落陽の廊下にて、彼女に触れる



 夕焼けの西日が差し込む教室はともかく、廊下側はそろそろ蛍光灯を点けなければ物寂しく感じられる。
 体育会系の部活動が終わる頃合いなのか、大きな掛け声がなくなった。
 文化系の部活は当然ながら専門の教室か部室棟で活動しているので、視聴覚室などの多目的教室が並ぶ通りに人気は皆無に等しかった。
 人のいない部屋は寒々しく感じると誰かが言っていたような覚えがあるが、学校の教室は驚くほどその感覚を呼び起こす。
 誰もいない学校の一角が恐ろしいなどと小学生めいた感想を抱くわけではないが、あるはずの活気が欠けている印象がどこか人の温かさを求めさせるような気がする。

 とはいえ、これはない。

 男を求める甘い声を聞きながら、アーサーは扉にかけようとしていた手をそろそろと戻した。
 恐る恐る扉の上に記されている視聴覚室の文字と今日の午後に来た教室の名前を照合する。
 残念ながら間違いない。
 この教室で授業が始まる前に明日会議に必要な資料のチェックをしていたのだ。
 そのまま忘れて帰ってしまったのに気がついて先に落し物箱を見に行ったが、そうそう使用されない教室の引き出しにある資料に気づいた人物はいなかったらしい。
 次に向かうべきは当の視聴覚室に他ならないというのに、その当然の判断を今になって心底後悔するとは思いもしなかった。

 ぐるぐる回る思考を断ち切ったのは高い女性の悲鳴と肉同士がぶつかる湿っぽい音だった。
 中で起きていることを想像すると思考の代わりに視界が回り出す。
 漏れてくるのはほんの僅かな音だけなのに、そんじょそこらのポルノ作品とは一線を画す熱量に圧倒された。
 一瞬は指先まで冷たくなったのを感じたが、いつの間にか鼻先まで熱くなっているのが分かる。
 枕に耳を押し付けたときのように鼓膜の近くで鼓動が喧しく聞こえてきて、スカートのプリーツを強く握り締めた。

 上手く息ができない。もう、指一本動かせない。
 ここがどこなのかとかどうしてここに来てしまったかなんて、最早どこかに吹き飛んでしまった。
 ただ、ただひたすらに聞き耳を立てて、固唾を呑むことしかできなかった。

 体に制御できない熱が灯る。


「生徒会長いないの?」
「アーサー? あのお嬢さん何か言ってたよね」


 挨拶もせずに飛び込んだのに、怒声がないということは十中八九彼女が不在の証だった。
 携帯電話を弄っているフランシスが新聞の株価欄をぼんやりと眺めている菊に問いかける。
 某かメモをしているので、株の一つやっているのかもしれない。
 だとしても、紙媒体に頼るのは随分アナログだと思う。


「忘れ物捜しに行くって仰ってましたよ。最低二箇所は回ってくるとのことでしたが、そういえば遅いですね」
「なんだいそれ、人を呼びつけておいて失礼なんだぞ」


 新聞から視線を上げずにアーサーの近状を伝えた菊は一瞬だけ生徒会室の時計に目をやってから、小さく首を傾げた。
 確かに部活用の棟があるくらいには大きな学校には違いないが、二つのポイントを回るくらいで二十分も三十分もかかるはずもない。
 相当面倒な場所でなくしてしまったのなら話は別だが。


「どうかしたの?」
「PSP没収されたんだ」
「おやそれは……ご愁傷様です」


 大仰に肩を竦めて見せると、菊に僅かにではあるものの驚きの意を表明される。
 衣替えの時期を間違えたり、面倒になってパーカーを着込んでしまったりとしでかしてから、服装について日常的にあれこれ言われるのは珍しくもなんともない。
 だから、持ち物を没収されるのはパーカー以外にあまりない。
 しかし、定期的に行われる持ち物検査の日にうっかり持ってきた自分が悪くなかったかというと、絶対に否だ。
 その上、電源を切らずにスリープモードにしていたのもいただけなかったらしい。
 しっかり電源を切られた挙句、無言で没収箱に叩き込まれたから機体が無事か不安で堪らない。


「……まあいいや、ちょっと捜してくる」
「あ、じゃあさ、鍵持ってってよ。もう俺達も店仕舞いの時間だしさ。菊も帰るよね?」


 ぱくんと携帯電話を畳んで、フランシスが机に転がしたままだったらしい鍵を放り投げる。
 綺麗に放物線を描いたそれを受け取りながら、彼女が顔を出しそうな場所を思い浮かべる。
 忘れ物と言っていたのだから、授業に関係する場所から当たるべきだろう。
 たとえば、彼女のクラスとか理科室辺りだろうか。


「そうですね。牛乳も買って帰りたいですし、そろそろお暇しましょうか」
「あ、どっちか生徒会長と同じクラスじゃなかったかい? 今日移動教室があったか教えてほしいんだけど」


 新聞を手早いけれど、ぐちゃぐちゃにせずぴっちりと折り畳んでいる菊がフランシスに視線をやる。
 言葉にはしなかったけれど、どうやらフランシスとアーサーはクラスメイトらしい。


「今日はね、音楽室と視聴覚室かな」
「オーライ、回ってみるよ。それじゃあね!」


 多少の面倒臭さはあるけれど、ゲームの展開を考えると明日のそれも夕方にまで回収を先送りにするのは精神衛生上よろしくない。
 また後で帰ってくるのだから鞄は椅子の上に置いておいて、軽く手を振ってから廊下に飛び出す。
 遠くから二人の挨拶が聞こえてきたから、振り返ってもう一度だけ大きく手を振った。

 アーサー・カークランドという人は少々癖のある人物だ。
 別段工業学校でもないのに男子比率が異様に高いこの学校で、女子生徒会長を二年連続で勤めているところからも窺い知れる。
 一応民主主義的な選挙を行っているのだから、それなりに生徒間で人気があるのだろうけれど、先生からの信頼というものも大きいのではないかと思っている。
 そして、あえて言及するならば女子生徒の存在も大きいだろう。
 彼女達はそもそも男性よりも女性に票を入れがちだし、実際彼女は女の子にとても優しいのだ。
 その女の子に優しい女子生徒以外の立候補者に男子生徒が票を入れるというのは、少々勇気のいることかもしれない。
 それはそのまま女の子に優しい環境が気に食わないと言っているようなものなのだ。
 そして、女の子の敵に回るリスクを犯してもいいくらいに光る人間が立候補しない現実もある。

 そのため、彼女は三年生になった今も忙しそうに日々生徒会の業務に奔走している。
 服装やらなんやらに口喧しい様子は風紀委員の方が相応しいような気がするのだけれど、日常的に露出が多いというのは少し嬉しい。
 どうしてか分からないけれど、彼女の顔がとても好みなのだ。
 決して世間一般的な可愛さが彼女にはなく、かといって綺麗なタイプでもない。
 人前でスピーチをするときは必死で整える眉もとても太くて、髪の色が黒だったら目も当てられなかっただろうくらいだ。
 じゃあ、他の魅力があるのかというと、細いというよりやせっぽっちな方でどちらかというと貧相なイメージを与えてしまいがちだ。
 もしかしたら、その背格好の割には胸はある方かもしれないけれど、そういったってCくらいが関の山だと思う。

 どうしてそんな人を堪らなく可愛いと思ってしまう瞬間があるのかよく分からない。
 童顔のところにくらくらきてしまっているのなら、変態への第一歩かもしれないと考えたこともあるのだが他のベビーフェイスはぴんと来ないのであまり大きなファクターは占めていないらしい。

 それでも真っ赤になりながら、視聴覚室の真ん前で立ち尽くす彼女はとても可愛らしかった。
 どうしてか分からなかったけれど、意識を教室の内部に集中しているらしい。
 遠くから声をかけるのがもったいなくて、アーサーの下へ気配を隠しながら近づいていく。
 悔しいけれど、特別な顔をしっかりと見たいという気持ちの源泉は恋愛にあるのだろう。
 よりによってどうしてこの人に、と思わずにはいられなかった。
 普段の交流関係を考えれば絶対に縁遠いタイプの人種だったし、実際に彼女が目を付けてこなければ視線さえ合わせない関係だったはずだ。
 巡り会わせとか奇跡という言葉を使うにはいかにもきらめきが足りない間柄だけれど、それ以外の形容詞がみつからないのも確かである。


「――え」


 後三メートルもない、その辺りになってそれは突然鼓膜を震わせた。
 アダルトビデオで何度も聞いたような、女性の喘ぎ声。
 視聴覚室でAV鑑賞会をやっている馬鹿でもいるのだろうか、とも思ったがどうやらそうでもないらしい。
 つまり、この中で、セックスをしている馬鹿共がいるわけだ。

 そして、この人は逃げ出すこともできずにずっと営みを聞いていたのだ。
 そう思うと、思考の端が焼けるような感覚に襲われる。


「あ……んんっ」


 アルフレッドが漏らしてしまった声に肩を震わせてアーサーが振り向いた瞬間、思わず彼女の口を手で塞いでいた。
 開きかけた口内に指の腹が触れるどころかかりかりと前歯が引っ掻いて、首の後ろがちりちりと熱を持つ。
 暴れられる前に背後に回って両腕の中に閉じ込めてしまうと、思いの外静かにされるがままになってしまった。
 普段からしゃんと背筋を伸ばして歩いているからか、イメージの中の彼女よりずっと肩幅が小さいように思える。
 というより、一つ一つのパーツがとても小さい。


「生徒会長、忘れ物ここにあるの?」
「あ、ああ」


 口元の拘束を外してやって、耳元に囁きかければ震える声が返ってきた。
 普段より随分低くなった己の声に呆れながらも、この状況では致し方がないと結論付ける。
 彼女は顔どころか耳まで真っ赤になっていて、意図なんてこれっぽっちもしていないだろうけど誘っているみたいだ。


「待ってても、きっとどうしようもないよ」
「分かってる」


 ぼそぼそと応じるアーサーの体が熱い。
 この部屋に忘れ物があるのが分かっていたのだから、結構このドアの前で盗み聞きでもしていたのではないだろうか。
 普段から男性には興味がないというような素振りをしていたけれど、こっち方面にはちゃんと関心があったらしい。


「ねえ、ずっとここにいたの?」


 すん、と彼女の首筋に押し付けて鼻を鳴らせば、小さい悲鳴と共に女性が持ち合わせている甘ったるい凶悪な匂いが鼻腔を擽った。
 香水よりもシャンプーの匂いがしそうだと常々考えていたが、無香料の物を使っているのかそれらしい気配はない。
 鼻先で触れているだけでも如実に首が熱を孕んだのが分かって、その分かりやすさに笑みが零れる。

 五センチもない壁の向こうで睦みあっている男女がいて、それに立ち会ってしまったこれまた男女が二人。
 倫理とかこの後のことを思えば大問題になるのは分かっていたけれど、もう抑えようがなかった。
 だって、可愛い人が今、腕の中でのぼせたように体をかっかさせているのだ。
 その理由が外部の性的刺激に反応してだと思うと、こちらまで興奮が伝播して呼気に熱が籠もる。


「声聞いて、興奮しちゃったんだ」
「ち、ちがう」
「違うもんか。君の体、服の上からでもすっごく熱い」


 無遠慮にアンダーバストの辺りを撫で上げてやると、アーサーの呼吸が引きつった。
 どうしよう、可愛い。
 結構簡単に殴る蹴るの暴行を選択する彼女の性格を考えれば、あっさり逃げられる状況にあるというのに彼女はただ怯えるばかりだ。
 そんな態度を取られてしまうと、どうしても期待してしまうではないか。

 俯いている顔を顎に手を沿えて持ち上げて、アーサーの様子を窺う。
 真っ赤になって一見泣いてしまいそうなその表情は驚くほど嗜虐心を煽ってきて、思考の片隅にあった懸念が吹っ飛んだ。
 扉の向こうから切羽詰った泣き声が聞こえてきて、堪らない気持ちになる。
 この人を、腕の中で小さく震えているこの人を同じように鳴かせてみたい。
 きっと彼女はどんな女優より、今聞こえている声よりも可愛い声で溺れてくれるだろう。


「俺も興奮したよ」
「――っ、やっ、やだ、ジョーンズ……!」
「お願い、アルフレッドって呼んで」


 もう隠しようのない情欲を込めて、持ち上げた彼女の顔に唇を寄せる。
 その意味が分からないはずもなく、何とか顔を伏せようとしながら家名で呼んで精神的にも距離を取ろうとする彼女に命ずる。


「――ある、あるふれっど」 


 それが懇願の形を取っていたとしても、強制力は凄まじいものだっただろう。
 躊躇いがちに呼ばれた名前は妙に幼い響きを帯びていて、今度こそ明確に唇が笑みを形作った。


「ありがとう、アーサー」
「あ――んむ…ぅ、ふ……んんっ……ふ、ぁ」


 至近距離で名前を呼んで、虚を突かれたらしいアーサーに口付けをする。
 きゅっと抵抗のために唇を引き絞っていたが、胸元を撫でてやれば一瞬で瓦解してしまう。
 緩んだ噛み合わせの間から舌を滑り込ませて、奥に逃げ込んだ柔らかな舌を舐め上げる。
 ぶるりと肩が震えたのを合図に絡め取って丁寧に吸ってやれば、下腹の上から腰を固定している腕に縋るように手が添えられた。
 柔らかな唇や舌よりも、その仕草が最もアルフレッドを昂らせる。


「……ねえ、アーサー、一緒に馬鹿になろうよ。それとも、今から一人で忘れ物でも取りに行くかい?」


 唇を解放されて、必死に呼吸を整えていたアーサーの体が可哀想なくらいに震え上がった。
 彼女を視聴覚室に叩き込むことくらい造作もないことだ。
 アーサーもそれが分かっているらしく、ふるふると頭を振って見せる。


「じゃあ、生徒会室行こうか。大丈夫、もう誰もいないよ」


 ぎゅうっと一度抱き留める手に力を込めて、それから拘束を緩めた。
 顎に当てていた手で彼女の一回り小さい手を握ると、それ程遠くない生徒会室にまでの道のりを歩き出す。
 ほんの少しだけ冷静な部分が、素直に着いてくる彼女の違和感を伝えてくる。
 ジョーンズと呼んで、身だしなみを口喧しく指導していた彼女。
 気に食わなかったり、身に危険を感じたりするとフランシス辺りなら容赦なく殴り倒す人なのに。
 それでも、手を振り解こうとしないなんて。

 まるで、俺に気があるって言ってくれているみたいだ。
 咽るような熱気に満ち満ちた思考回路をぐんぐん働かせて、夕方の人気のない廊下を二人で歩きながらそう思う。
 遠くのグラウンドからやたら元気な挨拶が響いてきて、アルフレッドはそっと目を伏せた。