なんだってこんなことに、と胸中で叫んだ。
声に出して言ってしまえば一巻の終わりである。
もう一度繰り返す。
なんだってこんなことに。勢いよくため息を漏らしそうになって、慌てて飲み込んだ。
恐る恐る彼女を窺うが、先程と全く変わりなく規則正しい寝息を立てていた。
始めはすぐに帰る予定だったのだ。
野営地から少し離れた所に設置していた罠を回収する際に、周辺の隆起よりも小高い丘を見つけた。
ついでに周囲の地形を見ておこうだなんてスケベ心を出したのがいけなかった。
一人だったのだから、せめて一度皆の元に帰るべきだったのだ。
丘に登っている途中で暗雲が立ち込め始め、あっという間に大雨になった。
始めは屋根のある崖の下に転がり込んで雨を凌いでいたのだけれど、雷まで鳴り始めて奥まった穴がないだろうかと崖沿いに歩きだした。
獣人と出くわさないために、夕方も半ば過ぎという時間に出てきたのもまずかった。
もう少し明るい内に出ていれば、雨にも遭遇しなかったろうと静かにため息を吐く。
そう、星や月を隠す雲のせいで、シモンは先客に気付けなかった。
ようやく見つけた穴に入って、目が慣れてきたとき妙な物があるような気がしてはいたのだ。
けれど、悲しいかな人間の本能か何かがそれについて考えないように仕向けたのだ。
遠ざかっていた雷雲がこれが最後とばかりに輝いたとき、シモンは始めてそれが何であるのかが分かった。
光を反射してきらきらと光る金の髪に少し暗い赤色のぴったりした服に身を包んでいるその人をシモンは良く知っていた。
微動だにしなかったので始めは死んでいるのかと思ったが、恐る恐る近寄って息を確かめてみると穏やかな寝息が感じられた。
もちろん寝顔もいつもの凶悪なそれではなく、敵意も何も感じられない。
雨はとうに止んでいたけれど月は俄然雲の向こうにあって、暗闇に慣れていたシモンでも野営地まで帰れる自信はなかった。
暗闇に加えて夜には昼間の動物達のように比較的温厚であるかも分からない夜行性の動物も活動しているはずだ。
下手に動いてはいけないはずなのだが、同時にここが一番危ない場所であるのも確かだ。
シモンが持っているのは小さくて刃毀れしたナイフ一つで、彼女が目覚めれば禄な抵抗もできずに殺されてしまうだろう。
幸い今は泥のようにという表現がぴったりの様子で眠っているので、雲間を狙い逃げ出すのが妥当だと思う。
「――ん…」
延々と思考を堂々巡りさせていると、突然声が聞こえた。
もちろん自分の声などではなく、次に寝返りを打ったらしい音がする。
身を縮こまらせて息を詰めると、ヴィラルは意味のなさない寝言のようなものを2、3漏らしてまた寝息を立て始めた。
けれど耳を澄ませると、先程までの穏やかなそれとは少し違うように聞こえた。
堅さを含んだ寝息が気になって、じりじりとにじり寄り顔を覗き込む。
視界が酷く悪い中、どうにか見えた彼女は眉間に皺を寄せて眠っていた。
耐えるように吐き出される呼吸は次第に荒くなってきて、下手をすればすぐにでも起きてしまうのではないかと危ぶまれた。
こんなときはさっさと逃げ出してしまうのが一番なのだろうが、自分でも何を考えていたのかシモンにも分からない。
分からないが、シモンの手はヴィラルの頭を撫ぜていた。
掌で触れるよりも五指が軽く押す方が心地よい気がしたので、指先を使って頭頂部から襟足まで何度も撫ぜる。
恐怖からか何なのか心臓が高く鳴っている。
けれどその音は生死の狭間で戦うときのそれではなく、幸福感を孕むもののように思えて愕然とする。
もしかしたら、緊張が過ぎておかしくなってしまったのかもしれない。
思考が飽和してぼわぼわしてきた頭とは裏腹に、手は滑らかに動き続けるのがその証拠か。
わずかに弾力のある髪質を五指に感じながら、シモンはヴィラルの体勢を確認する。
寝返りを打ったせいで右腕が地面と体の間に挟まった具合で、なんだか窮屈そうだ。
枕の代わりらしく折り畳んだ布から頭が落ちてしまっているのもいただけない。
毛布が敷いてあるとはいえ、ごつごつと硬い感触は確かに伝わってくるのだ。
触れていた髪から手を離すと、そこはかとなく物足りなく感じる。
それと共にとてつもない緊張感が心臓を圧迫して、急に酸素が薄くなったような気がした。
今、逃げ出すのは難しい。
だからこそ彼女の浅くなった眠りを元に戻すべく、安眠を妨害する要素を取り除かねばならないわけで。
起きてしまったら、十中八九死ぬしかない。
カミナほどに背丈があればまた違うのかもしれないが、寝起きとはいえ身長も低く、戦う技術のないシモンにヴィラルが負けるなどないだろう。
だからこれからシモンがやらなくてはいけないのはヴィラルの右腕を自由にし、頭を畳んだ布に乗せることだった。多分。
肩に手をかけると、掌に暖かみが広がった。
ヨーコのように豪華な体型ではないが、女性特有の柔らかさに息を飲む。
女の人だから戦わないとかそういう問題ではないのだろうが、自分達と同じような姿をしている上、女性だとなると抵抗がないとは口が裂けても言えない。
戦わずにすむなら戦いたくなどないのに、獣人は許してはくれない。
人間は獣人がどうして人間を殺すか分からないから、獣人を説得することもできない。
もしかしたら人間が獣人を知らないように、獣人もまた人間を知らないのかもしれない。
ゆっくりと体を傾けると頭も一緒に移動して、ヴィラルが小さく声を上げた。頭と体が繋がっているのは当たり前の話で、慌てて首の下に手を入れて支える。
一気に頭も体も元に戻してしまって、これ以上の刺激を与えないようにと息を詰めた。
この上なく穏やかに変わったヴィラルの寝息を聞いて、シモンはほっと胸を撫で下ろす。
緊張の糸が解けたのか、自分の影ができているのにやっと気がついた。
穴の入り口まで音を立てないように移動して見上げた空は雲の一団が月から離れているところで、当分の間月明かりが消える心配はなさそうだった。
これで死なずに済むと思わずガッツポーズをしてから、眠っているヴィラルに目をやった。
本当は一目散に逃げ出すべきだったのだ、と今になっては思わずにいられない。
月明かりに照らされてきらきらと光る髪と薄く開いた唇がシモンの心臓を締め上げた。
ジーハ村での女の子達やヨーコの前で感じるどぎまぎして逃げ出したくなるのとは違い、もっと側に寄りたい衝動に駆られる。
近付くと次は触れたくなって、髪に触れた。
さっきの生死の問題とは全く違う、訳の分からない感情で手が震えていた。
軽い弾力のある髪を撫ぜ、シモンは彼女の顔をまじまじと見ると、それからからゆっくりと身を屈めた。