きらきらひかる



 紅茶を二人分受け取って、待ち合わせの街灯の下に帰ってきたらフェリシアーノの姿が忽然と消えていた。
 屋外の立食会と知った時点ではぐれてしまう予感はあったものの、こうもあっさりいなくなられると逃亡を図られたような気持ちになる。
 待っていると言っておきながら不義理なことをすると思う反面、どうせ女性が通りかかったとかそんな理由なのだろうと諦念が湧き上がってくる。
 悲しいかないつものことだ。
 いくらか待ってみて姿が見えないようなら、適当に処理をしてしまうしかない。

 それでも漏れようとする溜め息を吐き出して背筋を正そうとした瞬間、妙な気配を感じた。


「ああ〜、振り向かないでいいですから」


 振り向く前に制止されて、殆ど反射的に動きを止める。
 フランス語訛りのある女性の声を手がかりにその姿を思い出そうとするのだけれど、スタンダードな茶色の髪と褐色の肌しか思い出せなかった。
 細かな造形を記憶の中で再現しようと四苦八苦していると、背後の気配が僅かに移動する。
 まるで逃げているような動作に気配の対角線上を探ると、予想通りそこにはアーサーの姿があった。


「……何かあったのか?」
「いえ、ちょっとフランシスさんに用事があって……」


 顔は動かさずに、背後に届くように注意しながら問いかける。
 鉢合わせさせると面倒だし、と言外に匂わせながらセーシェルはなおもじわじわ移動しながら返事をしてきた。
 不仲とはいえアーサーとフランシスが顔を合わせた瞬間に化学反応の如く爆発した憶えはないのだが、彼女がいると話は別なのかもしれない。
 二人とも随分昔から可愛がっているようだったから。

 いつも通りぴっちりとスーツを着込んだアーサーは誰を探しているというわけでもないらしく、視線をそうふら付かせることもなくそのまま人込みに紛れていく。
 その姿が見えなくなってから、セーシェルが肺に溜まった空気を深々と吐き出したようだった。


「ありがとうございます……ルートヴィッヒさん」
「いや、構わない。それよりフランシスの居場所は分かっているのか?」


 ちゃっかりとアーサーが消えていった方角とは反対側に回りながらも、セーシェルが一歩前に出てくる。
 ようやっと窺えた彼女の姿は晴れの場ということもあってか、念入りに飾り立てられていた。
 そうすると普段の姿の記憶が余計曖昧になって、いつかフランシスに見せられたカジキを抱える彼女と目の前の女性が同一人物なのか不安になってくる。
 化粧一つで女は変わるとはいうけれど。


「うい、あっちですね」


 フランス語訛りの返事と共に指し示された方角を追うと、久々に国外の公の場に現れた兄と某か話し込んでいるらしい件の人がそこにいた。
 あの組み合わせではなかなか話が終わりそうな気がしないのだが、彼女の視線は全く揺らがなかった。


「大丈夫です、待ちますよ」
「……そうか」


 兄が関わっているせいで妙な罪悪感を覚えて視線をやれば、ルートヴィッヒが口を開く前に真っ直ぐな視線と共に宣言される。
 相槌を打ちながらも適当に切り上げさせるべきかと思案していると、手元から小さな水音が響いた。
 すっかり忘れていたが、両の手に一つずつ紅茶が入ったカップが納まっている。
 視線を巡らせてみたけれど、フェリシアーノは見当たらなかった。


「ああ、その、飲まないか?」
「え、いいんですか?」


 このままずっと持ち続けるのも滑稽だろうし、目の前の相手に何も渡さないのもマナーに反する。


「渡すべき人物が行方不明だ」
「ありゃりゃ。じゃあ頂きます」


 口に出してしまうと、僅かながら苛立ちが沸き起こる。
 本人が待っていると言っていたのだから、最低限守るべきだろう。
 かといって、この不機嫌をセーシェルにぶつけるわけにもいかず、まだ幸い冷たいままのアイスティーを差し出した。


「……イギリス産ですね」
「そうなのか」


 カップを受け取ったセーシェルが紅茶を口に含んでたっぷり時間をかけて飲み込んだ後、産地を指摘してみせた。
 彼女にならって口にしてみるが、苦味が少ないながらも濃い香りが鼻腔を満たすばかりで産地は全く分からない。
 それだけ彼女がイギリスの紅茶に精通しているということだろう。
 そうなんです、と笑う彼女はとても穏やかな様子だった。
 砂糖もミルクも入っていない紅茶をもう一口飲む。
 ルートヴィッヒと同じように、するすると体内に入っていく島国の気配は彼女の中にも流れ込んでいっているのだろう。
 その馴染み様は彼女の方が幾分か上のように思えた。


「アーサーとは上手くやれているみたいだな」
「意外ですか?」


 最後の楽園と呼ばれる彼女がこてんと小首を傾げて見せるので、素直に頷いた。
 アーサーによって世界に引きずり出された彼女はそれを契機に沢山の苦痛を強いられたはずだ。
 そう彼らと彼女の関係を知っているわけではないので、予測でしかないだろうが。
 ただ、閉じた国が圧力を伴って外界に目を向けようとする苦労というのは菊から聞いている。


「変わらないものなんてないですから。だから、大丈夫です」


 過去はとても辛かったと言外に言われているようで、咄嗟に言葉が出なかった。
 そもそも自分はどんな返事を望んでいたのかと考えたものの、相応しい答えがみつからない。
 配慮に欠けた質問を無遠慮にぶつけてしまった事実に愕然としながらも、謝罪すら彼女への負担になる可能性に口を噤んだ。
 ルートヴィッヒの浅はかさからきた失敗を見通したのか、セーシェルは少し困ったように笑って見せる。


「悪いことも良いこともいつも急に始まって、いつかは終わってしまうんです」
「良いことも、か」


 随分と悲しいことだ、そう思わずにはいられなかった。
 小さな小さな島国で、全ては終わる定めだと悟らねば生きられなかったときがあったのかもしれない。


「だからこそ、例外なく悪いことも終わるんです。私はそう信じてますから」


 だから私達は変わっていける、と彼女は笑った。
 その瞬間、霧が晴れるように理解した。
 彼女は信じているのだ。
 いつか、いつの日か、このように人影に隠れて誰かに会いに行かずに済む日が来ることを。


「ああ、そうか、そうだな。……その通りだ」


 他の誰かが引き起こした喜びも己が引き起こした災禍ですら、密やかに始まり終わりを迎えていく。
 永遠に続くと思われたもの程、あるときを境に断絶してしまうのをルートヴィッヒは知っていた。
 そのはずだった。
 けれど今、とても小さな人から改めて聞かされてようやっと悟ったような、そんな気持ちにさせられる。
 終わるということは何かが始まること。
 大きな終わりはまた、大きな始まりとして人々に転機を与えるのだ。
 彼女にとっての大きな終わりと始まりは、現在までアーサーとフランシスからの多大な贔屓を残した。

 二人からの贔屓の終わりがより一層の友愛に繋がることを願って止まない。
 たとえば、三人が並んで話ができるような。


「ルーイ!」


 ルートヴィッヒが表情を緩めるに合わせて、セーシェルが笑みを深くした。
 少し大人びた化粧には似合わないかもしれないが、大層可愛らしい彼女が口を開ける前に背後から耳に馴染んだ声が聞こえてきた。


「あ、セーシェル、こんにちは! すっごい綺麗だよー」
「フェリシアーノさんこんにちは、ありがとうございます」


 街灯を支えにしてセーシェルとルートヴィッヒの間に入ってきたフェリシアーノの挨拶に、彼女は一切怯んだ様子もなくお辞儀をする。
 呼吸をするような褒め言葉はフランシスのそれで慣れっこなのかもしれない。


「あれ、俺の紅茶は?」
「待てもできない輩が何を言ってるんだ」


 挨拶と同時に浮かんでいた満面の笑みのまま、彼女の持っているカップに気がついたらしいフェリシアーノがやっとルートヴィッヒに視線をやった。
 当然ながら手の内には紅茶が半分程度しか残っていないカップがあるばかりだ。
 ぴしゃりと言ってやって、愕然としたらしいフェリシアーノを尻目に紅茶に口を付ける。
 外界の騒がしさとは全く異質な芳香は精神を落ち着かせる代償に、フェリシアーノの駄目さ加減を浮き彫りにした。


「ええええ! だって俺、美味しそうなお菓子があったから取りに行ってたんだよ!?」
「どうして俺が帰ってくるまで待てないんだ!」


 全然理解ができないとばかりに声を張る駄々っ子に引きずられるように大声を出してしまって、手の内の紅茶が揺れる。
 まるで、静謐な己には大声が似つかわしくないと主張しているようだ。
 彼女の言が偽りでないのであれば、お前の主もなかなかだろうに。


「顔が怖いよ! 怒んないで、ごめんなさいー!」


 些細な反目が一喝によってあっさりと崩れ去り、溜め息を吐かざるを得なかった。
 こうなるとこれ以上責めたところで相手が一応は非を認めているのだから、後味が悪くなるばかりだ。


「あのー、紅茶取ってきましょうか?」
「駄目だよ。それよりも何かほしいものない? これも食べてね。ルーイも食べてね、俺紅茶も持ってくるから」


 セーシェルが恐る恐る提案した瞬間、フェリシアーノが真剣な表情に一変した。
 彼女の提案を毅然と拒否するに止まらず、チョコレート製の焼き菓子を差し出した。
 そのままルートヴィッヒにも渡して、ひらひら手を振りながら退避を兼ねているのか物凄い勢いで遠ざかっていく。


「……揺らぎない」


 ぽつりと感心したような呆れたような呟きをセーシェルが零して、それでも人込みに消えていく背中から視線を離すことはなかった。
 それから手渡された菓子を口に含んで頬を緩めて彼女はルートヴィッヒを見上げてきた。


「美味しいですよ。凄く素朴な味ですね」


 ああ、この瞳はフェリシアーノに似ているのだ。
 偽りのない視線に真っ直ぐな言葉。
 アーサーとフランシスはこの真実に惹かれているのだろう。
 国同士のやりとりにおいて、偽りとまでいわなくとも伏せられる事実がないとは口が裂けてもいえない。
 それ故に、彼らのような存在はかけがえなく。


「こういう場所でこういう手合いは珍しいな」


 見目よりもずっと軽い菓子を口に含むと、ほろほろと先から解けていく。
 甘味がきついようにも思えたが、表面の焦げたほろ苦さが過剰分を上手く相殺していた。
 見た目の素朴さから食事会ではそうお目にかけられない一品ではあったが、立食だったため持ち運びの利便さが有利に働いたのかもしれない。


「ええ、でも儲け物でした……あ、フランシスさん」


 話が一段落ち着いたのかそれとも単にセーシェルの存在に気づいただけなのかは分からないが、いつの間にやらひらひらと手を振っていた。
 途端に焼き菓子の残りを口に放り込み紅茶で流し込んで、セーシェルが小さく会釈する。


「じゃあ失礼しますね」
「ああ、また機会があれば」


 空になったカップを受け取って、小走りに去っていくセーシェルを見送る。
 兄が遅れてルートヴィッヒに気づいたらしく派手に手を振り回しているけれど、どうもこちらまで来るつもりはないようなので手を上げるに留めた。

 それから遠くから、結局現場を目撃してしまったらしいアーサーの怒声が聞こえてきた。
 余裕綽々の笑みを浮かべるフランシスが余程気に触ったのか、一気に威嚇のテンションが跳ね上がる。
 めぼしい物を手に入れて帰ってきたらしいフェリシアーノがアーサーのぴりぴりした気配に当てられて、今にも走り出してしまいそうな勢いで帰ってくる。
 結構ひたひたに入っているらしい紅茶が零れないか正直気が気でなかったが、犬ころのように寄ってきた彼の手元は幸い無事らしかった。
 先程までの逃げ出しっぷりはどこへやらといった態度だけれど、不思議と苛立ちは覚えない。
 追加の菓子まで持ってこられてしまっては、全ての所業を忘れ去って笑ってしまうしかないではないか。

 彼らはとても小さいかもしれない。
 けれど、その光は時に北極星のようにその揺らぎない小さな輝きでもって、進むべき道を照らし出すのだ。