魔法の名前



      1

「どうして、俺には名前がないの?」
「ん? どうしたんだ、お前はアメリカだろう?」


 いつもの穏やかな疑問符と一緒にアーサーは空っぽになった皿を突く子供に当然のことを問いかけた。
 正しく彼はアメリカだったし、それ以外の何者であってもならない。


「そうじゃなくて、皆が持ってる名前みたいな奴だよ。イギリスだって、アーサー・カークランドって名前があるのに、どうして俺にはないの?」
「ああ、そっちか。……ほしいか?」


 ちんちんと鳴る皿とフォークを回収しながらアーサーが質問を重ねる。
 少年というにはまだ年若いかもしれない子供は、椅子から飛び上がって彼に詰め寄った。


「アーサーが決めてくれるの!?」
「俺が?」 「だって、名前はお父さんとか尊敬されてる人につけて貰うものだってみんな言ってたよ」


 言外に子供にとっての父親や尊敬している人に相当するだと告げられて、一瞬呆気に取られたらしいがすぐに頬の赤みがじわじわ広がっていく。
 ゆるりと表情を崩し、見上げてくる子供をアーサーは抱き上げた。


「分かった。少し時間がかかるけど、ちゃんと待てるな?」


 表情こそ見えないが柔らかな口調に子供まで破顔して、真っ直ぐな返事と共にしがみ付いた。





      2

 待てる、と言ったものの、何度も催促をして子供はアーサーを困らせたらしい。
 名づけの本やら人名事典を片手に四六時中彼がうんうん言っていたので、暇だったのも原因ではあるのだが。
 けれど、大切な人が自分の名前のために一生懸命考えてくれているなんて、普通ならこんなに健全な状況では味わえないだろう体験に優越感も抱いていたようだった。
 まるで、かかる時間に比例して、愛情が蓄積されていくように感じる。


「こら起きろ、アルフレッド!」


 アーサーが命名の可能性に捕らわれてから四日目の朝、寝ぼすけを起こそうとするアーサーの声で目が覚めた。
 ああそういえば、さっきも遠くからだったけれど、彼の声を聞いたような気がする。
 背伸びついでに漏れ出す呻きを自分で聞きながら、子供ははたとアーサーの言葉を反芻した。


「――アルフレッド?」


 開け放たれたカーテンからの光を遮るために夢うつつで上げていたらしいシーツを下げながら、子供は期待を込めて復唱した。


「そうだ。お前は今日からアルフレッドうわあ!」


 決めた名前に相当の自信があるのだろう、アーサーがしたり顔で名を告げようとする。
 しかしそれを最後まで待たず、子供が彼に突っ込んだ。
 何歩か後ずさることで転倒を免れたアーサーが安堵の息を漏らすのを余所に、子供がぎゅうぎゅう体を寄せてくる。


「ありがとう! じゃあ、じゃあさ! 俺、今日からアルフレッド・カークランドだね!」
「え、いいのか、それで」
「いいのかって、当然じゃないの?」


 フルネームを発表する前に自らと同じ家名で子供が己を称したので、アーサーが一瞬臆するように肩を強張らせる。
 推測でしかないが、彼だって子供専用の家名を用意していたのだろう。
 というより、子供が飛びついたせいで上がった悲鳴の前に口がエフの形を作ったようにも感じられた。
 きっとエフから始まる何かしらの音がアルフレッドの家名になるはずだったに違いない。
 けれど、子供自身が何の疑問も持っていない様子に、やはりアーサーは頬を緩めて鼻から息を漏らした。


「ならそうしよう。ほら、飯食いに行こう、アルフィー」


 寝起きでぼさぼさの髪を軽く手櫛で梳いてやって、アーサーは踵を返す。
 上機嫌の子供はベッドメイクもせずに彼に着いていくけれど、兄貴分は苦言の一つ漏らす気はないようだった。





      3

 夢は記憶の整理のためにあると聞いたことがあるけれど、果たしてこの情報を今このとき引っ張り出す必要があっただろうか。
 否である。断じて否だ。


「うぅ〜ああああ、くそう……」


 まだまだお天道様もお休みしているけれど、下手したら二度寝し損ねそうな時間に目が覚めてしまってベッドでのた打ち回る。
 段々目が冴えてきた。
 別にアーサーのようにおセンチな過去に思いを馳せようっていうわけじゃない。
 単に、名前について考えていたのだ。

 彼の植民地であった頃、カークランドの名を名乗ることは何ら問題なかった。
 けれど、独立してしまった今はまあ、どうかと思うと自分でも考えてはいたのだ。
 とはいっても、公式の名前でもない上に、相当親しいか親しかった相手でしか知らないとなるとそもそも話題に上ることもなかった。
 それでウン十年放置してしまったのはいただけない事態だったのかもしれない。

 思いの外本題が早く済んでしまって、かといって他の用事もなく上司と話していたときだった。
 結構素人の女性にも手を出すからだろうか、フランシス・ボヌフォワの名は結構知られるところらしい。
 お前に似たような名はないのかと尋ねられて、一気に冷や汗が噴き出した。
 アルフレッドだと答えるだけでは許してもらえなくて、独立前に付いた名前だと歯切れ悪く告白すると、一気に顔を顰められた。


「そりゃまずい。スミスにでも改名しなさい」
「俺は金物屋になった覚えはないんだぞ」


 アメリカに一番多いといわれる家名を冠するのはある意味アメリカとしては相応しいのかもしれないが、安易過ぎて何となく面白くない。
 少なくとも四日はかけなければ、名前に見劣りしてしまうだろう。
 だから咄嗟に次に会うまでに考えておくなんて言ってしまったのだけれど、腹立たしいことにぴんと来る家名が見つからない。
 いっそのことまるまる変えてしまおうかとも思ったが、いつの間にやら体に馴染んだ名前以上にしっくりくるものなどなかったのだ。

 もしかしたら、とくしゃくしゃになった足元のシーツを足で伸ばしながら考える。
 あまり認めたいことではないが、カークランドという家名は思いの外自分に馴染んでしまっているのではあるまいか。
 そうでなくては、名づけにアーサー以上の時間がかかっているなんて事態は起き得なかっただろう。
 自己分析でしかないが、別に凝り性になった覚えもない。

 良くも悪くも長年連れ添ってきたものを捨てるのは酷く気力体力がいる。
 その上何かしら名前を決めればそれで終わりではなく、マシューだのフランシスにだのに伝えるまでが仕事の一環なのだろう。
 そうすればきっと、アーサーにまで伝わってしまうに違いない。
 それを思うとさすがに気が重い。
 彼は簡単にアルフレッドが与えられたものを捨ててきていると考えているかもしれないが、そんなことは全くないのだ。
 それなりの葛藤もあって、今だっていらないことを夢に見るくらいには悩んでいるのだ。
 きっと彼はいっそ清々しいと形容したくなるほど、アルフレッドの考えなど無視して沈み込むに違いない。
 いい加減過去に終わったことを掘り返して、人の傷跡を刺激するのは趣味じゃない。
 そんなのは全然ヒーローらしくないではないか。

 面倒臭くて堪らない、とアルフレッドは溜め息を長々と吐きながらいつぞやのようにシーツに顔を突っ込んだ。
 一体どうすれば、少しでも負担にならずに済むだろうか。


「――ああ、そうか」





      4

「アルフレッド・F・ジョーンズにアメリカが改名したってさ」
「ふうん」


 紅茶に伸ばされた手に一瞬力が籠もったようにも見えたが、別段それ以上のネガティブなリアクションはなかった。
 その代わりにゆるりと体の力が抜けて、ミドルネームか、と独白のような感想が漏らされた。
 瞬きをする瞼は違和感のある動きをする予兆すらない。


「ショックじゃないの?」
「いや、むしろ今まで変えてなかったのが意外なくらいだろ」


 しかるべき日がやってきただけだという風に、アーサーはゆるゆると紅茶に口を付けた。
 その瞳を覗き込んでも困惑の気配すら見取れないどころか、どこかしら幸福感すら匂わせているように思えた。
 しかし、それもつかの間で、フランシスの視線に気づいた瞬間に負のオーラが湧き上がったのが分かった。


「死ね髭!」
「やだ、お兄さん心配してあげてるのに!」


 丁寧にカップが置かれてからの行動は早かった。
 鳩尾に喰らいそうになる拳を何とか避けながら、部屋の端まで逃げ出す。


「もー、この様子じゃアルフレッドの方がへこんでるんじゃないの?」
「いや、もしかしたらあいつ歯軋りしてるかもしれねえな」


 ふふ、と口元から零れ出る笑みは話の前後を考えれば、正直なところ背筋の寒くなるものだった。
 どこか螺子がぶっ飛んでしまったのではなかろうか。
 もしかしたら、そちらの方が彼にとっては幸せかもしれないが。


「やだ、アーサー気持ち悪い」
「うっせえ! 俺のつけた名前を残してくれただけで十分だろ!」


 確かに独立戦争のときに、丸々改名されていたってどこもおかしくはないのだ。


「それに、お前ミドルネームが何か知ってるか?」
「いや、ミドルネームがあった方が格好良いからとしか言ってなかったから知らないね」
「俺には分かる。それでいい――それだけで」


 勘違いかもしれない。けれど、少しでも許されたように思うんだ。
 そう言ってアーサーは少し笑った。
 ああきっと、知ったらあいつは怒るだろうなあ、ととても幸せそうに笑った。

 それから一ヶ月程後にアーサーはアルフレッドに会ったようだった。
 独立以降から尾を引いていたアーサーの余所余所しさは影を潜め、久しぶりに二人は派手に喧嘩をしたとのことだ。
 彼にとって、いや、彼らにとってアルフレッドのミドルネームがどれだけ大切なものだったのかは推測することしかできない。
 けれど、ぎこちなかった彼らの関係を粉砕するような魔法の言葉だったに違いない。
 代償にアーサーの自棄酒の頻度が増えてしまったので、毎度相手をさせられるフランシスにとっては呪いの言葉だったかもしれないがまあそれはそれとして。