逃げ出して、それでもあの部屋の壁に背中をつける。
 やすりを掛けない上からペンキ塗りさせたせいで毛羽立った板がちくちくと背中を刺激して、痛みが体中に反響した。
 イギリスから独立したことは後悔していていない。
 手に入れた自由はやはり厳しくて、振り回されている向きもあるけれど政府としての骨格が出来上がれば次第に手綱を握れるようになるだろう。
 何より、誰かから与えられた束縛よりも己が選択したものに縛られていきたいのだ。
 だからこそあのときイギリスからの独立を選び、同時にアーサーとの別れを甘受した。
 アメリカは世界にそれを望まれていたのだ。
 最大数の幸福がアメリカを、ひいてはアルフレッドを突き動かした。

 闘争の中から湧き上がってきた声だった。
 独立を。
 母国イギリスからの独立を。
 彼らがもはや新大陸を同等の同胞として扱わないのであれば、我々は断絶をも願わねばならない。

 その通り。
 全くその通りになってしまった。
 今、あの人がどこで何をしているのかすら、もう分からなくなってしまった。
 再び顔を合わせたとしても、以前のように笑うどころか話してくれるかどうかさえ怪しい。
 自分で選んだことなのに、それでも溢れる涙を止められない。
 あの人を酷く傷つけることも、過去の記憶の数々を裏切ることになることも分かっていた。
 けれど、それ以上にあの人への愛情がアメリカに求められていないことは痛いほどに理解していた。
 そうでなければどうしてアーサーを跪かせたあの一瞬が興奮をもってして迎え入れられただろう。

 この思いが祝福される思いでなかったから、世界には別れを尊ぶように清風が吹き渡っている。
 空を見上げれば、やはり美しい青色で。
 どこを捜してもあの新緑の瞳と同じ色を見つけることはできなかった。