授業中には間違いなくいる。
というより見えている。
だというのに、授業が終わって休み時間や移動中になると消えてしまうのだ。
下手をするといつも連れていたねこのぬいぐるみまで人に任せてしまうらしく、捕まえることすらできない。
探し回ったところで、見えない自分と見えている彼女との力関係を思えば結果は火を見るよりも明らかなのだ。
どうしようもない。ただの徒労でしかない。
そう分かっているのに止められなかった。
「また君が持ってる」
「あ、ごめんね。いつも渡したらすぐ行っちゃうんだ……」
「いいよ、いい。気にしないで」
今日予定されている授業が滞りなく終了し彼女を追いかけようとしたけれど、時既に遅し。
自分の発言を思い返すと無茶な話ではあるが、気にされたところで何の意味もないのだ。
放り投げる勢いでぬいぐるみを渡されて、慌てて受け取っている間に彼女が消えてしまうところを何度も目にした。
分かっていても基本的に虚を突いてくるのだから対処が難しい。
戦場であれば隙などはそもそも許されないが、ここは彼らのホームなのだ。
大事そうにぬいぐるみを抱えるアマタを叱責する理由などどこにもない。
「何でだろう……この前放課後に会ったときは普通だったのに」
合点が行かないという風に目を眇めるアマタの言葉を聞き返さずに済んだのは、息を吐き切った瞬間のことだったからでしかない。
それからこめかみを殴りつけられたような気持ちに囚われて、何も口にできないまま視線を床に転がした。
自分だけ避けられている。
何とはなしに感づいてはいたけれど、実際に裏づけになる事実を知るのはやはりショックだった。
「もしかしてセクハラして嫌われたとか?」
「……アマタじゃあるまいし」
教室を構成する階段の上から声が落ちてきたので二人して顔を上げると、机に肘を突いていたらしいゼシカがこちらを覗き込んでいるのが見えた。
ませた少女そのものの笑みを浮かべる彼女に返せば、笑いの気配が強まる。
どうやらアマタをからかうのが目的らしい。
「そんなつもりじゃないって!」
「結果的には、ねえ?」
思い当たる節があるせいで途端に声を荒げるアマタを尻目に、笑みを多少下世話さを感じるそれに変える。
同意を求められたので肩を軽く竦めてやれば、そういや前科持ちだっけ、だなんて胸に突き刺さる言葉が返ってきた。
害意は欠片もなかったとはいえ、所謂女子更衣室に無断侵入してしまったのは記憶に新しい。
彼女、ユノハの助け舟がなければ、軽口にもできないできごとである。
「ねえ、それあんたが持ってればいいじゃない」
アマタが何かしらの弁明を試みようとする前にゼシカが興味を失ってしまったらしく、空間を指先で弾きながら緑色のぬいぐるみを指差した。
再び不意を突かれたアマタが一度大きく瞬きをして、それからぬいぐるみに目を落とす。
ぬいぐるみは時に彼女の存在証明となりうるほど、彼女にとって大きな構成要素である。
たとえ姿が見えなくとも授業にぬいぐるみさえあれば、教師達は出席の記録をつけるだろう。
最近は姿を見せて生活しているとはいえ、ぬいぐるみは彼女の大切な一要素なのだ。
「うん、それがいいかも」
「人質を取るみたいで気が進まないけど……」
「そんなこと言ってたらいつまでたっても会えないんじゃない?」
アマタに差し出されるぬいぐるみを受け取りながらも、ちくりと良心のありどころが痛んでしまう。
どういう理由か検討も付かないが、ともかく顔を合わせたくない相手にこのぬいぐるみが渡るなんて、彼女はどんな気持ちになるだろう。
重苦しい思いを抱くのは確実だ、と結論付けるとこちらまで内臓がずっしりと重たくなった。
それでも一度触れてしまうと彼女が大切にしている物を手放したくなくなって、渋々ゼシカの言葉に納得をした振りをした。
ぬいぐるみが暖かく感じるのはアマタが触れていたからかもしれない。
けれど、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめると、少し甘いような優しい気配が香った。
* * *
気がつけば夕日が差し込み出してしまった図書館で丸まってしまっていた背中をぴんと伸ばす。
心地よい感覚に小さく声を漏らしながら、開いていた本に栞を挟みこんだ。
少し前学園内でも流行っていたらしいミステリー物は確かに面白くて、いつまでもずるずると読んでしまいそうだった。
まあ、そこまで没頭してしまっているのは純粋な本の面白さというよりも、膝の上に鎮座しているぬいぐるみのせいなのだけれど。
もう少しで寮への帰還を命ずるチャイムが鳴ってしまう。
その事実がちくちくと胸を刺した。
図書館に自分が入り浸っているのは学園の大半が知っているはずだ。
レアイグラーを始めとするこの国の文化風習を知るのが目的というのはさすがに知る由もないし、知らせるつもりなど毛頭ないのだけれど。
だから、誰かが自分を探そうとすれば、図書館を探さない手はないはずなのだ。
いい加減彼女も自らの相棒をアマタの元に引き取りに行って、異常事態の発生に気づいている頃ではないだろうか。
今、誰がぬいぐるみを持っているのかはアマタが伝えるだろうから、探しに来るのではないかと思っていたのに。
そんなに顔を合わせたくないのだろうか。
吐き出す溜め息はあまりにも重たく、ずるずると気持ちが引っ張られていく。
足の先まで重たくなったような気持ちを持て余しながら、何とか立ち上がって本の貸し出し手続きを済ませた。
彼女が顔を合わせてくれなくなった理由など何度となく考えている。
その前日の出来事は思い返しすぎて嫌気が差すほどだ。
あの日は確か、熱心にカイエンとシュレードを見詰めるサザンカの目的が把握できなくて、何とはなしにユノハに問いかけたのだ。
すると彼女は少し困った風になって、それからくるくると百面相をして見せた。
ずれた質問をしてしまったのかと不安になったけれど、もしかしたら彼女もまた判然としていないのではないかと思い至る。
それから緊張が解けた瞬間、彼女は小さく肩を震わせて顔をぬいぐるみに押し付けてしまった。
ごめんなさい、とか細い声で告げる彼女に、大丈夫だとか気にしないでとかいった言葉をかけたのを覚えている。
彼女が自分を避ける原因としてはそれくらいしか思いつかないのだけれど、あんまりにも些細な出来事ではないか。
ジンからすれば、ほんの少し嬉しいくらいの出来事だったのに。
もし本当に同じ分からないを抱えているのなら、その共感が。
説明がし難いものだったのであれば、必死に分かりやすくしようと一生懸命に考えてくれたその心遣いが。
本当に嬉しかった。
けれど、それが彼女を傷つけたのだとしたら。
そんな喜びはなくていい。必要ない。
こつこつと廊下を歩いている足が止まって、ぎゅうぎゅうと締め付けられる感覚に囚われる。
どんなときも、アクエリオンに敗北を喫した時でさえ、こんな思いに駆られなかった。
こんなことならば、あのとき口を噤んでいればよかった。
絶対に得なければいけなかった知識でなかったのに。
手にしたぬいぐるみを握り締めたとき、違和を感じて視線を上げる。
目の前には何もない。
けれど。
「ユノハ……?」
姿を消してもそこに人一人分の質量があるのは変わらない。
意識を研ぎ澄ませれば、確かにそこに誰かがいるのが分かった。
姿を隠しながら目の前にいられる人間など、ここには彼女しかいない。
それでも返事がないのは変わりないし、その事実が心臓を縮こまらせる。
「僕のこと、嫌いになった?」
返事はない。
けれど、気配が動く感覚もない。
口を開くけれど、何を伝えればいいのか分からなかった。
止まりそうになる思考を必死に動かそうと思うのに、口の中がやけに渇いているのだけが脳に伝えられてくる。
立ち去ってしまいたい気持ちを体を硬くして押さえ込んでいたときだった。
自分よりも幾分か温かな感触が一瞬手の甲に触れて、すぐに離れる。
ひゅっと息が止まって、目の前を凝視した。
ここに、手を伸ばせば届きそうな所に、彼女がいるのだろうか。
けれど、指が動かない。
触れてしまえばどこかに消えてしまいそうな気がして、空気を揺らめかせてしまうのさえ躊躇いがあった。
「ごめん、なさい……私、どうしていいか分からなくて」
再び手の平に暖かさが戻って、空間から声が溢れ出してきた。
途切れ途切れの声が鼓膜に届くたびに、耳から全身に熱が伝わっていった。
すぐに手の平の暖かさが分からなくなってしまうと思ったのに、彼女に触れるそこは一段と熱くなって存在を主張する。
今までの重苦しい気持ちが消し飛んでしまって、そもそもそんなものがあったのかすら分からなくなってしまった。
「僕も」
分からない、と彼女は言った。
「一緒だね。僕も、全然分からない。一緒だ」
分からなくって、指先一つ動かせなくなってしまう。
とても覚束ない、煩わしい気持ちだけど。
「ジン君と同じ……」
「おんなじだね」
「……私、嬉しいです」
掠れた声とは反対に、彼女の輪郭が色づいていく。
口元がむにむにと動かしてから、小さくはにかむ彼女に釘付けになってしまう。
その視線に気づいたユノハが全身を緊張させたようだったけれど、瞬きを繰り返しながらその場に止まってくれた。
「うん、僕も嬉しい」
彼女の戸惑いは自分と同じもの。
彼女がどうして姿を隠したのかは分からない。
それでもその事実が心を酷く暖かくしてくる。
彼女もそうだったら、と願わずにはいられなかった。