件の部屋まで一番短いであろうルートをバクは辿っていたようだった。
 ある意味非常に潔い。まだ使用用途がはっきりしていない部屋が並ぶ通りは人気が少ないからか、スリッパがぱたぱた鳴る音が自棄に反響した。
 その音が聞こえていないはずがないのに、彼女は振り向くどころかそれらしい反応すら見せなかった。


「――ちゃん、バクちゃん!」


 走りだしてそう時間は経っていないはずなのに、息が切れて声がうまく出なかった。
 最近の運動不足に加えて、二十九というそれなりの年月。
 思い当たる節が多々あって少し嫌になる。
 アレンに聞かれて答えたように、近い内に今までできた無茶はできなくなるに違いない。

 一度速度を上げそうな気配を見せた足はしかし、地に搦め捕られたかのような引っ掛かりを感じる止まり方をした。


「日頃の不摂生が祟ったな」


 ついでに室長失格だと罵られるが、顔はこちらを全く向く様子がない。
 こんなことはそうそうないから、やたら寂しく感じられた。
 それで、彼女がいつもこちらを見ていたことにようやっと気がつく。


「返す言葉もないです」


 まだ荒れている呼吸を無理やり押さえ付けながら、バクの正面に回って非を認める。
 日頃の云々と言えるくらいに彼女は自分を見ていたというのに、今帽子の陰になっている彼女の表情が全く分からない。
 想像が付かないということは、それだけこちらがバクを見ていなかったということだ。

 友人だなどと思っているのに、この仕打ちはないのではないのかと口内を噛み締めた。
 一体自分はこの人の何を知っているというのだろう。


「何か、情けなくなってきた……。体力云々は別だけど」


「なんだそれ……」


 軽く指を絡ませた両手で額を押さえて、力なくしゃがみこんで肘を大股に当てる。
 上から気の抜けた声が聞こえてきたから、手の間から窺うといつもの呆れた表情が浮かんでいた。
 少なくともこの表情は知っていると思うと、僅かながらに気が軽くなる。


「僕、思ったより人のことを見れてないのかなって」


「それが事実なら管理職なのを考慮して、まあ最低だな」


 当然のように下された返答にゆるゆるした溜め息で返す。


「だが、別にわざわざ支部の奴の顔色を四六時中窺わなくたって良いだろう。会議中で十分だ」


 そんな疲れることはこちらだってしたくない、という風にバクが面倒臭そうに口にする。
 確かにご機嫌伺いは面倒だけれど、別にそういう意味で言ったわけではない。


「それはそうだけど、茶化さないでよ」


「そう簡単に人一人の人となりを把握できるとは思えないぞ?」


「でも、友達を理解できてないなんて寂しすぎる」


 手越に見ていたバクの顔から表情が消えたのと、失言に気がついたのはほぼ同時のことだった。
 たとえ間接的だったにせよ、恋情を知られた相手からの初めてのインデックスが友達だなんて酷すぎる。
 何か返さなければとは思うのだけれど、やはり口も頭も錆び付いたように動かなかった。


「……バカコムイ」


「え、ちょ……!」


 首の後ろ辺りを掻いたかと思えば、すぐさまその手で腕を引かれた。
 体重移動までして引っ張られるものだから、躓きそうになりながらも着いて行く外ない。
 どこに行くつもりかと問いかける前に、バクが手近なドアノブを引いた。


「ああ、なるほど」


 バクが後ろ手で扉を閉じてから少しして、派手な足音が部屋の前を通り過ぎて行ったようだった。
 かなり近づいていただろうに、全くもって気づかなかったのは動揺のなせる業なのか。


「こんな所にいて、暇だとでも思われたら癪だろう」


「……うん、ありがとう」


 自分ではうまく笑えていたか自信がなかったが、バクは顔を伏せてああ、と小さく応じられる。
 しかしその表情はやはりといってしまってはなんだが、全く想像できなかった。


「――なっ! 何を……!」


 たとえ自分が平均を遥かに上回る長身で彼女が平均をやや下回ろうが、膝を折ってしまえば下から顔色を窺うのに不足はない。
 密かに染まる頬と引き結ばれた口元に意識を奪われている内に、こちらの挙動に気づいたバクが扉に背を押し付けた。


「駄目!」


 顔を隠そうとした腕を捕らえると、バクの目尻まで朱が掛かった。
 これ以上に揺さぶりを掛けてしまえば爆発しかねない様子に、熱が感染したような気がする。


「バクちゃん、さっきの話なんだけど」


「気にするなと言っているだろう! 今更なんだ。部下も身内もいるというのに、今更」


 本来の目的である話題を持ち出した瞬間、揺らいでいた瞳が強烈な意志を持った。
 一度叫んでから、ぎゅっと瞼を閉じて途切れ途切れに告げる言葉は少々分かり辛い。
 何とでも取れそうな物言いに、曖昧な相槌だけを返した。


「もう良いんだ、これ以上抱え込む必要はない」


 ほんの少し涙の気配を交じらせながら、バクが小さく首を振る。


 ああ、この人は。
 この人は、これ以上大切なものを持つなと言うのだ。
 確かにここでは持つことは苦しむことだ。
 友人が傷つくことと、たとえば恋人が傷つくことでは負担が全く違う。
 どちらも同じだなんて、そんな綺麗事はいえない。
 妹が死ぬのと部下が死ぬのとを己の中で同列に扱うことなどできなかった。

 大切に思われている。
 そう思うだけで、喉元が焼けるような熱を持った。


「でも、僕はまだ聞いてないよ」


「何を」


 上ずった返答が可愛らしい。
 熱病のようだと自分でも思う。


「好きって君の口から聞いてない」


 バクが息を飲んだのが分かった。
 瞬きを繰り返す度にぼやけていく虹彩をもっと間近で見たくて、掴んだままだった腕を引くとすとんとバクの膝が折れる。


「すき」


 予想以上に縁に溜まっていた涙が零れ落ちるのと、バクが陥落するのはほぼ同時だった。


「好き、だ。お前がいなくなってから、やっと気づいたんだ。ずっと、ずっとお前のことが好きだった」


 ぼろぼろと溢れ出すバクの思いに思考が一面に塗り潰されそうになった。
 ここで下がっていく顎を掬い上げ、ストイックさを醸し出す薄い唇に口づけて彼女を自分のものにするのは簡単だ。
 がんがんと耳の奥で理性のすぐ際にある本能が喚き立てるせいで、三半規管がやられてしまいそうだった。

 ぐらぐらする。
 愛を明かす人がこんなにも可愛らしいだなんて知らなかった。
 抱え込もうとする畳まれた膝が震えているとか、涙が溜まった睫のきらめきようとか挙げようとしてもきりがない。


「負担に、なりたくない」


 ふるりと指先を震わせて彼女が言った瞬間、伸ばしてはいけない手が熱を持つ肩に触れた。
 殊更小さくなっている体を抱きとめると、かすかに制止の声が漏れる。
 それでも腕の力は納まらなかった。

 可愛い。可愛い。
 そんな人がたったの一挙動で手に入る。
 ああ、でも。


「バクちゃん、ちゃんと聞いてね」


 きっとこの言葉だけで彼女は悟ってしまったのだろう、胸元に額を寄せて息を潜めてしまった。
 彼女の内に渦巻く絶望はいかばかりかと思うと、こっちまで嫌な気持ちになってくる。


「本当にあのときから、恋人とか考えたことなかったんだ。だから、バクちゃんのこともそういうふうに考えたことなかった」


 柔らかくて細い髪質に触れようと、帽子を脱がせれば肩が僅かに跳ねる。


「でもね、僕は今、君のことが可愛いって思ってる。だからここで君が好きだって言えば丸く納まるかもしれないよね?」


「……舐めたことを言うんじゃない。それに、お前にできるようにも思えないな」


 バクが不機嫌さを露にするものだから、思わず軽く笑ってしまう。
 確かに舐めた行為だし、そんな器用なまね自分にできるような気もしない。


「だからさ、僕もしっかり考えたいんだ。何があったって、僕にとってバクちゃんが大切であることには変わらないんだから」