さようならと唱える



「ヴィラル、大丈夫?」


 心配そうな小さな声が聞こえて、重たい瞼を上げた。
 眠らなくても細胞が腐らない体になったとはいえ、睡眠は脳を休ませるのに必要だった。


「起こしちゃってごめんね。でも、凄く辛そうだったから」


 肩から少女の手が離れて、服と肌の間にできた隙間に空気が入った。
 ただそれだけなのに、酷く冷たい。

 知らぬ間に刻まれていた眉間の皺を緩めて、どんな夢を見たのか思い出そうとしたが欠片も思い出せなかった。
 けれど、眉の間にかけていた力のせいで何かしらあったのだとは分かる。


「ヴィラル最近寂しそうだから、それでうなされてるのかなって思って」


「寂しそう?」


 思いもよらない言葉に思わずオウム返しをしてしまった。
 最近はやっと地下の者達と生きるのに慣れてきて、忙しいながらも充実した日々が帰ってきたように思っていたのに。


「無理しちゃ駄目だよ。ヴィラルはいつも私達を助けてくれるけど、ね?」


「いや、十分好きでやってるつもりだぞ? 無理もしているつもりはない」


 今となっては人間という種族に対する嫌悪感など存在せず、あるのは個々の間にある趣向や性格の向き不向きだ。
 確かに好きになれない者も皆無ではないが、ほとんどが許容できる者ばかりだ。
 そんな者達と生活する中で手助けをしたときなどに返ってくる礼や笑顔はヴィラルにとって十分報酬に値するものだった。
 たしかに不便なところはあるが、特別ヴィラルだけが堪えなければいけないことなどないように思えた。


「そうじゃなくって!」


 一度大きく否定してから、彼女は寂しいなら会いたい人に会いに行けば良いと提案してきた。
 自らの予想に確信が持てない、不自然なくらい小さな声だった。


「会いたい人……?」









 当然のように過去の上司が頭に浮かんだが、故人に会いに行くというのはあの子の選択肢に入っているのかどうか。

 墓参りという習慣を知ったのはつい最近のことだった。
 地上にいた頃は他者の死を悼むことはあっても、それほど入れ込むという習慣はなかった。
 疑問を持たないように作られていた獣人には必要のないものだったのかもしれない。

 少し地上に行ってくる、と告げると、おおよその野営道具と必要以上の食料を手渡された。
 食料も全く必要ないというと嘘になるだろうが、人間の必要量と比べると大分少なくてすむ。
 向こうもそう余裕もないだろうから必要な分だけ取って返そうとしたのに、体が持つのと腹が満足するのは別ものだろうと叱咤されて、半ば無理やり押し返されてしまった。
 申し訳ない気持ちと形容し難い感情がないまぜになってしまって、真面に礼が述べられなかったのが悔やまれる。

 ねっとりとした海岸線特有の空気は奇妙な感覚を湧き起こらせた。
 以前確かに感じたはずの感情が現在の感情でもって重ね合わせるとこができなかった。
 確かこんな具合だったと思い出そうとしても、どこか他人事に感じた。
 悔しくて悲しくて、狂おしいほどの憎悪と悔恨のままに滂沱したはずだったのに。
 それがどんな激しさだったのか、もう分からなくなっていたのだ。

 恐らく忘れてしまったのではなく、ただ自分の中の憎しみの芽が消えうせてしまったからなのだろう。
 もはや、共感はできない。
 もう自分は何も知らないまま、理不尽に怒り散らすことは許されないのだ。

 沢山のことを知ってしまった。
 知りたいことも知りたくないことも、知らなければいけないことも知ってはいけないことも恐らくは。
 地中で生きてきた彼らの苦労や苦しみを思えば、簡単にあの戦いを憎むことなどできはしない。

 アディーネさま、と囁くと、にわかに掌が痛んだ。
 あまりのタイミングの良さに驚いて開いた手は強く握ったせいで爪が手を傷つけていて、細い血の跡が残っていた。
 叱られたようだ、と思わず苦笑して、ヴィラルは血だけが残る掌を海に浸けた。





 大抵の地図なら頭に入っているだろうと思っていたし、実際あの海岸には迷わずに行けた。
 あまりにも簡単だったのでどこか調子に乗ってしまっていたのかもしれない。

 と、そこまで考えてヴィラルは小さく頭を振った。そういう問題ではないのだ。
 海はあまりにも大きすぎて、どこがその場所だったのかは皆目検討がつかなかった。
 けれど、ここは陸上なのだ。
 どこかに、自分で立てる場所にきっとかつての戦場があるのだし、チミルフの息絶えた場所もまたあるはずなのだ。
 そう思うとこの辺りでと妥協する気も起こらず、それらしい場所を練り歩いてしまっている。

 あの戦いの後、あそこはどうなってしまったのか。
 そのまま機体も何もかも放置ということならば、もう少し探すのも楽なのだろうが。

 楽だと思う反面、もしそそのままならばこれ以上なく悲しい。
 遺体が地上に晒されたままでなく、ただ戦闘の跡だけが分かりやすく残っていればいいのだけれど。

 そんな都合の良い思いを浮かべながら時々砂を蹴りつつ歩いていると、視界の端に妙な物が映った。
 いまだ人の手の及ばぬ地域には似つかわしくないそれを始めは旗だと思った。
 何かの意味があるのかと近付きながら、目を凝らす。

 はためく赤い布が旗にしてはいびつな形をしていると気が付いたとき、自然と歩みが早まった。
 旗だと思っていた物を支えている物が何であるか気づいた瞬間、走りだす足を止められなかった。

 人の背に隠れることしかできないと思っていた小さな子供の言葉が頭の中で痛いくらいに響き渡っていた。
 死んだ。誰が。少年の兄貴分が。
 自分が知るずっと前に死んでしまっていた。
 自分が初めてその力を認めた男。

 少年の名前はシモンといった。兄貴分の名前は。


「……カミ、ナ」


 走った距離はそう長くはなかった。
 普段なら息も上がらなかっただろうに、どうしてこんなにも苦しいのか。
 いやに熱い息を吐き出して、赤い墓標の前に膝をついた。
 呆然と忙しなく翻るそれを見ている間、風は好き放題に吹いて、最後には正面からヴィラルの頬を撫ぜて止んでしまった。
 風を惜しむように遺品の一つであろう赤いマントはヴィラルの膝を滑り落ちて静まった。

 恐る恐る地に落ちるマントに触れた途端、落ち着いてきた息がまた詰まった。

 死んだ、のではない。殺したのだ。他ならない、自分が。


「かみな」


 滑稽な話だと続けたかったのに、しゃくりを上げた喉が邪魔をした。
 頬を伝う滴を感じながら震える息を大きく吸い込み、カミナのマントを強く掴んだ。
 力を入れるたびに腹の底が冷えていくような不安感に心臓が締め付けられる思いがした。

 あのときの少女の手と自分の肩の間に入った空気に似ていた。
 けれど、それでいてあのときとは比べられようもない、恐ろしいほどの冷たさに脅えを抱く。
 かみな、と心中で唱えるごとに増していくのに、呼びかけるのを止められない。

 たくさんのひとの死を知っているはずなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
 たくさんのひとを殺してきたはずなのに、どうしてこの男だけに揺さぶられるのだろう。


「どうしていないんだ」


 自分が殺した相手に会いたいだなんて、虫の良い話過ぎる。
 恨まれていないはずがないのに。それでも。

 ああ、これが寂しいということなのだ。
 引きつる声で何度も何度もカミナを呼んでからやっと気が付いて、ヴィラルはマントに顔を埋めた。

 私はずっとお前に会いたくて寂しかったんだ、カミナ。