Auf Wiedersehen!



 零しそうになった涙も、上げそうになった嗚咽も全て吹き飛んでしまった。
 小さな手も腕も全部使って、私を抱き締めてくれる小さな子。
 震える小さな赤い頭を撫でると子供と考慮に入れても高い体温が握り締め過ぎたせいで冷えきった掌を暖めた。


「ヨーコ」


 名前を呼ばれて顔を上げたヨーコの脇に手を差し入れて、ゆっくりと抱き上げる。
 ヨーコはぐしゃぐしゃにした顔を私の服に埋めて大きな声で泣き出した。


「リー、ロン、どうして」


 しゃくりを上げながら泣きわめくヨーコに誘われて、押さえていた涙を溢れさせる者がいた。
 喪主などその筆頭で、冷たい棺桶に拳を叩きつけようとして直前で止まる。
 当たり前だ。
 その中には愛しい妻と子供が眠っているのだから。


「ヨーコ、お別れにいきましょ」


「やだ、いかない! お別れなんてしないもの!」


 嫌だと言って暴れるヨーコを無理やり抱き抱え、棺桶に近寄ると喪主と目があった。
 戸惑いに満ちた視線が一瞬宙を泳ぎ、すぐに棺に戻される。


「……すまない。俺が殺したのも同然だ」


 歯を食いしばっているのが離れていても分かった。
 ヨーコも後悔の気配を感じ取ったのか、暴れるのを止めて声の主の方を見た。


「違うわよ。あの子も喜んで、もちろん覚悟もしてたわ。誰も悪くなんかない」


 自分の言葉がいやに軽薄に聞こえて、ヨーコを抱く腕を強めた。
 誰も何も言えずにただ俯いていた。
 この死は何よりも辛い死だ。
 事故で死ぬよりも、寿命で死ぬよりも、戦いの中で死ぬよりも。



 彼女は私の最も近しい理解者だった。
 私の意識と身体の差異にいち早く、もしかしたら私よりも早くに気づいてくれた。
 大丈夫だと、笑ってくれたひとだった。
 どんな言葉で喋っても、どんなふうに思っても良いのだと言ってくれたひとだった。


 全然構いはしないことだったけれど、彼女は他の人と恋をして結婚した。
 そうすれば子供の問題が出てくる。
 元々出産は危険なものだったし、成熟しない体ではいうまでもない。
 彼女が出産するにはまだ若すぎて、周りは堕胎を勧めた。
 けれど、彼女は二度と子供ができなくなる危険性と、なによりもそんなことをして二人目の子供をちゃんと愛することができるのかと言って拒絶した。


 その時から、私の中には期待と覚悟があった。
 でもそれは、彼女を失う覚悟だけで、決して彼女の子供に会わないことではなかったはずだ。
 彼女は自らの身を賭しても子供を生むことができる、そう思っていた。思い込んでいた。


「現実って厳しいわねえ」


 泣きつかれて眠ってしまったヨーコを寝台に寝かせてやると、涙や鼻水でこべこべになった顔を拭こうと濡れタオルを作りに立ち上がる。
 葬式も終わり、いい加減宵の口ともいえない時間帯なので寝始めている者もいるだろう。
 後2、3時間もすれば皆が眠りにつく、そんな時間。


 少し温く感じられる水にタオルを浸して絞ると、さっさととんぼ返りする。
 帰ってみると、ヨーコは穏やかな寝息を立てて眠っていた。
 起きていてくれていた方がよかったかもしれないとほんの少し思った。
 そうすれば、ヨーコの心配をしているだけで済む。


「ああ、もう。べたべたね」


 けれどヨーコは顔を拭かれても眠ったままなので、少し一人で考えてみることにする。
 正直どうやって折り合いを付ければ良いか全く分からなかった。
 早く立ち直らなくてはと思うのに、支えにするものが何もない。


 あやふやな思いを抱えたまま、部屋を見渡した。
 元々裕福な村ではないので、部屋は極質素な物だった。
 けれどその中に一つだけ、場違いな小さな化粧台が目に止まった。
 化粧品が入る引き出しの上に鏡が付いているだけの簡素な物だが、女性しか貰えない代物だ。
 化粧品が可愛らしいと言ったら、彼女が無理をいって融通してくれた。
 化粧をするのは恥ずかしいと、鏡を貰うだけで止まったが、彼女は残念そうだった。


「やりたかったらやればいいんじゃないの?」


 彼女が言った言葉を反芻してみる。
 いつでもどうぞ、というふうに彼女が化粧台に化粧品を詰め込んだのはいつの話だったか。
 縋る気持ちで引き出しを空けると、反動で奥にあった口紅が転がりでてきた。
 鏡を見ながら唇に滑らせると、思ったより濃く紅が引かれた。


「やだ、練習しなくちゃいけないわね」


 初めの間はとても不格好に見えてしまうだろう。
 第一発見者は恐らく寝起きのヨーコで、大笑いするか泣き出してしまうかのどちらかに違いないと苦笑する。


 いつか誰もが驚かずにいられないような美人になって、迷う誰かの手助けをできるような人になりたい。
 その子をぎゅっと抱き締めて、自分から離さないですむような優しさと強さが手に入れるのだ。
 そんな凄い人になってからじゃないと、彼女には会いにいけはしない。
 やりたいように精一杯生きないときっと怒られてしまうだろう。


 そう思うと悲しかったり寂しいのはそのままだけれど、泣きたくはなくなった。
 私がなりたいのは、あなたみたいな優しくて強い人。
 それを、自らを拠り所にしてまずは生きてみることにしよう。


「ヨーコ、ありがとうね」


 寝台の前で屈むと、ふっくらとしたヨーコの頬を人差し指でつつく。


「あなたがいなかったら泣いちゃって動けなくなってたかもしれないわ」


 ふわふわした暖かさを指に感じて思わず微笑んでから、丁寧に布団を掛けなおしてやった。


「心配しなくてももちろん命一杯泣いてやるわ、私が理想の私になれてからだけどね」


 ねえ、素敵だと思わない? と見えない空に向かって呟いた。