もう少し時間がほしいだなんて、黒の教団で口にしたのは初めてかもしれない。
 精々悩めと告げられて、延々と悩むことも久々のことだと気づいた。
 こういっては何だが、ここでは悩んでも仕方がないことが多すぎる。


「こちら、電気系統の報告になります。問題はないだろうとのことですが、目だけは通しておいて下さい」


「うん、分かった。この辺はもう済んでるから持っていってくれるかな?」


 目の前に積んである処理前と処理済みの束を間違えないように確認しながら指させば、承知しましたと丁寧に了解される。
 頷きと共に揺れた内側に巻かれた髪がふわりと揺れる。


「それでは帰りに昼食を持って参りますので、この調子でお願いします」


 綺麗な礼をしたかと思えば、フェイはすぐさま退出した。
 もう少しで食事にありつけると思うと一気に気が緩んで、欠伸をしながら背筋を伸ばす。


「室長ー、ばっきばきですね」


「ほんとにねー」


 首を傾ければばきりと折れたような音が響いて、何が変わったというわけではないけれど気分がすっとする。
 関節を鳴らすのは良くないとどこかで聞いたような気がするが、真偽は知らないしいい加減癖になっているので今更知りたくもない。


「で、あの、その」


 先程までとは打って変わって言いずらそうになったリーバーに嫌な予感を感じつつ、回りを見渡せば異様な程静かな空間があった。
 全員が全員、黙りこくって仕事をしているなんてここではありえない事態だ。
 つまるところ、こちらの会話を逃さないように聞き耳を立てているに違いない。
 恐らく、リーバーは人身御供のようなものなのだろう。


「アジア支部長なんでいないんすか……?」


 言外にあのとき丸く納まらなかったのかと聞かれて、思わず苦笑する外なかった。


「いや、フェイさんから仕事がないって怒られちゃってね。バクちゃんも雑用までしてもらってちゃ面目が立たないでしょ? 今は支部用の資料をまとめたりしてるみたいだよ」


「え、帰るんですか?」


「そりゃ支部長だし」


 定期総会の後にしていることと同じ仕事であることにリーバーが気づいたらしいが、その事実が心底意外だったようだ。
 確かにあんなことがあってから、すぐに帰り支度をするとなると少々冷淡とも取られるかもしれない。
 しかし、黒の教団に所属していてなおかつ支部長という身分でその割切りができないでは困る。
 というより、それができないバクなど彼女らしくないと言わざるを得ない。


「あー、最近結構こっちきて仕事してたんで気にしなくなってましたけど、『アジア支部長』なんすね」


「それは彼女に失礼だよ」


 しみじみと極々平和的に言っているが、恐らく本人が聞けば一気に機嫌を損ねる発言だろう。
 ひとしきり騒いでからむっつりと黙り込む姿が想像できて、やっぱり笑ってしまった。









「あれ、逃亡中ですか?」


 人気を避けて建物の末端へと廊下を進んでいると、新しい団服を羽織って肩の辺りを調節しているアレンに行き当たった。
 肩当てが擦れているのだろうか。
 だとしたら、微調整するように依頼しておかなければならないだろう。


「いやいやいやいや、ちょっとお手洗いに」


「こんな所にトイレはありませんが」


「それくらいスルーしてあげましょうよリンク。ただのエスケープです」


 分かっているのなら、さっきの質問はいらなかったのではないか。
 単にリーバー辺りに見つかったときの白々しい言い逃れに使うつもりのだけかもしれないけれど。
 リンクにはこれ見よがしに溜め息を吐かれてしまったが、全くもって言い訳のしようがないので見なかったことにした。


「それよりも、どうして君達はこんな所に?」


 こんな所、を強調すれば、アレンが少し困ったように笑った。


「神田ユウエクソシストの地雷を踏んでしまいまして、同じく逃亡中です」


 軍隊式に額に手を添わせて、アレンがおどけて見せる。
 まさかこんなことで怒るとは、と付け加えた辺りでリンクの眉間に皺が寄った。


「食堂で騒がれただけならまだしも、麺つゆを浴びかければ誰だって怒ると思いますが」


「え、リンクも?」


 食堂ですから、とリンクが場所を弁えろと諌めるのを聞きながらラビの身を案じる。
 食堂ではしゃぐ輩といえば彼らくらいだろうし、アレンが逃げ延びているということは他の人物が犠牲になっているのも十分ありえる話である。
 神田の蕎麦に対する執着は中々のもので、そもそも自分の食べるはずの物を引っ繰り返されて平気な人物などそういない。


「……それは地雷じゃないと思うなあ」


 神田の怒りは至極真っ当だったので、一応リンクの考えを支持する。
 神田の性質からして謝ったところでどうなるでもなし、かつあの不仲なんだかよく分からない関係性を思えばアレンも謝りそうにないので、それ以上は何も言う気はなかったが。


「――そこか」


 そう、言う気はさらさらなかったが、言葉を発するまで完全に気配を断っていたらしい神田によって言えるような状況すら一気に吹っ飛んでしまった。
 抜刀したまま歩いていたようで、採光窓から入ってきた日光を反射して新しく鍛え直された六幻が鋭く光る。

 良かった、返り血はない。


「じゃあ、失礼しますね」


「テメエこの期におよんで! くそ、待ちやがれモヤシ!」


「ほどほどにねー!」


 爽やかな笑顔を見せながら、それでも全速力で走り出したアレンを手を振って送り出す。
 ひらひらと手を返してすぐに角に消えたアレンを追って、神田もまた姿を消した。


「追わなくて良いの?」


 一人残ったリンクに問いかけると、先程と同様に刻まれていた眉間の皺に人差し指が乗せられる。


「私は監察官ですが、子供の喧嘩を報告されてはルベリエ長官もお困りでしょう」


「楽しそうで良いなあって言ってくれるかもよ?」


 ルベリエのにまにまとした笑いを思い浮かべながら、彼にそんな時代があったろうかと思わずにいられない。
 悲しいかな、なかっただろう。
 そして、この未だ大人とも呼びがたい青年にも。


「それに刃傷沙汰になっても困るし、行ってきてもらえないかな?」


「……分かりました」


 一瞬の躊躇の後、リンクは渋々というふうに頷いた。
 この青年にしては珍しく、結構真剣に関わりたくない騒動らしい。
 任務とはいえ、一人部屋の床に眠るのさえ厭わない人物であるというのに。


「ごめんね、厄介な子達で」


「喧嘩をしているだけまだましです」


 溜め息交じりではあるものの、二人のフォローをしてくるリンクに笑みを浮かべる。
 話術を意図した発言なのかどうかは分からないが、始めはこんなことが言えるような人物とは思いもしなかった。
 彼のこういう面を見るたびに、ルベリエに対する信用を深める自分がいる。
 彼がなりふり構わず力を求める姿勢も何もかも理解できないほど自分は子供でも、物知らずでもないつもりだ。


「僕もそう思うよ」


 脇を擦り抜けて行く途中で、失礼しますとリンクが生真面目に告げる。
 よろしくね、と重ねて頼むと上半身を軽く捻って振り返り、彼にしては珍しく曖昧に頷かれた。

 その背中が角を曲がって消えるまで見送ると、ふ、と肺に溜まっていた息が一気に漏れ出した。
 溜め息であるには違いないが、一体原因はどこから来ているのだろう。
 まず、寝不足による疲れは上げられるだろう。
 しかしそれは慢性的な問題でしかなくて、今現在最も悩まされているのは人間関係一択だ。


「バクちゃーん……」


 弱々しくその名を呼んでみても、当然ながら本人は現れない。
 ただただ人気のない廊下に情けない声が響くばかりで、何だか心細くなってくる。

 君が好きだと言ってくれた男はこんなにも駄目な男です。

 そう、人一人に対する感情すら確定できない。
 戦いのことに必死になって、他のことを捨ててきてしまった。
 三十路も間近な人間がこんなことで普通悩まないだろう。
 妙なところで若い頃から黒の教団に飛び込んだ弊害が出ているような気がしてならない。

 どうすれば良いのだろう。
 彼女が好きかと聞かれたら、忌憚なく好きだと答えられるのに。

 それが、どの好きなのかが分からないのだ。