失敗の月曜日



 不思議な話だが大都会であろうとも、知人に会うときは出会ってしまうものだ。
 大抵は珍しいこともあったものだなんて言い合うのが常だが、今回に限っては挨拶の言葉も出なかった。
 昔は弟分だった男が男とキスをしている現場を見てしまって、お盛んで、とか言えるのはどこぞの髭だけだと思う。





「その、うん、まあ、もう分かってると思うけどさ」


 始めは結構な衝撃だったせいで、相手がどこに行ってしまったのか、どうして二人で夜更けの街をさ迷うことになったかもよく覚えていない。
 けれどまあ、落ち着いてしまうと言い澱むアルフレッドなんて世にも珍しいとか考える余裕が出てきたようだった。
 どこまで本当か分からないけれど、全人口の3パーセントは同性愛者とかう話もいつか聞いたような気がする。


「ゲイなんだな」


 先手を打って聞いてやれば、アルフレッドが一瞬肩を震わせてから観念したように頷いた。
 どうやら死刑宣告のように響いたのか、彼の瞳の奥に怯えがちらついているのが分かる。
 そういえば、小さな頃に失敗したときもこんな具合だったような気がする。


「まあ、あれだ。ここでゲイじゃないって言われた方が俺は怖い」

「――確かに事件の臭いしかしないね、それは」


 慰めになっているのかどうか分からないが、とりあえずは忌憚のない意見を告げる。
 アルフレッドは上滑りした調子で笑って、雑踏に視線をやった。
 誰も彼も自分の周りばかりに気をやって、彼のカムアウトに聞き耳を立てる余裕などないようだ。


「じゃあ全然女には興味ないのか?」

「君、いきなり突っ込んだ話してくるね……」


 密談は人込みの中でとはよく言ったものだと感心しながら、何の気もなく問いかけた質問だった。
 しかし、アルフレッドは予想だにもしていなかったらしく、人込みに向けていた視線をアーサーに走らせた。
 あ、大分げっそりしてら。


「クソ髭の前例があるからなあ」

「ああ、そういえば大先輩か。いや、別に俺はあそこまでバイじゃないけど」


 驚いてはいるけれど、長く生きている分それなりの性癖の持ち主には出会ってきているのでゲイなんぞまだ可愛らしい方だ。
 フランシスの所業を思い出したのかふっと遠い目をしてから、アルフレッドがぷるぷると首を振る。


「そこまで?」

「ええと、その、女の人は好きになれるんだよ。でも、その体には興味がないというか」

「なるほど、欲情しないんだな。じゃあ、俺の読んでるエロ本も興味ないわけだ」


 もごもごと濁すアルフレッドの言葉を保管してやれば、さっと刷毛を塗ったように彼の頬が赤く染まる。
 アルフレッドと猥談をしたことなど今まで一切なかったが、まさかこんなチェリーな反応をされるとは思いもしなかった。
 結構楽しい。


「アーサー、ここ往来だからね……! それに読むっていったって、会議場で読むのはどう考えてもアブノーマルなんだぞ」

「あーはいはい」


 別にプレイボーイなんて可愛いものではないか。
 本屋で立ち読みをする輩だっているのだから、まだ閉鎖空間である個室で読んだ方が幾分かましなように思える。
 どうやら反応が気に食わなかったらしくむっつりと黙り込むアルフレッドを見ながら、愛していながらも欲情しないという感覚に思いを馳せてみたがよく分からなかった。
 どちらかというと女性的な感性に近いのかもしれないが、女性が男性のパーツに欲情しないなど言えば様々な方面から叱られることだろう。
 その辺りのあれこれはともかく、とりあえず自身が幾分かバイの傾向にある自覚はあるらしい。


「で、どんなのが好みなんだ?」

「君さ……とりあえず君は好みじゃないよ」


 ちらりとやはり人込みを窺ってから、口早にアルフレットが言い放つ。
 少し諦めたような、投げやりな響きにどうしてか笑みが零れそうになったが本格的に怒られるのは避けたいので、どうにかして口元を引き下ろした。
 発言についてはそもそもアーサー自身が喧嘩を売っているような形になっているのでこの際抜きにする。


「童顔が好きって奴ももちろんいるけど、やっぱりイカニモ系っていうの? あの辺が主流だね」

「別に俺はゲイ業界の主流が聞きたいわけじゃないぞ」


 一瞬かっと目を見開かれてぶん殴られるかと思ったが、次の瞬間に諦念の色が浮かんで全身から緊張が抜けたようだった。
 何か吹っ切ってしまったのか、強張りが抜けた肩と同様に声のトーンまで変化したように思える。
 上滑りするような軽さを持った声はいつもとは全く異質で、随分精神的な衝撃を受けているのがみて取れた。
 ふ、と漏れ聞こえた吐息は溜め息というのも憚られるような密やかさを持って響く。


「そこそこに筋肉があって、あっさり系の顔かな。あと、ある程度ガタイはほしいな」

「あっさり……東洋系ってことか?」


 記憶を掘り返してあっさりした顔を選んでみると、どうしてもアジア系が頻出する。
 しかし、彼らは西洋人と比べれば身体の面では少々劣っている傾向にあるのではなかろうか。


「いや別に人種を限定する気はないし、どうしてもそっちだと可愛い系の方が多くなっちゃうかな。具体的に知りたいなら、今度気に入ってるAVでも貸そうか?」


 実のところ、自分の予約したホテルに進め続けていた歩みを一旦止めてしまったのは、目の前の信号が赤だったからである。
 じりじりと前進する輩がいるからにはすぐ青になりそうだと思考の端で算段しながら、同じく信号待ちのために立ち止まったアルフレッドを窺う。
 いつの間にやらいくらか気力を取り戻したらしく、少し挑戦的な笑みを浮かべているところがいじらしい。


「なら俺もお勧めのコールガール送ってやるよ」

「……勘弁してくれよ」


 ノンケからすれば彼の言うところの可愛い系の方がゲイに向いていると思われがちなのは経験上知っている。
 個人的な諍いから大規模な戦争の間に、どれだけその手の罵倒や噂を流布されたか分からないくらいだ。
 だから、一切の動揺を感じないままアルフレッドに仕返しをしてやる。
 対する青年は後悔の色を滲ませながら、一度ぎゅうっと眉間に皺を寄せてからずれたテキサスを戻して見せた。


「まだまだだな」

「ああー、はいはい、今回は俺が悪かったんだぞ」


 灰鼠のコンクリートに視線を落としながら、アルフレッドはさもかったるそうに謝罪の言葉を吐いた。
 自分の非は認めてはいるようだが、だからといって他の要因までも背負い込む気はないらしい。
 端々から不服の念が滲み出すのが手に取るように分かる。


「やる気ねーなー。ならさ、お前、タチネコどっちなんだ?」


 その気概があるのならまだ突っ込んでも問題ないだろう。
 こういう風に色々聞き出せそうな機会はあまりないのだ。
 ゲイの筆頭としてはフランシスがいるが、彼に尋ねたら自分の貞操が危ないだろうから不用意に聞くことはできまい。
 そもそもどうして人の性癖なんぞを根掘り葉掘り聞くのかという疑問も己の中にないわけではない。
 が、隣人のちょっと変わったニュースが気になるのはしかたがないのではなかろうか。


「おーい、アルフレッド?」

「――どちらかというとタチが良いくらいかな?」


 信号が青に変わったけれど、アルフレッドが動き出す様子はなかった。
 後で信号待ちをしていた人が不愉快そうな気配を漂わせながら、アーサーとアルフレッドの間を擦り抜けて行く。
 質問が許容量を越えてしまったのかと思って撤回しようとした瞬間、まるで答えるのが義務だとばかりにアルフレッドが回答した。


「ネコすんのか!? まあ確かに、お前も結構童顔だしなあ」

「声が大きいよ……! だから、絶対タチがいいって言われたら譲っちゃうときもあるね」


 再び雑踏に足を踏み入れながらアーサーが驚嘆の声を上げると、アルフレッドはあからさまに顔を顰めて見せた。
 密やかな声で告白するアルフレッドの顔は隠していた性癖の暴露のためか、どこか興奮しているようにも見えた。
 そのどこか幼い表情は所謂可愛い系が好きな男に好かれるだろうし、脂肪率が気にならなくもないががっしりとした体つきももてる一因にはなるはずだ。

 ああ、けれど、なんだか不思議な感覚だ。
 自分がゲイではないからそう思うのだろうけれど、こいつに突っ込みたい奴の心理はさっぱり分からない。


「なんとなく想像してることは分かるけど、別に俺ネコで最後までやったことはないんだぞ」

「やって途中で寸止めって、よく我慢できるな」


 本番なしが前提の風俗に行くならともかく、行きずりの相手を引っ掛けて途中でお終いというのはどうなのだろう。
 個人的な意見ではあるが、相手がいきなりそう言い出したら殴りたくなるに違いない。
 実際に手を出すかどうかは相手の出方次第だけれど。


「だってさ、男同士だとどうしても準備がいるし、結構大変なんだよ。泣き喚くのをどうこうしたいって人ならありかもしれないけど、俺はそういう趣味じゃないし。結局我慢大会というか」

「ああ、それはむしろ愛がないと無理そうな感じだな」


 確かにそっちを使った性交が男特有ではないのは知っているし、そういうAVだって世に出回っている。
 しかしそれが、AV界に止まっているのはそれなりに理由があるからだろう。
 アーサーだって浣腸がどうだのとか水に溶いたワセリンを使うとか聞いたことはある。
 ウイダーゼリーをどうこうとかいう記述もどこかで見た気がするが、あれは事実なのだろうか。


「だろうね。正直何ヶ月もかけて慣らしたって話を聞いたときは感動したさ」

「……なんというか、正に愛のためのって感じか」


 たとえ理由があろうとも、何ヶ月も相手に触れている状態で堪え続けるのは正気の沙汰ではないだろう。
 少なくとも自分にできる芸当とは思わない。
 感動したと言っているのだから、本人だって似たような気持ちなのだろう。


「ところでさあ、これどこに向かってるんだい?」


 信号を渡りきって、二股に分かれる道を迷いもなく右に進路を切れば少し遅れてアルフレッドが付いてくる。
 ようやっと疑問に思ったらしいアルフレッドが歩幅を大きくしてアーサーの並んでから、首を傾げて見せた。


「ん? 今日の俺のホテル」


 今から呑みに行く気も起きないし、明日だって何の用事もないわけではないのだ。
 こういうときはさっさと帰って寝るに限る。


「どうせ、お前今日寝る所ないだろ? ソファくらいなら貸してやるからさ」

「へ、ええ?」

「こら、いきなり止まるなよ。邪魔になるだろ」


 疑問符ばかりを飛ばして突然棒立ちになったアルフレッドの腕を引っ張って、もう目の前にあったホテルの玄関にまで移動する。
 途中で腕は振り払われてしまったけれど、彼が付いてこないということはなかった。
 ホテルでチェックインをしてエレベーターで二十二階まで上がり、一晩限りの自室のドアが閉まるまで、アルフレッドが口を開くことはなかった。
 けれどそれも、オートロックが締まった瞬間に破られることとなる。


「君何考えてるんだい……!」

「へ?」

「男二人でシングルに入るとかどう考えてもゲイカップルじゃないかい!」


 安いホテルではないからそれなりに防音は効いているだろうが、アルフレッドは声量を抑えながらも語気を荒げた。
 一応はツインへの変更を申し出たのだ。
 しかし、ちょうど部屋が埋まってしまっていたらしく、やむなくのシングル選択はいたしかたがないと思う。
 ホテル側だってそれは了承済みのはずだ。


「うええ!? や、でも、だったらダブルでも良いって言うだろ?」

「何かしらのカムフラージュくらいして当然だろおおお!?」


 むしろ男二人でどうこうしようとしたら、シングルでは色々面倒ではなかろうか。
 そうは思うのだけれど、ゲイ視点ではそういう問題ではないらしい。
 そういえば、男二人旅でいかにゲイだと勘違いされないようにするか腐心するという話題があったっけ。
 その点を踏まえれば、男が二人同室でホテルを取ること自体が不味いらしい。


「ああ、えと、じゃあシングル空いてるか聞いてくるか?」

「いや、もういい、もう何もかも遅いんだぞ……」


 憔悴仕切った顔にさすがにさっきまでのあれこれがやりすぎだったように思えてくる。


「ごめんなアルフレッド」

「ううん、むしろこっちが気を使うべきだったんだ。……俺もう寝るから、ソファ借りるね。お休み、アーサー」


 一度でも謝ったら後々セクハラがどうだのと訴えられそうだったが、それ以外の言葉が見つからなかった。
 だからといってホテルに関しては、と付け足せば薮蛇になるのは火を見るも明らかだ。
 けれど、アルフレッド自身そこまで気を回す気力もないのか、ふるふると頭を振って謝罪を退ける。


「……おう、お休み」


 遠回しであれ、彼の心からであろう謝罪らしき言葉を聞いたのはいつ振りだろう。
 そんなことを思っている内にタイミングがずれてしまった挨拶にアルフレッドはほんの少し笑ったらしかった。





 今夜は寝られないとばかり思っていたが、そんなこともなく熟睡してしまったらしい。
 それほど大きくもないソファで眠っていたから、どうしても体に違和感はあるものの思考はすっきり爽快だ。
 覚醒しきった頭で命令して首筋を伸ばしながら、アルフレッドはそれ程遠くもないベッドに視線をやる。
 そこには昨日の記憶と幾分も違わず、西の果てに位置する国がぐうすか眠りこけていた。

 おかしい。
 何かがおかしい。
 妙な違和感を覚えながら、その原因を探るために昨晩の記憶を掘り返す。
 しかしまあ、随分失礼な質問を喰らったものだ。
 本人が言っていた通り、アーサーのゲイに対する抵抗感は少ないのは道理かもしれない。
 けれど、それとずかずかとその領域に踏み入ってくるのはまた違う問題だ。
 たとえば女の子に好みのタイプを聞くタイミングを間違えれば即セクハラだろうし、ベッドの上での振舞いなど付き合っていたとしても問題がおきかねない。

 女性を例に出したのは特定の意図があったわけではなかったが、妙に腑に落ちてしまった。
 つまりはそういうことだったかと気がついて、アルフレッドは大いに溜め息を吐かずにいられなかった。


「アーサー、話があるんだぞ!」


 吐き出した反射で飲み込んだ空気を、彼を起こすために一気に押し出した。
 結構な声量に驚いたのか、ぱちりと見開いた目とは反対にアーサーの肩はぎゅっと縮こまっていた。


「おはよう、アーサー。昨日のことは覚えてるね?」

「お、おう」


 突然の強襲にまともな挨拶もできないままに、何とか上体だけを起こしてアーサーが頷く。
 こちらの不機嫌オーラに気がついたのか、おずおずと見上げてくる視線はやっぱり昨日アルフレッドが批評したとおり特定の人物に気に入られる類のものだった。


「その件でお話があります」


 ベッドの余った部分に胡座をかいて座って、アーサーと視線の高さを合わせる。
 くそ、乙女心に近いようなこの感覚をどうして自分から解説しなくてはならないのか。


「昨日も言ったけどね、俺はゲイだ」


 再度の宣言を受けて、アーサーが真剣な表情で一度だけ頷いた。


「実のところさ、こうやってノンケの人にカムアウトするの初めてなんだよ。だからそう思うのかもしれないんだけど、ノンケとは区別して接してほしい」


 一度言葉を切ってアーサーの様子を窺うけれど、面食らってしまったらしい彼から有益な情報は読み取れなかった。
 全く判断しかねているらしく無言の内で、更なる情報を求められる。


「カムアウト後も同じように接してほしい人って人もいるよね。それは俺の視点でしかないんだけど、もっと性傾向にオープンな人ならそう思うかもしれない。でもね、俺にとって俺の趣味を知ってる人は今までそっちの人しかいなかったんだよ。分かる? アーサーにとっての異性と一緒なんだ。明確な恋愛対象とは言わないけど、やっぱりあるだろ? 遠慮とかさ」

「……たとえば?」


 視線が一瞬宙に舞ったが、思考停止気味の頭では答えは見つからなかったらしい。
 かといって、アルフレッドも詳しい情景をイメージしていなかったので、視線がふらりと下を向く。


「ええと、男と女の鞄のどっちが覗き込みやすい?」

「ああ、なるほど。女には完全にマナー違反だ」


 顔を上げなおした瞬間、きゅっと喉が詰まる感覚に襲われた。
 その締め付けが心臓やら胃やらをぎゅうぎゅう圧迫して、手の平に冷たいものを感じる。
 寝起きだったとはいえ、自分は何を言ってしまったのだろう。
 確かにゲイに対して一種無防備ともいえる対応をするのは、彼の心身の健康上あまり宜しい結果を導かないのは間違いない。
 彼のために行動を正してやるのはなんら問題なかったはずだった。
 けれど、わざわざ対アルフレッドの振舞い方として教える必要などなかったのだ。
 これではまるで、アルフレットをアーサーに意識してほしいと言っているようではないか。


「分かった。これから気をつける」


 恐らくそう思っていることすら自意識過剰だというのは、アーサーの得心した表情からも見て取れる。
 忘れてしまえばいいだけなのだが、一度浮かんでしまった思い込みを消すことが容易だとは思えない。
 アーサーがこの受け取り方をするはずは万が一にもないだろうから、その点においてはいらぬ心配だろうが。それでもやはり。

 奇妙な絶望感を腹の底に抱えたままでいると、やっぱり何も気にならないらしいアーサーが顔を洗ってくると宣言する。
 それを無言で見送って、上体を倒してシーツに顔を突っ込んだ。
 それからようやっと、自分の顔にテキサスがくっついていないことに思い当たる。
 いつもなら、いの一番にかけ直すというのに。
 ふふ、と感情が抜け落ちた吐息が嘲笑のように響く。
 どうやら昨日の夜からずっと自分はテンパり続けていたらしい。
 だからいらないことを口走るし、邪推のような思い付きをしてしまうのだ。

 彼は本日付けで態度を改めてしまうのだろうか。
 どちらにせよ当分の間は針の筵に違いないだろうし、そもそも昨日の晩から決定済みの事項でもある。
 ドアを一枚隔てた所からさあさあと水音が響いてくる。
 今のところアルフレッドにできるのはその穏やかな音を聞きながら、延々と自らの言動を悔恨することだけだった。