足跡の記憶



「あ」

 ニアのふわふわしたカールはどうやら自前のものらしかった。
 頭を洗ってから乾かした直後は普段よりも髪の毛が落ち着いていて、次の日にはいつも通りのボリュームになっている。
 風呂上がり限定の髪の毛を指で梳くと、ニアは眠たくなると笑ったのを覚えている。


「どうした」


 朝一番の言葉がおはようではなく、あ、だったからかヴィラルが軽く眉をひそめた。


「いや、髪が跳ねてる」


 長い髪を指さして跳ねを指摘する。
 結構ぞんざいに扱われているように思える髪だけれど、これ程見事に跳ねているのを見るのは初めてかもしれない。
 跳ねているというよりは、波打っているに近かった。


「ああ、昨日禄に乾かさなかったからな……」


 ヴィラルがうねる髪を持ち上げた途端、目を見開いた。


「今何時だ!?」


 質問しながらも、視線は時計を確認していた。
 さすがに片方だけについた寝癖をそのままに、職場に行くのは嫌らしい。


「手伝うか?」


「頼む!」


 そのまま髪を直したりとばたばたしている内に出勤時刻がやってきたので、パンとコーヒーだけを渡して車に押し込んだ。
 本当ならまだ始業時刻には余裕があるのだが、ここ最近ヴィラル達は忙しい。
 昨日だって残業で、帰ってきたのは日付が変わってからだった。
 軽い夜食と風呂だけを済ませて、真面に髪も乾かせずに眠りにつく彼女は少々哀れだ。

 もう少しすれば落ち着くらしいが、あれだけ働かれてしまうとこっちが怠けている気がしてくる。

 そんなはずがない、そこまでは酷くない、とシモンは首を振った。
 シモンにはシモンの仕事があるのだ。
 結構なブランクはあるが、仕事ができない訳ではない。
 目立ちにくいけれどそこそこ重要な仕事というチョイスがロシウらしくて、そのらしさが嬉しかった。









 仕事を終えて家に帰ると、玄関に明かりが灯っていた。
 通勤用の靴が二つ並べて端に寄せてあるので、恐らくヴィラルが付けたのだろう。
 きっちりと踵を揃えてある靴の横に脱いだ靴を並べて、何だかいい匂いのする台所へ向かった。


「ただいま」


「おかえり。奇跡が起きたぞ」


 台所に立っていたヴィラルが振り返って寄ってきた。
 歩みに従ってふわりと揺れる髪にぎょっとして、台所の中に入れない。


「こんなに早く片が付くのは初めてだ」


 上機嫌だからかヴィラルはシモンの動揺に全く気づかずに言葉を続ける。
 立て込んでいた仕事が思いの外簡単に終わったら、誰だって嬉しいだろう。
 普段なら些細かもしれない話に耳を傾けて、笑うことができるのに。

 どうしても視線が髪に行ってしまう。
 揺れる曲線を見ると、どうしても思い出してしまうあの人の笑顔。

 近づいてきたヴィラルを抱きとめて、髪をなぞる。
 穏やかな癖は当然ヴィラルの髪質と同じで、思わず比較してしまう自分に嫌気がさした。


「シモン……?」


「髪、洗ってくれ」


 突飛な物言いにヴィラルが一瞬間を置いてから、合点がいったように苦笑した。


「結構頑固者だったからな。でも、別に外にも出ないからまだ構わないだろう」


 そんなに気に食わないか、とヴィラルがさっきまで触られていた髪を指で玩ぶ。


「違う。違うけどな、こいつを見てると思い出しちまってお前に悪い」


 抱き寄せていた腕にもしかしたら苦しくなるかもしれないくらいの力を込めて、肩口に顔を埋めた。
 シモンとそう変わらない身長と、細くはあるが芯の確りした肩。
 愛しい、と思うのに。


「――ああ、ニア様か」


 割りと早く答えを出したヴィラルにどう応えていいか分からなかった。


「喧嘩別れしたんじゃないんだ、思い出して当然だろう」


 事もなげというふうにヴィラルが言う。


「だけどよ、こんなんじゃ駄目だろ。今一緒にいるのはお前なんだ」


 このままでは、ヴィラルどころかニアにも悪い。
 二股でもかけているような気持ちになる。


「一度でも好きになった相手を忘れられるはずがない」


 それに、と口にしてからシモンの頭が乗っている方の肩にヴィラルが頭を傾ける。


「私はそんな薄情者を好きになった覚えはないからな」


 小さな割には勢いのある声が耳を掠めて、思わず顔を上げるとヴィラルの頬がほんのりと赤い。
 自分を見て他の女を思い出すなんて言われて、平気なはずはないだろう。
 けれど、ヴィラルは許してくれた。
 強めていた力を一度緩めて、ヴィラルの体を抱きとめ直す。


「俺も好きだ」


 片手を腰に回してもう一方で肩甲骨の辺りを覆って囁くと、ん、とヴィラルの喉が鳴る。


 さらりと出てきた言葉は、きっと何度も何度もこのことを考えていたという証なのだろう。
 自分がニアを思い出してしまうのをヴィラルが許してくれたところで、思い出さなくなるということはないだろう。

 それはヴィラルとってもシモンにとっても、残酷なことには違いないのだ。

 過去は消えない。
 自分達が敵同士だったことも、その間自分が他の人を愛していたことも消しようがない。
 消したいとも思わない。
 それと同じように今感じる腕の中の暖かさを消したくないし、失いたくもない。
 沢山のものを抱えて生きていくしかないのだ、と分かってはいるのだけれど。


「凄い皺だぞ」


 いつの間にか眉間に皺が寄っていたらしくて、ヴィラルが背伸びをしてそっと眉間に口づけた。
 予想外のことに瞬きをしている内に見る見る顔が赤くなっていって、口角が上がってしまうのが止められなかった。


「笑うな!」


「いやだってな、さっきから色々と天変地異が起きそうなサービスだからどうしても」


 ごちそう様でした、とヴィラルの背中の真ん中で手を揃える。


「な、こっちはお前が珍しく落ち込んでたから……! もういい、放せ!」


 機嫌を損ねて暴れだしたヴィラルをご要望の通りに解放すると、ヴィラルが少し皺が寄ったシャツを引っ張って直す。
 くるりと踵を返してシンクの方に向かうヴィラルの髪にはやはり癖が付いたままだった。

 もう一度ニアを思い出すと、やはり罪悪感やらなんやらで胸がチクリと小さく痛む。
 けれど、その痛みに幸福にも似た感情が混ざっているのに気が付いて、シモンは僅かに微笑んだ。

 自分は世界に与えられた時間を沢山の記憶と生きていくのだ。
 もういい、と言われるそのときまで。