薄暗かった空が朝焼けになって、いつしか傾いた日差しが窓から差し入るようになっていた。
壁に埋め込んであるテレビの天気予報では今日はあまり気温が上がらないというから、明るいだけの冷たい日差しなのだろう。
新幹線の窓から覗いているせいで、肌でそれを感じ取ることはできないのだけれど。
携帯電話を取り出して時間を見れば、太いデジタルの文字が始業時刻手前を示していた。
長々と勤めてきたが、事前に手続きを取らずに仕事を休むのは初めてのことだった。
自分がいなくても補佐がいるのだし一日程度では支障らしい支障が出るはずもないのは分かっているが、有給を取る意義がみつからずに有給の手続きもあまりしてこなかった。
部下達に遠慮しないで使えば良いと言って逆に心配されてから最低限は使ってはいるのだが、ただ無駄な時間を過ごすようでもったいないと常々思わずにはいられなかった。
アドレス帳から勤め先の電話番号を選択して、呼び出しを始める。
これくらいの時間ならば二、三人は仕事場にいるはずだ。
「艦長、どうしました?」
ディスプレイに表示された名前を見たのだろう、電話の相手は当たり前のように挨拶もなしに用件を聞いてきた。
「急用ができたから、今日は休ませてもらう」
少しだけ間があって、感嘆に似たため息が聞こえてきた。
「ほんっとに急用なんですねえ」
珍しい、と呟く声がして、自分でも全くだと思う。
全くもって稀なことだ。
「仕事は大丈夫そうか?」
「一カ月くらいなら問題ないですよ」
冗談交じりの口調ではあったが、さすがにそんなにも休むとこっちの方が参ってしまいそうだ。
「とりあえず、今日は終日お休みって事ですね?」
「ああ、明日以降のことは終業までに連絡する」
「じゃあ、待ってますね」
「……待ってないで働け」
「やだなあ、言葉の綾じゃないですか」
明るいままの口調に苦笑で返して、ヴィラルはもう一度窓の外を見た。
初めてこの新幹線ができた頃は都市と都市を繋ぐだけの物で、窓から見えるのは赤茶けた風景ばかりだった。
しかし、今はどうだ。
苦労を重ねた結果、緑が生い茂り、人の生活区域に相応しく変貌を遂げてきた。
誰ももうこの場所が戦いの場だったなど、にわかには信じられない。
十一時を少し過ぎた頃に病院に着いた。
比較的大きな病院のフロントには、平日にもかかわらず結構人がいた。
大半が人付き合いを兼ねて通院している老人が多く、後はちらほらと赤い顔をした子供の姿。
「すみません、連絡を受けたヴィラルという者ですが」
受付に届いたメールを見せ、名を名乗る。
「少々お待ちください」
受付の女性が受話器を取り、内線の電話をかける。
極僅かなやり取りだけをして、受話器は再び戻された。
「ここから右手にあるエレベーターで十五階まで行ってください。出たらすぐ左にナースセンターがありますので、また声をかけるようお願いします」
礼を言って、エレベーターに向かう。
待機していたエレベーターに乗り込むと、すぐに扉が閉まった。
十五階を押そうとする手が、触れる手前で一瞬止まる。
けれど、階を選べと迫る音声案内に押されて、十五と記されたボタンに指を乗せた。
エレベーターを降りると一際明るいナースセンターに足を向ける。
「ヴィラルさんですね、お手数ですがこちらへどうぞ」
声をかける前に、看護婦の一人がこちらに気づいてナースセンターから出てきた。
確認の電話が行っていたのだから、当然といえば当然かもしれない。
ナースセンターの横に個室があった。
中には医師が一人座っていて、座るように椅子を勧めてくる。
「本日はわざわざ遠くからすみません」
椅子に座ると、医師が小さく頭を下げる。
「いえ、それよりあいつ、シモンの様態は」
本当は聞きたくないけれど、聞かなければならない質問をする。
自分は呼ばれて、のこのこ来てしまったのだ。
「今は落ち着いています、というより元気なものです。しかし、元気だからといって大丈夫ではありませんね、残念ながら」
医師が一度言葉を切って、息を吸い込む。
「シモンさんは血圧が非常に不安定になっています。何かの拍子に急激にね、血圧が下がってしまうんです。そうすると意識がなくなって、少しでも発見が遅れるとまず命はないと思ってください」
「では、今回もそれで……?」
「ええ。今回は運が良かった」
所謂老衰に近いものなのかもしれない。
すっと意識がなくなってそれっきり、というのは。
「シモンは何か言っていましたか」
突然、饒舌とも取れた医師の口元が堅く閉まった。
「シモンさんはこれからも以前と同じような生活を望んでいらっしゃいます」
言い辛そうな固い声だった。
「そんなこと、可能なんですか」
「体内に血圧の計測装置を付けることはできます。しかし、それは周りに治療装置があって意味があることで、たとえ周囲に人がいたとしても施設がなければ一切無駄だと思ってください」
言外に不可能の意味を滲ませて医師は言う。
何か言わなければと口を開こうとするのだが、口の中が粘ついてうまく口が動かない。
「理想としては病院かしかる所で過ごすのが宜しいかと、本人にも伝えたのですが……」
シモンがきっぱり断る様子がありありと目に浮かんだ。
シモンらしくはあるのだが、今回に限っては笑っている場合ではない。
「まあ、今後の治療で幾分か安定するとは思いますので、すぐに病院にというのは性急かもしれませんが。とにかく、後悔のないようにしっかり話し合ってください」
はい、ありがとうございます、と頭を下げるのが精一杯だった。
部屋の出しなに1503号室です、と病室を告げられる。
「シモンさんにはまだまだ先がありますから、気を落とさないで」
もう一度頭を下げると、医師が慰めの言葉を投げた。
本当に、そうなのだろうか。
「ああ、わざわざ遠いとこから悪かったな。知り合いとか言われてもお前くらいしか思いつかなくてよ」
個室に入って、こちらが何か言う前にシモンが笑った。
テレビも何も付いていない部屋は窓だけの光では少し光量が足りないような気もした。
永遠を意味していたはずの緑の瞳が、冬のくすんだ光の中できらきら輝いている。
「……寂しい老後か」
「いや、俺の体質とか今一番知ってるのはお前だろ?」
胡座をかいて座っているベッドを叩き、シモンが座るように指示する。
パイプ椅子もあるようなのだが、どうやら畳まれたままらしい。
「それに今後の人生について相談するのに、知り合い程度じゃちょっとな」
「そうだな」
ベッドに座って、息を吐いた。
シモンは以前に見た風貌とそう変わっていないように見えて、狐に摘ままれたような気分になる。
「……どうしてほしい?」
え、と声を発するのに肺の大半の空気を使ってしまったようだった。
ゆっくりと肺が膨れるのを感じながらシモンの表情を窺うが、対人の洞察力の欠如を自負する身では意図するところなど分かろうはずもない。
「お前が決めることだろう」
逃げとも取れるシモンらしくない言葉に、たっぷり溜めた息でもって答えた。
最期を誰かに決めてもらおうとするだなんて、シモンらしくもない。
「俺がお前に聞いてみたいって決めたんだ。約束なんかしなかったけどよ、俺はお前と最後まで生きているもんだと思ってたんだよ」
お前だってそうだろ、と続けられてヴィラルは頷いた。
螺旋王と同じ瞳と、実際の長寿。
中年と初老の狭間で止まった容貌。
導かれる答えはたった一つだと思っていた。
「そうなった心当たりはあるのか?」
螺旋王とシモンの間に、一体どんな差があるのか検討も付かない。
「……一応は、な」
どんな、と聞く前にシモンがヴィラルの名を呼んで制する。
「ロージェノムの目的は永遠に人間が地上に出てこないようにすることだった」
シモンの声は穏やかだった。
「そうするためには自分が永遠に生きなけりゃあいけなかったわけだ。で、不老不死が切実に必要で、螺旋力が優先的に使われた」
「お前は望んでいなかったんだな」
丁寧に説明されてしまっては、結論くらいは簡単に分かる。
「そういうことだな。そりゃあ、死にたいかって聞かれたんなら、死にたかないって言うけどな」
そういう問題ではない。
死にたくないと永遠に生きたいというのは違うし、恐らく生への執着が根本的に違うのだ。
「で、まあ、約束破っちまったかと思ってな」
暗黙の了解を反故した罰として、シモンがヴィラルの意見を聞いてくれると言う。
最期のときをヴィラルに付き合おうとシモンは。
「馬鹿を言うな!」
声を荒げると、シモンが胡座をかいた膝を少し震わせた。
「……馬鹿かお前は。私がいつお前に私のご機嫌を取れなんて言ったんだ。お前はお前がしたいようにすればいい。お前は随分人のために生きてきたじゃないか」
生まれてからは村人の生活のために。
空に出てからは仲間の平穏のために。
その七年後は地球のすべての生き物のために。
その時々にシモンは一番守りたいものを取り零してきた。
両親に兄貴分、そしてどうしようもないくらいに愛しい人。
「十分好き勝手やってきたさ」
「いや、まだだ。まだ足りない!」
英雄に対する世界の仕打ちには足りるはずもない。
どうしてこんなにも尽くした人が、あんな目に遭わなければならなかったのか。
「ヴィラル、泣くなよ」
堅くなった指先がヴィラルの目尻を優しく撫でてから、頭の上を軽く跳ねた。
掌から頭に伝わる体温に、目尻を滲むに止まっていた涙が零れ出す。
「は、なせ」
肩に回った手を拒否しようと身を捩らせても、シモンはただ首を振るばかり。
抱き寄せられてしまうと、もう声も上げられなかった。
「俺の我が儘なあ」
さすがにそろそろ髪先を切りたいと思っていた髪を梳かれて、ヴィラルは顔を上げた。
「世話になった奴全員の墓参りに行きたい」
それから、と尋ねるとシモンが笑みを浮かべた。
「ご当地のうまいもん食べて、温泉巡り」
「好きにしろ」
普段やっていることとそう変わらないように思えるが、シモンが満足するならそれで一向に構わない。
きっとそんな生活に戻っては、もう会うこともできなくなってしまうのだろうけど。
「お前も付いてこいよ。我が儘聞いてくれるんだろ?」
一度大きく瞬きをした。
信じられない。
確かに好きにすればいいと言った、間違いない。
けれど今まで何も言ってこなかったシモンが、旅の道連れを望むだなんて思いもしなかった。
「……私の仕事はどうなるんだ」
期間の如何に寄っては休職しなければならない。
部下にもちゃんと有給を取れる雰囲気を作るために最低限休んでいたとはいえ、一足飛びに休職届けを出したら同僚は一体どんな顔をするだろうか。
「どうせ禄に休みも金も使ってないんだろ。仕事ばっかりじゃ、語り部が聞いて呆れるぜ?」
「だからって、どこで温泉を語るんだ」
「嫌なのか?」
嫌じゃない、と首を振るとシモンが笑う。
「期限は俺が満足するまでだな」
短いのか長いのかも分からない、シモンという男の最期の一瞬まで側にいる。
それはきっと恐ろしいことだ。
何度も何度も後悔するだろう。
少しずつ衰えていく彼を見て、近い将来の一人になった自分を思うだろう。
心優しい人達に囲まれて、それでもひとりきりだと思うのだ。
いまだ自分は状況を了解できていないのかもしれない。
けれど、シモンのため、何よりもヴィラル自身のために頷かないという選択はなかった。