クイーンクラブだそうだ。なんてこったい。
女王様がどうだのといった宣伝文句が印字された看板を呆然と視界に入れてから、愛機であるスマートフォンに視線を落とす。
駄目だ。一瞬ピントが合わなかった。
視神経を叱咤して液晶を見ても、残念なことに目的地と店名が一致しない。
大手ではないけれど変わった品揃えをしているらしい同人誌販売店に行きたかったはずなのに、これは一体どうしたことだろう。
オタク的な意味で幅広い守備範囲を誇るのなら、素直にまんだらけや虎の穴で満足しろとの神からのお告げなのだろうか。
いやしかし、オタクの神ならば言うはずだ。
求めよ、されば開かれん、と。
「おっと」
「わ、あ、す、すみません!」
その解釈だと、ここに踏み込むのがオタクの新たなる道だと言われている気がしてきて、思わず身を引いた瞬間背中に衝撃を感じた。
それから人の声が聞こえて、振り返ればスーツの男性がそこにいた。
たじろいで距離を取ってから、漸く彼の全貌が明らかになる。
最早絶滅危惧種に近いスリーピースを一つのボタンも外さずに着こなす姿に、まず心のシャッターを一度ぱちりと鳴らした。
見下ろす顔は立派な眉が一番に視界に飛び込んでくるが、綺麗な目鼻立ちである。ぱちり。
それでもって、ぱさぱさしながらも落ち着いた金の髪と同じトーンの緑の瞳。
これは間違いなく格好良い人に分類される類の男の人だと結論付けて、最後にもう一度シャッターを押した。
外国人を見慣れていないので、かなり自分本位のカテゴライズだかまあそれはそれとして。
どうしてこの人はこんな所にいるのだろう。
「構わねえよ。それよりも入らないのか?」
「はい、りません」
ぷるぷる頭を振って否定してから、悪戯めいた表情を察する。
確かに夜の帳も下りない時間に、女王様から考えれば初心であろう女がその手の店前で立ち尽くしていればからかいたくもなるだろう。
だからといって、その意地の悪さを受け入れることもできずに頬が熱くなった。
「道に! 道に迷ったんです!」
「それGPS付いてるんじゃないか?」
勢いで状況説明をすると、理屈がおかしいとばかりに握り閉め続けていたスマートフォンを指差される。
今は憎いばかりの愛機を見下ろしながら、男性の日本語がやけに流暢なのに気がついた。
スーツ姿なのだし、もしかしたら営業の類なのかもしれない。
だとしたら、外国まで来て因果な仕事をしているものだ。
「いや、ちゃんと住所登録したはずなんですけど、全然違う所に着いてしまって」
間違いのないように何度も打ち込んだ住所を確認したはずなのにこの様だ。
携帯電話がおかしくなっているとしか思えないが、そんなことは最早どうでもいい。
早く、一刻も早くお家に帰りたい。
「見せてみろ」
口にするや否や携帯電話は毟り取られ、手馴れた様子で何やら操作されている。
「静電気体質とか」
視線は液晶に落としたまま、独りごちるように尋ねられたので冬の自分を顧みる。
時折とはいえ、車とふくらはぎの接触で電気が走るのはどちらかというと標準的ではない部類だろう。
「えと、そうかもしれません」
「ああ、ならそれでかもな。これは結構静電気に弱いらしいし。ほら、ソフトリセットしてやったから、これで駄目だったら一回店行ってこい」
あっさり奪われた携帯電話はあっさりと返ってきた。
読み込みが続いているらしい愛機を一度鞄に押し込んでから、一応頭を下げておく。
「ありがとうございます」
「で、これからどうするんだ?」
こてんと小首を傾げられて、予想外の仕草に心臓に負担がかかった。
どうしよう、この人可愛い。
「その、家に帰ります」
「用事が済んでないんじゃないのか?」
先程よりももっと不思議そうに質問が重ねられて、一瞬くらりとする。
いかん、三次元ではそれなりに自重できていると思っていたのに。
「急にどっと疲れてしまいましたから」
犬猫との触れ合いパークならまだしも、女王様とのめくるめく世界に辿り着いてしまって心労が堪らない人間はそういないだろう。
それにしても、なるべくそういうリアルとは関わらずに生きていきたかった。
現在この店が営業中かも分からないが、日毎何が繰り広げられているかなんていうことは明らかなのだ。
女王様とのSMプレイなど、さすがに理解できる領域ではない。
しかし、そんな後ろ暗い感情は笑みを深めた彼の口元を前には儚いものだったようだ。
余裕がない故に表情に出てしまったらしい嫌悪の表情を、彼は笑ったに違いない。
面白いものを見るような、嗜めるような色を湛えた微笑に堪えかねて視線をさ迷わせる。
TPOで考えるとさっさと話を切り上げてしまいたい気もするが、この格好良いくせに可愛い生き物を記憶に留めるのも重要に思える。
「そうか。なら帰ろう」
「はい――はい?」
あんまりにも当然という風に彼が言うから、条件反射のように頷いてしまった。
けれど、何かがおかしい。
これではまるで、彼自身も帰るような物言いではないか。
「どうせ、携帯ばっかり見てて、道なんて碌に覚えてないだろ。どこまで出ればいいんだ?」
「ええと、じゃあ駅の近くまでお願いしていいですか……?」
全くもって図星だった指摘に申し訳ないとは思いながらも、一人にされても確実に帰れるだろう場所を上げた。
どれだけ携帯電話の案内に気を取られて周りを見ていなかったのかが分かる発言に、男性はやはり少し笑って見せた。
「もちろん、お嬢さん」
「――いえ、あの、そんな大層な者じゃないですから……!」
駄目だ、リアルって怖い。
やけに芝居がかった言葉にたっぷり深呼吸一回分の空白をおいてから悲鳴に近い声を上げる。
可愛らしい友人に毎度今日も美人だと挨拶してくるゼミ仲間もなかなかだと思っていたが、よくもまあどちらも平然としているものだ。
「じゃあ、名前を教えてくれないか? 俺はアーサー・カークランドだ」
「本田菊です」
答えてから、名前を聞き出す戦略だったのではないかと思い至る。
まるで一種のナンパみたいだとは思わなくともないが、世の中にはもっと素敵な女の子が溢れているはずだ。
深夜になれば家に帰りたがらない娘も山ほどいるし、ナンパとはベクトルが違うだろうが出会い系なるものも調べれば沢山見つかる。
それでなくても十分綺麗な顔をしている外国人なのだから、千切って投げられるレベルに女の子は寄ってくるだろう。
よって、日陰なサブカルチャー女子を引っ掛ける理由などどこにもない、とは思うのだけれど、出会った場所が気にかかる。
もしかしなくても、妙な趣味を持っているのだろうか。
「ん、菊だな。行くぞ」
あっさりと名前で呼ばれてしまったのだけれど、訂正するのも気が引けておずおずと頷く。
まあ、そう長くもない縁なのだからそう目くじらを立てても仕方がないと自分に言い聞かせた。
歩き出す彼の足は随分長い。
近頃の日本人だって腰の位置は高くなったらしいけれど、やはり本場には敵わないように思える。
もちろん背が高いのもその理由の一つのはずだが。
けれど、流暢な発音に似つかわしく、アーサーは日本人女性と並んで歩く技術も心得ているようだった。
「荷物持とうか?」
「いえ、大丈夫です。すみません」
返事は平静に聞こえていただろうか、と竦み上がった肩を直しながら考える。
例の販売店で売り払おうと思っていた本達が少数であるがこのショルダーバックに眠っているのだ。
しっかりとチャックで蓋が閉められるタイプの鞄とはいえ、死んでも渡せるものではない。
というか渡したら最後、自分が死ぬ。
少し残念そうにそうか、と返事をするアーサーを見ていると気まずくなってしまい視線を下げる。
そうすれば、彼の持っているアタッシュケースが視界に入った。
「あの、お店いいんですか?」
「ん? まあ、新入りもいないしな。今日は別に」
どうして聞いてしまったのか自分でも分からなかった。
臭いものには蓋をするのが我が国の文化ではなかったのかと、少し泣きたくなる。
平然と返された答えはどう考えても彼があの店の常連であると饒舌に語っていた。
女王様のお客さんとなると漠然とおじさんであるというイメージがあったが、どうやらそうでもないらしい。
くそ、どうして二次元のネタじゃないんだ、この状況。
「ええと、やっぱり営業とかでは」
「今日は直帰だったんだけど、思ったより早く済んだんだ」
自分の声は震えてこそいなかったが、硬く緊張しているのが分かった。
それでもアーサーは少し嬉しそうに話をする。
そうですね、早くお仕事が終わったら幸せですよね。
私も早く帰りたいです。
と脳内で語りかけていたところ、突然横っ面を張り倒されたような気持ちになった。
創作の神の類から、非常にありがたい天啓という名の電波を受けたようである。
要約はすると以下の一言に尽きる。
つまり、そのネタは美味しい。
なるほど確かにその通りだ。
ここは彼の話を聞くことで、新刊のネタが得られるのではあるまいか。
やはり、女性向けでのSMというものはどうしても王道に偏りがちなのだ。
少なくとも自分の中にはサディストやマゾヒストのストックが非常に少ない。
知識で得ることはできたとしても、実際に話を聞くには遠く及ばない。
百聞は一見にしかずである。
いや、見ないが。
神様、私頑張ります!
「新人が、ってことは常連なんですか?」
「月一って常連か?」
嫌がられるかと思ったが、少し視線を宙にさ迷わせてから反対に疑問をぶつけられた。
オープンなマゾヒストなのか、それともそういうのがお好きなのかはよく分からない。
「髪切るとかはそれで常連ですけど……感覚的にはマッサージとかエステの方が近いのかもしれませんね。そっち方面も疎いのでよく分かりませんけど」
「まあ、もう少し趣味が合えば顔出したいんだが」
アーサーが不満を滲ませながら、細い路地に足を踏み込んだ。
この一帯だけがやたら狭かったので、一気に不安になったのを覚えている。
今見返すと、ある種の風情を醸し出していて、写真に収めてみたいくらいだ。
一人ではないとこれ程印象が変わるものなのか。
「へ、趣味じゃないんですか?」
「ああ、そうなんだ。方向性の不一致だな」
それよりも、とアーサーがなんら後ろめたさを感じさせない接続詞を発声する。
あまりに平然とされていると、何の話をしていたのか分からなくなるから不思議だ。
そんなことをぼんやりと考えていたのが悪かったのかもしれない。
「俺はSにされるよりも、ノーマルにされる方が好きなんだ。さすがにそういう注文は難しいからな」
「へえ、そうなんですか」
あまりにあっさりと、まるで天気も話でもするように彼が言ったので、こちらもさらりと相槌を打ってしまった。
それからはたとアーサーの発言を反芻することとなる。
つまり、彼はサディストとのプレイよりも一般的な性趣向を持ち合わせた人物との方がお気に召しているらしい。
よく分からない。
それだといたってノーマルな性交渉しか望めないのではないか。
いや、そもそもサディストやマゾヒストに性行為が必須かといえばそうではないのかもしれないが。
では、所謂セックスの類をしないとなると仮定すると。
「……どういうことです?」
くるんくるんと頭を回してみたけれど、全くそれらしい答えがみつからなかった。
首を傾げて見せると、軽々しく相槌を打ったせいか意外そうに目を丸めていたアーサーがふふ、と息を漏らした。
軽やかに零れた微笑と共に、彼の国の言葉らしい音も唇から転がり出す。
英語のようだったが、それ以外は一切分からなかった。
聞かせる気のない海外の言語とはこんなにも聞き取りにくいものだったのか。
「……ああ、悪い。こういうことだ」
しっかりかっちり訛りのない日本語でフォローがあったと思ったら、アーサーが一気に距離を詰めてきた。
反射的に同じくらいに距離を取ろうと足を下げたが、路地のビルの壁に踵が当たってしまう。
状況が分からないまま顔を上げた刹那、視界にビルの合間で異質に光る金の髪が零れ落ちてきた。
それでも薄暗い路地の向こう側にある明るい空のコントラストばかりが瞼に残ったのは、一体どうしたことだろう。
その瞼に柔らかな感触が落ちてきて、指先に震えが走る。
慌てて頭を引いて、やたら力のある瞳が自分を捕らえた瞬間、本能に近いところが両の腕に単純な命令を発した。
「っ――! なに、何なんです!」
アーサーを突き放した腕の力とは反対に、声は情けないほど震えていた。
対して彼は取り乱した様子は全くなく、ただただ菊を見据えている。
一挙一動をじっと観察者の瞳で見詰められて、正常な判断らしいものは根こそぎ吹っ飛んでしまった。
「女の人なんて沢山いるじゃないですか、なぜ私なんです! マゾっていうのも嘘なんでしょう! そんな人がこんなことする理由なんかないじゃないですか!」
「嘘じゃない」
怖い怖いと鳴り響く警鐘に従って出せるだけの大声で喚いているのに、喉が絞まっているのかやけに掠れた声色しか出ない。
ぴしゃりと否定されて竦んだ肩を見て、アーサーが目を細めた。
「……そうだ、そうやって嫌がられると堪らないな。俺が怖いか? 気持ち悪い?」
「や、やだ、許して……やっ、触らないで……!」
伸ばされた手を振り払った瞬間、爪先が柔らかな物を抉る感覚がした。
恐怖に肩どころか全身が縮こまったというのに、実際に痛みが走ったであろうアーサーは嬉しそうに口角を上げる。
充足感に溢れながらも、ぎらぎらしたその瞳。
ああ、彼は今欲情しているのだ。
「嫌悪を向けられたりするのが好きなんだ。そういう風に傷つけるのを怖がっているのもいいな」
ならば、女王様とはそりが合わないだろうと暢気な感想が思考の端に過ぎる。
本人が言っていたように、ノーマルを装うという演技はなかなかの難易度のはずだ。
ぶつけられた欲望はもしかしたら、菊自身もよく知るものなのかもしれない。
ただ、そのベクトルが違うだけで。
そう思うとほんの僅かな切なさと共に、日常的な思考が戻ってきて気づいたときには勢いよく頭を下げていた。
「すみません、趣味じゃないんです!」
考えるな、と全思考に命ずる。
同人界にもよくある話ではないか。
別に特定のカップリング至上主義ではないものの、滾らない組み合わせは確かにある。
否定をする気などはさらさらないが、空気を読まずそのカップリングを押し付けようとするのはのはルール違反だ。
そうだ、彼は今そういう道に誘い込もうとしているだけなのだ。
断じて女性を襲おうとしているわけではなく。
とりあえず今はそういうことにしておかなければならないのだ。
それから彼の顔も見ず、全速力で逃げ出した。
彼女の姿と反響する足音すら消えた後、アーサーは足元に置いたままだったアタッシュケースを開けて携帯電話を取り出した。
それにしても、随分立ち直りが早くて少々面食らってしまったが、気骨があるタイプは嫌いではない。
流されながらも我を保ってくれるに違いない。
「趣味じゃないのがいいって言ってるのにな」
ああいう態度が可愛いのだけれど、きっとそれ以外に彼女に取れる選択肢などなかったのだろう。
携帯電話を蚯蚓腫れの残る手で弄りながら、彼女の反応を思い出すと知らぬ間に熱を持っていた吐息が漏れ出した。
心底からの恐怖が向けられる瞬間はそう得られるわけではない。
アドレス帳から新規登録を開いて、菊の携帯電話を弄った際に覗かせてもらった彼女のメールアドレスと電話番号を登録する。
それから、画像フォルダにアクセスして最新の画像を選択した。
そこにはクイーンクラブの目の前に立ち尽くす彼女が映っていた。
困惑の中にいくらかの侮蔑が浮かんだ横顔に、久々に芯からあまやかな感覚が溢れ出す。
日本人の中でも童顔だろう顔に、所謂東洋人フェチが気に入りそうなあまり手の込まない素朴な化粧。
唇に滑らされた輝きはグロスというよりは保護を目的にしたリップだったろう。
自然にゆるゆると持ち上がった睫毛の奥の瞳に、ああ今にも捕らわれてしまいそうだ。
一目惚れとはこういうことかと、そう思った瞬間に全ての覚悟をしてしまった。
たとえば犯罪者になってしまう可能性とか、その類の懸念は本当に些細なことに思える。
メールを受け取った彼女が一体どんな思いに駆られるかと考えただけで堪らない気持ちになる。
携帯電話を放り投げて、何もなかったことにするだろうか。
それともメールアドレスを変更するどころか、携帯電話を契約し直してしまうかもしれない。
けれど、その可能性は限りなく低く思えた。
それこそアーサーのような性質の者でない限り、いかがわしい店を前にした自分の写真を他人に好きにされたいとは思えない。
きっと彼女はこの誘いを断ることはできないだろう。
そっと彼女の写真に口付けて、画像添付のメールを作成する。
いつか彼女が恐怖を胸にアーサーの指に噛み付いて、消えない傷跡を作る日を夢見て。