また会いましょう 後



 一瞬触れただけだったのに一気に身体全体に伝播して、燃えるように熱かった。


「若かった……」


「いきなり何が言いたいんですか」


 机を見下ろしながら頬杖を突いてぼやくと、ロシウが律義に返事を返してきた。
 けれどその声はどこかお座なりで、当然といえば当然かもしれないとシモンは少し笑う。


「ちょっと頑張ったぐらいで天狗にならないで下さいよ」


「いや、そうじゃなくってさ」


 珍しく仕事をちゃんとやったから、ロシウが驚いているのを見るのが楽しいなんて言えば仏頂面になるのは目に見えたから適当にごまかす。
 そうですかと言ったきり、ロシウはそのまま黙り込んで仕事の束に目を通している。
 最後に紙の束の耳を机に落としえ揃えると、シモン総司令、と呼びかけられた。


「どう?」


「こちらと、もう一つ修正していただければ結構です」


 身を乗り出して差し出された資料を覗き込んで、ペンと訂正印を引き出しから取り出した。
 簡単なミスでよかった、と安堵の溜息を漏らして。







「いや、しかし」


 視線を逸らして顎を撫でる担当者は明らかに困惑していた。
 拘置所の録画も録音も切って、本人もそこに近寄らないこと。
 シモンが要求したことは彼にとっては職務放棄の他ならないだろうし、シモンに何かあれば職をなくすだけではすまないだろう。


「駄目、かな」


 答えを急くと、いえ、その、あの、とどもってから一度強く瞬きをした。


「大丈夫です、シモン総司令。言ってしまっては何ですが、上に全て資料が行くのではありませんし。適当にごまかしておきます」


 どうも不正を働くのは初めてらしく、担当の視線が忙しなく宙にさまよう。
 シモンは青年を見ながら胸中で手を合わせて、どうか犬に咬まれたと思ってと謝った。


「ありがとう」


 シモンが笑って礼を述べると、青年の表情が誇らしげに色付いた。
 そして装置のボタンを長々と押して、青年が目の前にあるモニターの電源を落とした。
 そしてカードキーで棚を開けて、シモンに一枚のカードを手渡した。


 大きく数字の打ってあるカードを受け取って全く申し訳ない、とシモンはもう一度青年に謝る。
 ごめん、そんな大層なことをしにきたわけでは全くないんだ。
 どちらかというととんでもないことをしにきたんです。


「お気をつけて」


 部屋をでようとしたときに声をかけられて、シモンは後ろめたさを隠し笑顔で答えた。


 部屋を出てしまうとエレベーターの案内の前まで行って、内部構造を確認する。
 基本的には地上から上の階層に向かって犯罪の危険レベルが高くなっていく形をとっていて、一階などは比較的人口密度が高くなっている。
 やれ喧嘩をして人を殴っただの、酔っ払って物を壊した程度の可愛らしい類の罪なので空気も軽い。


 エレベーターに乗ると、シモンは地下のボタンを押した。
 地下は二階しかないが、かなり深い場所に位置している。
 殺人等を犯した場合には最下層に押し込められるようになっていた。


 エレベーターの扉が開くとひやりとした空気が流れ込んできて、何となく陰鬱な気分になる。
 すぐに穴の中の空気と似ているのだと思い至って、余計気分が落ち込んだのを首を振って紛らわした。
 確か、まっすぐに伸びた廊下の壁に等間隔で扉が付いていて、開ければ目の前に鉄格子が部屋を区切っているという構造だったはずだ。
 扉は専用のカードキーで開くようになっていて、今手の中にあるのがそれだ。


 カードの数字を確認すると、同じ字体で同じ数字が書かれている扉の前に立った。
 真横にあるカード認証機にカードを通して、扉が開くのを待つ。


「ヴィラル、頼みがあるんだ!」


 自動で扉が開き切る前に部屋に滑り込んで、ベッドに座って目を白黒させているヴィラルに叫んだ。
 開いた扉が閉じる音が背後で響いてから、ヴィラルが壁から背を離す。


「……暇なのか、お前は」


 真剣な表情で問われてしまい、手を振って否定する。


「まさか。仕事もちゃんとやってきた」


 部屋の内側に付いているカード認証機にさっきとは逆にして通すと鉄格子の門が開いて、途端にヴィラルが警戒の色を濃くした。


「何のつもりだ」


「だから、頼みがあるんだ」


 鉄格子をそのままにして、ヴィラルの座っているベッドが正面に位置する壁に背を付ける。
 ヴィラルは一瞬開いたままの鉄格子を気にしたものの、その先の扉が開くことはないと察したのか視線をシモンに戻した。
 ついでといったように、警戒した気配も消えている。


「この立場の者にお願いをする必要があるのか、シモン総司令殿?」


 皮肉らしい言い回しをしてヴィラルが薄く笑うのを見て、シモンは大きく目を見開いた。
 まさか、こんなにこっちが有利になることを言ってくれるだなんて。


「良いんだな、何やっても!?」


 シモンが語調を強めて一歩進むと、ヴィラルが目を丸くして少し後ろに下がる気配を見せた。
 不安そうな表情で小さく頷いてから、ヴィラルは口を開いた。


「普通はそうだろう」


 了解を得ると、はやる気持ちを押さえてシモンは地面に膝を付く。
 顔を伏せる寸前の視界には、ぎょっとして表情を引きつらせたヴィラルが映っていた。


「おい、シモ――」


「お願いします抱かせて下さい!」


 両手をしっかり揃えて所謂土下座をして頭を上げると、ヴィラルが困惑したまま固まっていた。


「……断る」


 とりあえずそういった類の拒否をされるのは分かっていたから、足に力を込めてベッドの方に体を押し上げる。
 ヴィラルが投げ出していた方の足を掴んでしまうと、ベッドの上に膝をついて勢いのままヴィラルの肩に手を置いた。
 足を掴まれて体を後ろに引こうとしていたらしい力もあって、案外簡単にシモンはヴィラルを押し倒した。


「ちょ、ちょっと待てシモン!」


「だって何してもいいって言っただろ」


 自由な方の腕でヴィラルがシモンの肩を押しのけようとするのを、足を押さえていた手で押さえ込む。
 ヴィラルの上半身の上にシモンの体がくるように位置を調節していると、ヴィラルが慌てて制止した。

「お前が私を恨んでいることくらい分かっている。もう死さえ気にすることもない身だ、好きにすればいいとは思ったが、そういうことではないだろう。そんなことでお前の思いは晴らされるものなのか? シモン、お前はそれでいいのか」


 始めこそは言い逃れのような早口であったのに、段々とヴィラルは口調を緩めて最後に眉根を寄せた。
 若輩者が暴走を起こしたのを憂える表情に似ていて、シモンは頭を振った。
 暴走は暴走でもヴィラルが考えるそれとは違う。


「違う」


「シモン」


「違うんだヴィラル。昨日はこう、ちゃんと話もできなかったし、なんというか、どう言っていいか分からないけど、今は憎いとかそういうわけじゃない。ほら、7年って長かっただろ?」


 ああ、とヴィラルが頷いて、ふっと表情を和らげた。
 7年間の全てがとはいわないけれど、それでもヴィラルが過ごしてきた時間が彼女に優しくあったのだと実感してシモンは胸を撫で下ろす。


「すっかり忘れていたけれど、思い出したんだ。穴掘りシモンはヴィラルが好きだった。恨みがなくなってしまえば、残るのはそれだけだ」


「……は?」


 話の展開についていけなかったらしく、ヴィラルが小さく喉を鳴らした。
 何言ってるんだこいつ、と宇宙人か何かを見るような目で見られてシモンは苦笑した。


「ほら、獣人ってしっかり寝なきゃいけないだろ? 実はそのときに出くわして、あんまりにも綺麗だったから」


 あの日の壊れそうに高鳴る心臓の音を思い出しながら、シモンはヴィラルの唇に自分のそれを触れ合わせた。
 ヴィラルの瞳が見開かれるのを見据えると、ヴィラルの瞳がにわかに揺れる。


「奪っちゃった」


 顔を離し、柔らかな感触の残る唇に舌を這わせてから冗談めかして言う。
 7年前は事実の前に前後不覚だったけれど、今度はしっかりと感じ取ることができた。


「何だその言い回しは……」


 呆れた風に漏らしながら、ヴィラルがふいと顔を逸らす。
 既に抵抗のなくなったヴィラルの両手から手を放し、シモンはヴィラルの頬にそっと触れた。


「顔赤い」


「なっ……!」


 息を詰まらせながらシモンの方を向いたヴィラルの頬に朱が走り、シモンは笑みを押さえられなかった。


「嘘、嘘だって。ほんと可愛いなあ」


 本当に赤くなってしまった頬を親指で撫でてやると、急にヴィラルが俯いた。
 恥辱からかと窺い見みたが、彼女は意に反して申し訳無さそうに目を伏している。


「ヴィラル?」


「知っているだろうが、私はお前のような気持ちは理解できない。情が湧く程度ならあるが、愛だの恋だのは全く分からない。7年間見てきても、全く分からなかった」


 だからお前の気持ちにしっかりと向き合うこともできない、とヴィラルは消え入りそうな声で言った。
 その一挙一動が臓腑に染み込んで暴れまわられるような感覚に、シモンはシーツを強く握った。
 そうでもしなければ、凶暴な衝動を抑えることなどできはしない。
 こんなにもこのひとは真剣なのだから、自分もそうでなければあまりにも失礼だ。
 そうして彼女と同じ思いを共有できるのなら、きっと幸せな事に違いない。


「……今日は出直すよ」


 ヴィラルの上から離れると、シモンはなるべく優しく見えるように笑って見せた。


「始めは無理やりにでもしてしまおうと思ったけど、そんなにちゃんと考えてくれるとは思わなかったよ。正直憎まれてるのは俺の方だと思ってたから、凄く嬉しい」


 ヴィラルが体を起こすと、ふるふると頭を振った。
 ベッドの上に転がされて荒れた髪が、余計に散らばってきらきら光る。
 その髪を手櫛で梳いてやって、俯いた顔を掬うように口づけを落とす。


 今、舌を絡ませても彼女は抵抗しないのかもしれない。
 けれどそれは恋を解さない彼女を愛した哀れみからであって、きっと悲しくなるだけだ。
 シモンは重く感じる自分の体をヴィラルから離してもう一度微笑んだ。


「じゃあ、また」


 いつかまた、愛が伝えられる日まで。